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犬猿の仲の婚約者と身体が入れ替わってしまった 〜侯爵令嬢リリアと若き公爵アルベルトの男女逆転生活〜  作者: 夕凪ゆな
Stage2. 仮面の円舞曲

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Episode4. セドリックの甘い毒


 嵐の前の静けさ、とはまさにこのことだった。


 舞踏会の夜、あの衝撃的な幕切れから一週間。ノイシュタイン公爵邸を訪れている王太子セドリックは、驚くほど「模範的な賓客」として振る舞っていた。


 朝になれば、彼は公爵の姿をしたリリアとハンスを伴い、領内の視察や行政の報告を王太子として淡々とこなす。

 そして夜になれば、リリアの姿をしたアルベルトに形式的な社交辞令を述べ、自室へ下がる。二人きりになろうとする素振りなど、全く見せない。


 その徹底した紳士ぶりに、リリアは少しずつ警戒心を解いていった。


(舞踏会の夜、アルベルトが急に倒れたときはどうなることかと思ったけど、原因はコルセットの締め付けだったと本人(アルベルト)も言っていたし……。きっとあのときの一喝が効いたのね。セドリックも自重してくれる気になったみたいで、よかったわ)


 ――だが一方で、アルベルトは底知れない気味の悪さを感じていた。


(……おかしい。明らかに変だ。あの男が、これほどまでに無害なはずがない)


 アルベルトの記憶の中のセドリックは、いつだってリリアの側にいた。まるで、長年連れ添った夫婦のように。


 それが今はどうだ。舞踏会で踊った時、あんなにも「リリア」を求める発言をしておきながら、この一週間はせいぜい、遠くから微笑みかけるだけ。


(……まさか。セドリックは、あの夜の俺の言葉を、忠実に守っているとでも言うのか?)


 アルベルトの脳裏に、舞踏会の記憶が蘇る。


 自分がセドリックに放った「殿下はそこで、ただ、待っていてくだされば」という、身を引く覚悟の言葉。

 それを、セドリックは「リリアからの愛の約束」として受け取ったのではないか。


 だからこそ、あの男は一歩引いた場所で、彼女が自分の元へやってくるのを「信じて待っている」のではないか。


 もしそうだとすれば、それはアルベルトにとって、どんな敗北よりも惨めな結果だった。

 なせなら、セドリックのこの一週間の忍耐こそが、リリアへの「深い愛の証明」に他ならないからだ。


 ――そんな疑念に苛まれていたある日、事件は起きた。


 セドリック滞在十日目の朝。


 リリアは、国境付近で発生した境界紛争の裁定のため、急遽、屋敷を離れなければならなくなった。当然、リリアの姿のアルベルトは着いていくことはできない。

 アルベルトは、リリアをハンスに託した。


「ハンス、リリアのことを頼む。彼女を決して、危険な目には合わせぬように」


 ハンスは深く頷いた。だが、心配の色を隠せない。


「私はむしろ、閣下の方が心配です。殿下と二人きりになるのですから」

「心配するな。屋敷には大勢の使用人がいる。それに、今の俺は、どこからどう見てもリリアだろう?」


 アルベルトは得意気に胸を張る。実際は懸念がないわけではなかったが、リリアを国境に向かわせる不安に比べれば、些細なことだった。


「……そういう自信過剰なところが、心配なんですよ」

「何だ。俺を信じていないのか?」

「信じる信じないの問題では……。はあ、まあいいでしょう。くれぐれも、激昂して殿下を投げ飛ばしたりしないでくださいよ。いいですね?」

「…………」


 ハンスは残されるアルベルトを案じるように何度も振り返りながら、リリアと共に屋敷を後にした。



 馬車の音が遠ざかり、広大な公爵邸に、不気味なほどの静寂が訪れる。


 アルベルトは自室に戻り、読書を装いながら、神経を尖らせていた。

 だが、扉の向こうから聞こえるのは、メイドたちが忙しなく立ち働く音と、行き交う衛兵の足音だけ。一時間経っても、二時間経っても、セドリックが現れる気配はない。


(……来ないな。あの男)


 ……しかし、三時間が経過し、アルベルトがすっかり気を緩めたのを見計らうかのようなタイミングで、セドリックが現れた。


「……リリー。困ったことになってしまったんだ。助けてくれないか?」


 その顔は、いつもの不敵な笑みではなく、今にも泣き出しそうな、年相応の青年の悲壮感に満ちている。

 アルベルトは面食らった。

 

「……如何なさいました」

「指輪を、落としてしまったんだ。……君が以前、僕に贈ってくれた(・・・・・・・・)、あの……大切な指輪を」

「!?」


 ――指輪、だと?


 アルベルトは絶句した。


 リリアが、セドリックに指輪を贈った?

 今、確かにそう聞こえたが、気のせいか?


 もしそれが事実なら、二人の関係はもはや幼馴染という言葉では片付けられない。指輪を贈るなど、恋人、あるいはそれに準ずる特別な関係でなければあり得ないからだ。


(……そんな。本当に彼女が、こいつに、指輪を……?)


 激しい動揺がアルベルトを襲う。

 だが、目の前のセドリックは、まるで宝物を失くした子供のような目でこちらを見ている。ここで拒絶すれば「指輪を贈ったリリア」という設定が崩れる。


「……お探ししますわ。どこで失くされたのか、思い当たることはありませんか?」

「朝、温室の散歩をしていたときだと思う。……すまない、リリー。僕の不徳だ」


 セドリックの殊勝な態度に、アルベルトは毒気を抜かれた。この男がここまで狼狽えるほど、その指輪は――リリアの想いは――重かったというのか。


 アルベルトは迷いを振り切り、セドリックと共に温室へと向かった。




 色とりどりの植物が茂り、ガラス越しに柔らかな陽光が差し込む大温室。アルベルトは屈み込み、湿った土の上や葉の影を必死に探した。


(一体どんな指輪なんだ……)


 特徴を知りたくも、それを尋ねれば不審がられてしまう。アルベルトは顔を上げ、セドリックの方を振り返る。


「……ここには、ないようですわ。一度、使用人に事情を話して――」


 すると、その時だ。入口の方向で、ガチャンと、鍵の回るような無機質な音が響いた。


「……え?」


 アルベルトは咄嗟に入口に駆け寄り、扉の取っ手を掴む。けれど、びくともしない。外側から完全に施錠されている。


(どういうことだ? 今の音……誰かが、鍵を――!?)


「リリー、どうしたの?」


 背後から、セドリックが不安げに声をかけてきた。何も知らない、純粋な驚きの顔だ。


「いえ、その……どうやら、誰かが鍵を閉めてしまったみたいで……。外の庭師が、中に誰もいないと思ってかけたのでしょうか」


 アルベルトが動揺を隠して説明すると、セドリックは絶句し、酷く自分を責めるような顔をする。


「……それって、閉じ込められたってことかい?」

「……そう、ですね。端的に申しますと……」

「そんな……! ああ、僕のせいだ! ……ごめんね、リリー。僕が指輪を失くさなければ、こんなことには……」


 セドリックは両手で顔を覆うと、力なくその場に膝をつこうとした。

 アルベルトは、リリアの身体で咄嗟に彼を支えようと手を伸ばす。


「お、お気になさらないでください、殿下! 侍従がすぐに気づきますわ。ですから、そんなお顔は……」


 すると、その瞬間だった。

 アルベルトの腕が引き寄せられ、熱い体温に包み込まれる。セドリックが、アルベルトの細い腰を、縋り付くように抱きしめたのだ。


「……ああ、リリー。君は本当に優しいね」

「……っ、殿下!?」

「舞踏会の夜、君は言ったね。『待っていてくれ』と。……僕は一週間、忠実な犬のように待ったよ。君がいつ、僕の元に駆け寄ってきてくれるのかと。……でも、君はアルベルトの側にばかりいた」


 耳元で囁かれる、熱を帯びた声。

 先ほどまでの「弱々しいセドリック」はどこへ行ったのか。抱きしめる腕の力は、リリアの身体では到底抗えないほど強い。


「この一週間、耐えていたんだ。君がアルベルトの隣にいるのを……彼女は僕のものなんだって。そう叫びたくなる気持ちを、必死に抑えて……。……でも、今は二人きりだ。……ねえ、リリー。僕を見て。……僕だけを見て」


 セドリックが顔を上げ、アルベルトを見つめた。

 その灰色の瞳にあるのは、剥き出しの独占欲。


 アルベルトは咄嗟に、セドリックを投げ飛ばそうとした。リリアの細い腕でも、重心さえ捉えれば――そう思った瞬間、彼はハンスの忠告(・・・・・・)を思い出す。


『くれぐれも、殿下を投げ飛ばしたりはしないでくださいね』


 そう――今の自分は「リリア」なのだ。ここで武人の動きを見せれば、これまでの苦労が水の泡になる。リリアの秘密が、彼女の淑女としての名誉が、すべて失われてしまう。


(クソッ! 俺は、どうすれば……!)


 躊躇が、隙を生んだ。

 セドリックの長い指が、アルベルトの顎を優しく、だが逃げられない強さで掬い上げた。


「さあ、リリー。僕に『誓い』を。……あの男とは別れると、その唇で言ってくれ」

「――ッ」


 逃げ場のないガラスの壁を背に、アルベルトの視界をセドリックの容貌が埋め尽くす。

 この男は、こんなにも情熱的に、リリアを求めているのか。自分は、これほどの愛を、彼女に向けたことがあっただろうか。


 自責と屈辱が混ざり合い、リリアの小さな身体がビクンと跳ねた。


「……や……やめ、ろ……」


 リリアの声で、掠れた拒絶が漏れる。

 だがセドリックは止まらない。彼はアルベルトの頬を包み込み、そして。


 ――もう、駄目だ。


 と、瞼を固く閉じた次の瞬間――アルベルトの唇は、セドリックによって、音もなく塞がれていた。


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