Episode1. 絶叫の目覚め
「……っ、ん」
カーテンの隙間から差し込む朝日が、瞼を焼く。
この屋敷の主人である若き公爵、アルベルト・フォン・ノイシュタインは、重いはずの頭を振って意識を浮上させた。
アルベルトはここのところ眠りが浅く、昨夜は特に、なかなか寝付けなかった。
婚約者リリアの成人の儀を半年後に控えた昨日、彼女に婚約破棄を告げた自責の念が、鉛のように心を支配していたからだ。
だが、どうしたことか。やけに身体が軽い。
それどころか、いつも寝台から感じるシーツの感触が、異様に滑らかで——それに。
「……? 甘い、香り?」
寝ぼけ眼で呟いた、その瞬間だった。
脳髄を突き抜けたのは、自分の口から零れ出た「鈴を転がすような、可憐で高いソプラノ」だった。
「……なっ!?」
今の声は誰だ。侵入者か。
反射的に跳ね起きようとしたアルベルトは、さらなる異変に絶句した。
身体の重心が、おかしい。いつもよりずっと低く、そして——軽い。
何より、布団の中で動いた胸元に、自分にはあるはずのない「柔らかな重み」の感触があった。
「ま、待て。これは、何だ。何の罠だ……!」
震える手で毛布を剥ぎ取る。
そこに現れたのは、逞しい騎士の腕ではない。透き通るような白磁の肌、細くしなやかな指先、そして薄い寝間着越しでも分かる、緩やかな曲線を帯びた——紛れもない「女」の肢体だった。
アルベルトは這いずるようにして、部屋の姿見へと縋り付いた。
そして、鏡に映る「モノ」を見た瞬間、公爵としての理性が音を立てて蒸発した。
「リ、リリア……!? なぜ鏡の中に、君が……っ」
鏡の向こうには、緩くカーブした美しい金髪を振り乱し、青い瞳をこれでもかと見開いた婚約者「リリア・ド・ヴァロワ」がいた。
アルベルトが右手を動かせば、鏡の中の美少女も、震える右手を頬に当てる。
その時。
壁一枚隔てた隣の主寝室から、地響きのような「野太い絶叫」が轟いた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!! いったいどういうことぉぉぉぉ!!」
……それは間違いなく、アルベルト自身の声だった。
だが、その叫びの語尾は、あまりにも聞き慣れた、婚約者の情けないほど必死な口調で。
アルベルトは、自分の美しい顔が、恐怖と混乱で引き攣るのを鏡越しに自覚しながら、掠れた声で漏らした。
「……神よ。これは、何の冗談だ」
次の瞬間。
バタンッ! と乱暴に扉が開き、そこには——
寝間着の胸元をはだけさせ、筋骨隆々とした逞しい体躯を震わせながら、乙女のように内股で立ち尽くす自分の姿があった。
「……ア、……ア……アルベルト! 今すぐ説明なさい! どうして、どうして、私が、貴方になっているの!?」
リリアの部屋で、アルベルト(中身はリリア)の低い声が、裏返った悲鳴となって部屋に響く。
闇に溶けるような漆黒の髪と、切れ長の濃紺の瞳。身長は二メートルにも届きそうなほど大きく、王国最強の騎士と謳われるアルベルト。
そんな自分が、痛々しいほど顔を青白くし、今にも卒倒しそうになっている。
「お、落ち着けリリア、声を低く! その体でそんな悲鳴を上げたら、屋敷中の使用人が飛んでくる!」
リリアの身体に入ったアルベルトが、可憐な指先で己の額を押さえながら、低く鋭い声で制した。
ここは、軍事大国エリュシオン王国の辺境、ノイシュタイン公爵邸。
二人は幼馴染であり、半年後に結婚を控えた婚約者同士だ。
リリアの成人式まで半年というこの時期、慣例に従って彼女は公爵邸で「花嫁修業」という名の実質的な監禁生活を送っていた。
だが残念なことに、二人は壊滅的に不仲だった。顔を合わせれば言い争いか、冷たい沈黙だけ。
そんな冷え切った関係に終止符を打つべく、アルベルトは昨夜、リリアに婚約破棄を突きつけた……歴史的な最悪の日だったはずなのだ。
それが、どうしてこんなことになってしまったのか。
リリアはもはや、昨夜の婚約破棄のことなど忘れてしまったかのように、アルベルトに詰め寄る。
「落ち着けですって!? この状況でどうやって落ち着いていられるの!? こんな……っ、こんなことって……! それにっ、……私の、私の体が、そんな……そんな可愛げのない顔をして、あぐらをかいているなんて!」
「あぐら? ――ハッ! 仕方ないだろう、中身は俺なんだから」
リリアの姿をしたアルベルトは鼻で笑うと、おぼつかない足取りで窓の前に向かい、これが現実であることを確かめるように、鋭く目を細めた。
北国の短い春。庭園にはまだ雪解けの泥が残り、厳しい冬を耐え抜いた黒い大地が広がっている。
魔法など存在しないこの世界において、奇跡や呪いはただの迷信だ。あるのは厳格な序列と、血筋という名の契約だけ。
「リリア、よく聞け。こんな事態、すぐには信じられないだろうが……残念なことに、これは現実だ。どうやら俺たちは、中身が入れ替わってしまったらしい」
「……そんな。……いえ、だからって、どうしろと言うのよ? まさか、私にこの姿のまま過ごせだなんて言わないわよね?! それに今日は、大切な閣議がある日でしょう?」
「君こそ、王都から来た毒舌な伯爵夫人たちとの茶会があるはずだ」
二人は同時に沈黙した。
もしこのことが露見すれば、「公爵は狂った」と見なされ、王弟派に付け入る隙を与える。
リリアもまた、精神に異常をきたした令嬢として修道院へ送られるだろう。
「……リリア。屈辱だろうが、提案がある」
アルベルトは、リリアの華奢な手で、己の太い手首を掴んだ。
「入れ替わりの原因が判明するまで、婚約破棄の話は一時凍結だ。君は俺として城へ行け。俺は君として、この屋敷で淑女を演じる」
「……私が、閣議に? 無理よ、殿方たちの集まりに参加するなんて! そもそも、私に貴方の代わりが務まると思うの!?」
「俺だって、令嬢たちの嫌味の応酬に耐えられる自信はない! だが……やるしかないんだ。バレれば、二人とも破滅だぞ!」
その時、寝室の扉が軽くノックされた。
「リリア様。朝食の準備が整いました。……開けてもよろしいでしょうか?」
リリア付きの侍女の声だ。
二人は飛び上がった。
アルベルト(中身リリア)は、慌てて公爵らしい威厳を作ろうとして、ベッドの脚に弁慶の泣き所をぶつけて悶絶した。
リリア(中身アルベルト)は、瞬時に「淑やかな令嬢」の可憐な微笑を顔に張り付け、震える声で答える。
「……ええ、いいわ」
――こうして、絶望と覚悟が入り混じる中、エリュシオン王国で最も奇妙な「男女入れ替わり生活」が、幕を開けた。




