4 風来坊、また旅に出る
翌朝、小鳥のさえずりがあたりに響くほど森が静かなうちに、リフは荷物をひっくるめて里を出た。銀果樹の里随一の風来坊は、最初に里を出たときだけは妹に出立を告げたが、それ以降は誰にも告げず、気が向けばふらりと旅立ってしまう。エルフならどこからでも精霊便が使えるから、わざわざ別れを知らせるほどでもないと思っている。
リフは寝癖の残る頭をかいて空を見上げる。梢の向こうに見える空にはうっすらともやがかかっている。普段早起きのエルフたちも、昨日の騒ぎにくたびれたのか、家から出てこない。
絶好の旅立ち日和だ。リフは銀果樹を一つもぎとって、丸い実に触れた。びっしりと短い毛に覆われた実は、日の光を受けると銀色に輝く。皮をむくと中から果汁とともに甘酸っぱい匂いがあふれでた。リフは皮をむくのもそこそこに、やわらかい果物にかじりつく。
「言ってくれれば、むいてあげたのに」
木陰から枯草色のマントがひらめいたのが見えて、リフは残りの銀果樹を丸ごと口に放り込んだ。エスは大きな緑色の瞳を丸くしたのち、盛大にため息をつく。
「バカ、種ごと飲みこむなんて。汁も垂れてる」
ハンカチを手にしたエスフィアから、リフは背をそらして逃げる。口元を袖でごしごしと拭いて、あわてて荷物を背負った。見つかるとは思ってもみなかった。
「もう行くの?」
やさしい色の金髪が、さらりと肩で揺れた。旅立ちを見つかるのはばつが悪くて苦手だ。リフが視線をそらしたままうなずくと、エスは再びため息をついた。
「いつか帰ってくる?」
かすかにうつむいたエスフィアの気弱な仕草が珍しい。リフは気休めの言葉が喉の上まで出かかるのを、ぐっと息を飲んでこらえた。
「こんな里、もうぜってー帰ってこねェ。我慢は苦手だ。一人の方が楽だ」
ことさら渋面を作って告げた言葉に、エスは眉をはねあげる。
「自分だけ逃げるなんてずるい」
声を荒げたエスフィアの口元にわずかな笑みが浮かんでいるのを認めて、リフは肩をひょいとすくめた。
「どうせ今日の夜には、魔法銃の話が里中に知れ渡るんだろ。田舎にゃ娯楽が少ねェからな。銃みたいな人間の道具を使うなとか物騒だとかうるさくなる前にトンズラだよ」
エスの緑色の目がわずかにかげったのを、リフは見逃さなかった。
「なんだ、もう言われてんのか。早いな」
自嘲したリフを見つめて、エスフィアはふんと鼻で笑った。
「わからず屋はこてんぱんにしてやったわ」
「お前、敵だとたまらなくイヤだけど、味方だと心強いな」
二人の金色の髪を木漏れ日が照らしている。冗談を言い合ううち、ぽつぽつと会話に空白ができるようになって、ついには沈黙になった。精霊が風に乗って通り過ぎたとき、リフはいつものように頭をがしがしとかいて「じゃ」と短く告げた。
「リリィによろしく伝えてくれ。じゃあな」
銀果樹の下で手をふるエスフィアに背を向け、リフは再び旅に出る。大樹の根を飛び越えて川で水浴びをし、夜には木の上で眠るような、気ままな暮らしだ。目的地は特にない。決して快適とは言えないが、性に合っている。森を抜けて街道を進み、さらにまた別の森に入る。何度もくりかえすうち、銀果樹の里とは別のエルフの村や人間の国、海の向こうの大陸へとたどりつく。
愛用の魔法銃と旅をするリフの元へはときどき、エスフィアから精霊便が届くようになった。たとえばそれは、シチューを作ったらおいしくできたとか、銀果樹の花が咲いたという日々の暮らしの報告だ。リフは、こんなことにわざわざ精霊便を使うなよと呆れながらも、うれしさを隠せない。里での暮らしが手にとるようにわかる。
リフは故郷のことが懐かしくなると森へ向かう。銀果樹の里に限らず、森の中にいると、自分が大きく羽を広げているような気分になる。エスフィアの瞳の色と同じ緑の気に満ちた空気を吸い込んで吐き出すと、遠く離れた場所にいても、自分には故郷があるのだと実感する。
決してエスフィアに告げることはないけれど、そんなとき、風来坊のハーフエルフはもう一度故郷に顔を出してもいいかなという気になる。
<おわり>