Episode3. 死の円舞曲
オーケストラの奏でる旋律が、広間の高い天井に反響し、美しく響き渡る。
ノイシュタイン公爵邸の大広間。初代当主の肖像画が放つ威圧的な視線に見下ろされながら、リリアは、ホールの中央で自らの身体をエスコートし、ワルツのステップを刻んでいた。
二週間という地獄の特訓。ハンスの罵声を浴び、互いの自尊心を削り合いながら手に入れた「入れ替わりの演技」は、今のところ完璧に機能している。周囲の貴族たちは、この「不仲で有名な婚約者同士」が、義務的なダンスを卒なくこなしているとしか見ていない。
だが、リリアの心臓は、軍礼装の胸元で早鐘を打っていた。
(……落ち着いて、リリア。今、私は王国最強の騎士、アルベルト。彼に成り切るのよ。でないと、セドリックは騙しきれないわ)
リリアが極限まで意識を尖らせている原因は、上座の特等席でゆったりと足を組み、ワイングラスを傾けている王太子セドリックの存在だった。
セドリック・フォン・エシュリオン。
王国の「若き太陽」と称される彼は、リリアにとって王都で共に育った幼馴染である。しかし、その関係は決して微笑ましいものではない。
セドリックは、リリアが密かに抱くアルベルトへの恋心を、あろうことか本人以上に理解し、それを肴に彼女をからかうことを至上の喜びとする、最低な男なのだ。
かつて、リリアがまだ幼い頃、王宮で開かれたセドリックの誕生日パーティーで、こんなことがあった。
リリアが遠くからアルベルトを見つめていると、セドリックがふらりと現れ、わざと大きな声でアルベルトの名を呼んだのだ。
「ねえ、アルベルト! リリーが、君に伝えたいことがあるって――」
その瞬間、リリアは顔を真っ赤にし、セドリックの腕を強引に掴んでその場から連れ出した。
「セドリック! あっちで二人きりでお話しましょう!」
リリアにしてみれば、自分の幼稚な恋心をアルベルトへ暴露されるのを防ぐための、必死の防衛策だった。しかし、その光景を背後から見送っていたアルベルトの心中は、全く別の色に染まっていた。
(……やはり、彼女はあの男のことを)
アルベルトにとって、セドリックは将来仕えるべき君主だ。聡明で、華やかで、王者の器を持つ男。
リリアのような可憐な花には、血なまぐさい戦場しか知らない武骨な男よりも、太陽のような王太子が相応しい。
そもそも、自分は彼女に避けられるほど嫌われている。それにリリアは、自ら手を引いてまで二人きりになりたいと願うほど、あの男を愛しているのだから。
アルベルトの冷徹な仮面の裏側には、そんな「致命的な誤解」が、幾層にも重なり合って沈殿していたのである。
やがて演奏が止まり、拍手が広間を包み込んだ。
だが、二人が安堵したのも束の間、セドリックが優雅な足取りで階段を降りてきた。
「素晴らしいワルツだったよ、二人とも。……さて」
セドリックは、リリア(外見:アルベルト)に不敵な笑みを向けると、迷うことなくアルベルト(外見:リリア)の手を取った。
「次は僕の番だ。――当然、相手をしてくれるだろう? リリー」
「!」
刹那、リリアの脳内に真っ赤な警告灯が灯った。
(いけない! アルベルトとセドリックを二人きりにしちゃダメよ! あの男、絶対に余計なことを言うんだから!)
リリアは、「殿下、彼女は今日、体調が――」とセドリックを止めようとした。けれど、「リリアはセドリックが好きなのだ」と思い込んでいるアルベルトは、彼女の制止を振り切り、背を向ける。
「勿論、お受けしますわ。殿下」
そう微笑んで、アルベルトはセドリックに手を引かれて行ってしまった。
フロアの中央。
セドリックは、アルベルトの腰を抱き、ゆっくりと踊り始めた。
アルベルトは、その腕の中で極限まで論理回路を回していた。
(……いいか。俺は今、リリアなんだ。彼女の幸せを守るため――そして、俺たちの入れ替わりをこの男に悟られないためにも、俺は完璧な淑女として振る舞わなければならない。この男のリードで踊るなど屈辱の極みだが、リリアのために耐えろ……!)
アルベルトは必死に自身のプライドを抑え込み、二週間で叩き込んだ淑女のステップを完璧に再現する。それはあまりに丁寧で、優雅で――そして、悲壮な決意に満ちていた。
「どうだい、リリー。最近のアルベルトは。きっと彼のことだから、君のことを放置して、仕事ばかりしているんだろう?」
不意に、セドリックの鋭い声が降りてくる。アルベルトの心臓が、嫌な音を立てた。
セドリックは得意気に言葉を継ぐ。
「いいかい、リリー。あの男は生粋の堅物なんだ。黙っていては何一つ進展しないよ。いい加減、素直になったらどうだい? それとも、僕から彼に、君の気持ちを伝えてあげようか?」
「……っ」
瞬間、アルベルトの中で、ピースが一つに繋がった。
(……やはりそうか。セドリックは、リリアが俺との婚約を解消し、自分の元へ来るのを待っている。そして今、リリアの背中を押そうとしているのだな)
となれば、返す言葉は一つしかない。
「いいえ。殿下のお手を煩わせるつもりはありません。わたくし一人でお伝えします。殿下はそこで、ただ、待っていてくだされば」
それはアルベルトにとって、自ら身を引くという貞淑な、しかし血を吐くような決意の言葉だった。
だが、セドリックは眉をぴくりと震わせる。
(おや……? いつものリリーなら、『彼とのことは放っておいて!』と怒るはずだが。今日の彼女は、妙に殊勝じゃないか)
セドリックは、違和感の正体を探ろうと、さらに踏み込む。
「そう? でも、いつでも頼ってくれていいんだよ。僕は君の幸せを一番に願っているのだからね」
もちろん、それはリリアをからかい、その赤面を楽しむための常套句だ。だが、アルベルトはそれを「セドリックがリリアを奪う宣言」だと確信し、絶望の淵に沈んだ。
次第に、曲が激しさを増していく。
それに比例して、セドリックの疑念も深まっていく。
彼は、目の前の「リリア」に罠を仕掛けるべく、わざと複雑で乱暴なステップを踏んだ。本来のリリアなら足をもつれさせ、憤慨するはずだ。
しかし、中身は武人のアルベルトである。彼は特に疑問も感じず、天性の運動神経で難なくセドリックのリードに追従し、完璧なステップを維持した。
(……おかしい。リリーの身体能力がこれほど高いはずがない)
違和感を加速させたセドリックは、演奏が止まると同時に、最大の爆弾を投下した。
「……ごめん、リリー。少し気分が悪いんだ。長旅の疲れかもしれないな。休みたいから、部屋を用意してくれるかい?」
「…………部屋、で、ございますか?」
「そう。君に看病してもらいたいんだけど。……勿論、二人きりでね」
(――!)
アルベルトは絶句した。
『部屋』『看病』『二人きり』――その言葉が意味するものは、一つしかない。
(……この男! この場で、俺の屋敷で、堂々と不貞をはたらこうというのか……!?)
アルベルトは、二人が情事を繰り広げている凄惨な光景を、卑しくも想像してしまった。
己の忠義と、愛するリリアを公の場で辱められた屈辱。リリアの華奢な身体が、アルベルトの激昂を抑えきれず悲鳴を上げる。顔から血の気が失せ、膝がガクガクと震え始めた――次の瞬間。
アルベルトの意識が、完全停止した。
「リリー!?」
その場にずるりと崩れ落ちたリリアの身体を、セドリックが慌てて支える。と同時に、咆哮に近い怒声が、轟いた。
「彼女に触れるな!!」
――それは、アルベルトの身体に入った、リリアだった。
彼女は急いでアルベルトに駆け寄り、セドリックの腕から、自身の身体を強引に奪い取る。その瞳に、剥き出しの殺意を宿して。
「……リリアに……、彼女に、一体何をしたのですか、殿下!」
低い、地の底から響くような声。
セドリックはその射殺さんばかりの視線と、無礼を超えた罵声に、驚いたように瞳を瞬かせた。
「……いや、僕は何もしていないよ。どうやら、リリーは少し疲れてしまったようだ。……休ませてあげてくれ」
「…………その言葉を、信じろと?」
「ああ。誓って」
「…………。……そう、ですか」
リリアはセドリックを一瞥すると、意識を失った自身の身体を腕に抱いて、そのまま無言で退場していった。
静まり返る広間。
セドリックは、その不穏な空気を仕切り直すように「さあ、舞踏会を続けよう!」と高らかに宣言してから、二人が消えていった先を振り返る。
(……さっきの、アレは)
いつものように強気で言い返してこないどころか、まるで悲劇のヒロインのように自分を求めている(と見えた)幼馴染。
そして、これまでリリアを自分に譲ろうとするかの如く背を向けていたのが、獣のような独占欲を見せて睨みつけてきた公爵。
加えて、先ほどのリリアが見せた、驚くべき体幹の良さ。
――その違和感が、一つの確信となって、セドリックの体内を駆け巡った。
「……ふっ、ふは、……はははは! ……なるほど、そういうことか。……実に面白い。これほど面白いことがあるものか!」
セドリックの愉悦を帯びた笑い声は、オーケストラの音楽に混じって、消えていく。
こうして、波乱の舞踏会は、誰一人として救われないまま、暗転した。




