第八話 呼ばれた意味を・中編
じわじわと、静寂が周囲に漂っている。視線を合わせるように膝をついて、声が聞こえるように意図的に感覚を鋭くさせた。静寂は乱されぬまま首をもたげ、緩慢な動きで視線は絡む。
「────」
「アランさん」
深い闇の奥に手を伸ばすような。重力の強さに視界を歪ませてしまうような。紅の瞳はどろりと色を滲ませる。
黒い物質は泥のようにその手を汚していた。血の気を失った指先が血を巡らせる前に持ち上げられたその手首を掴む。その間に生まれるものが信頼であるように、この間に繋がる糸はあくまでも正気であるように。
「アランさん。俺です。皇志葉です」
言葉はまだ遠いかもしれない。けれど、ここで適切な距離感をとるわけにはいかなかった。気配が違う、色が違う、殆ど本能的な判断と言って差し支えはないけれど……それでも確かに、今のアランさんは”管理人”ではないと言い切るだけの理由があった。
「……」
言葉が純粋に届いていない。それは音が意味を持たないということでもあるし、音に意味を見出だせないということでもある。名前すら届かないとはどういうことだろう、近い現象を見たのは恐らく東雲のときだった。
「……名前が違う?」
「名前が?」
朱鳥がきょとんとした表情で俺の言葉を反復する。そうだ、名前。何故かは分からないがアランさんへ言葉が届かない理由の一つに名前の差異がある。……アランさんもまた、何らかの事情で名前を偽っているのだろうか、仮に偽っているとして、本当の名前は何なんだろう。
「名前……」
「――――アレン」
「えっ」
静かに告げられた名前に、俺だけじゃなくアランさんも視線を向けた。殊更に薄くなった色彩が俺達を映している、正確には、透き通るような瞳がアランさんを映し、全てを晒さんとしている。
「東雲……?」
「とぉう……」
流石にこのタイミングで東雲まで正気を失われるのは困る。咄嗟にとあの様子を確認したがただ困惑しているだけに見えるので……恐らく、まだ大丈夫だ。
「……アレン、さん」
告げられた名を呼ぶ。ゆらりと向けられた瞳の奥に微かな光が見えて、何事もなかったかのように口が開かれる。
「……██の弟子か?色を見る限り倅のようだが――――」
「?」
「…………成程人違いだったか。すまないな」
「みゅー!」
おかしい、そう判断は出来ても何が起こっているのかまでは判断出来なかった。混乱の隙をついてみうがアランさんへと駆け寄る、黒い物質に足を取られかけたみうを、アランさんはいつものように丁寧な動きで支えていた。
「みう?どうして…………いや待て、誰だこれは。俺が知らない……違うな、今生の記憶というべきか?とにかくこの個体にとっては知り合いだということは理解した。……成程?あまり善くない術式が使われたのか」
「……あんたは、アラン……アレンさんじゃない、のか?」
「魂としては同一だ。だが、お前も薄々気付いているように人格としての記憶が違う。そもそも俺に名という概念は薄かったからな」
人格としての記憶。……そんなものが引きずり出されるほどにアランさんの状態は酷いのか。
面白かったらブクマや高評価お願いします。喜びます。