Episode5. 温室の残響
一方で、リリアはハンスと共に、国境付近の境界紛争の現場にいた。
だが、そこにあったのは拍子抜けするほどの静寂だった。
「――和解した、というのか?」
リリアは、アルベルトの低い声を驚きでわずかに上ずらせ、眼前の代官に問い返す。
「ええ。何やら双方誤解があったようでして……」
どういうわけか、一触即発だったはずの両領地が、リリアたちが到着する数時間前に、まるで申し合わせたように矛を収めたと言うのだ。
それはあまりに効率的で、あまりに犠牲がなく、あまりに「ノイシュタインの公務」を無害に消化させた解決だった。
「そうか。……ならば、いいのだが」
だが、どうにも腑に落ちない。
それは隣に立つハンスも同じのようで、彼は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、感情を削ぎ落した声で呟いた。
「……やはり、これは」
「ハンス、何か気になることでも?」
「……いえ」
ハンスは短く否定し、そのまま身を翻す。――彼は確信したのだ。これが、王太子セドリックの仕業であるということに。
「戻りましょう、閣下。ここには、我らはもう不要の様だ」
「……あ、ああ、そうだな」
二人はすぐさま馬に跨り、来た道を急ぎ引き返した。
二人が屋敷に戻ったのは、夜の帳が完全に下りた頃だった。
リリアは着替えもそこそこに、アルベルトが待つはずの、自分の私室に向かった。
「アルベルト。今、戻ったわ」
リリアは、いつものように扉を開けた。すると、そこには普段通り、優雅にソファに腰かけ、読書をするアルベルトの姿があった。
セドリックの滞在期間前までは、私室で軍務書類を裁いていたアルベルト。けれど、セドリックが来てからは、部屋の中であっても、リリアの演技を続けている。
といっても、アルベルトは刺繍やピアノはできないため、もっぱら読書をするのみだ。
「ああ、リリア。遅くまでご苦労だったな。国境はどうだった?」
アルベルトは本から顔を上げると、リリアの可憐な声で、平時と変わらぬ穏やかなトーンで答えた。姿勢も、指先の置き方も、ハンスに叩き込まれた「完璧な淑女」のそれだ。
リリアは、対面のソファに、アルベルトの重い身体を沈み込ませる。
「それがね、不思議なことに、到着したときには全てが解決してたのよ」
「……解決していた? どういうことだ」
アルベルトの表情が、騎士公爵のそれに変わった。
リリアが事の顛末を説明すると、アルベルトはあからさまに顔を曇らせる。
「何か、気になるの?」
「いや……気になるというほどのことではない。……後でハンスから詳しく報告を受けないとわからないが、特に心配はいらないだろう」
アルベルトの、可憐な微笑み。
リリアはなぜか、その笑みに微かな違和感を覚えたが、大人しく頷いた。――アルベルトが問題ないというなら、そうなのだろう。
リリアは、この話は終わりだと判断し、最も危惧していた質問を投げかける。
「ところで、昼間は何もなかった? セドリックは、貴方のもとを訪ねてはこなかった?」
――その瞬間だった。ほんの一瞬、アルベルトの表情が凍り付いたのは。
それは本当に僅かな時間。けれど、リリアが疑念を抱くには十分だった。
「……アルベルト?」
リリアの中に、嫌な予感が過ぎる。
「……もしかして、何かあったの? セドリックと」
しかし、アルベルトは否定する。
「いや、何もない。ただ、あの男が指輪を失くしたというので、一緒に探してやっただけだ」
「指輪?」
「……ああ。結局、見つからなかったが」
リリアは首を傾げる。
セドリックは、普段から指輪をつけるような人間ではない。
「それ、どんな指輪かわかる?」
「それは……。……いや、どうだったか。…………悪い、忘れてしまった」
「?」
――変だ。アルベルトがおかしい。
失くした指輪を探したのに、その指輪の特徴を忘れることなどあるだろうか?
リリアはさらに踏み込もうとしたが、それを遮るように、アルベルトは立ち上がった。
「俺はハンスから、詳しい報告を受けてくる。……今日はもう遅い。君は休め」
「――え? でも……」
――おかしい。やっぱり変だ。
自分は、アルベルトに疎まれている自覚はある。けれど、互いの身体が入れ替わってからは、こんな風に話しを中断されることは、一度だってなかった。
それなのに。
「待って、アルベルト!」
リリアは、部屋から出ていこうとするアルベルトを引き留める。
「……何だ?」
「本当は、昼間、セドリックと何かあったんじゃないの?」
「…………いいや、ない。何も」
その声は、酷く乾いていた。
リリアは確信する。
(……絶対に、何かあったんだわ)
アルベルトをこれほどまでに余所余所しくさせるもの。その原因は、セドリックしかない。
リリアの中に、絶望的なまでの疑惑が沸き上がる。
廊下の向こうに消えたアルベルトの背中を見つめ――リリアは、震える声で呟いた。
「……確かめなきゃ。……今、すぐに」
彼女は居ても立っても居られず、セドリックの使う客室へと急ぎ向かった。




