逃げる少女
「おい。いつものクラゲはどうした?」
パラボの呼びかけにイルカは答えなかった。
格納庫にやって来たのはイルカひとりだ。いつも一緒にいたクラゲーー支援AIの≪タロ≫はいない。もちろん、停電のとき支えてくれたカザリもいない。
イルカは並んでいる機体を前にして訊いた。
「……わたしのヤドカリは?」
イルカの脳裏にはカザリとタロが浮かんでいた。
ふたりは専門的な会話をして、何やら計画している様子だった。
イルカは蚊帳の外だった。難しい話の前では、自分はなんの役にも立たない。とても、みじめな気分だった。
ーーいつだって、わたしはひとりだったじゃないか。
宇宙では音がなく、誰かとすれ違うこともない。生身では生きていけないし、移動すらままならない。
けれど、ヤドカリの中にいれば安全だ。水と空気の中で過ごせるし、移動だってできる。
これから何かが起きて、このステーションが地球に落ちようと関係ない。もう、ひとりで良かった。だから、イルカは格納庫に来たのだ。
「あ? もう調整済みだよ。いつでも出せる」
だがな……。そう言って、パラボは一枚の紙をイルカに突きつける。
「……何これ? 請求書?! ツケにしといてよ」
「うるせえよ。ステーションが落ちるんだろ? だったら、ツケは精算しなきゃなんねえ」
イルカには、もちろん貯金なんてない。採掘品と交換で物資こそもらっているが、余裕なんてないし、修理費にしてもーー。
「ヤドカリの掟でしょう? 出来る者は出来ない者を助ける。パラボは修理できる、だから……」
「掟を破ったのはお前だ。イルカ。そのまま逃げるなら、ツケを払え」
その言葉に、イルカはパラボを睨みつけた。パラボは、自分より頭ひとつは大きい。腕も太い。生身では敵うはずがないけれど。
「自分の命が最優先でしょ!」
「掟だ。仲間のために、働け」
イルカは無言のまま拳を握りしめた。理屈はわかっていた。けれど気持ちが、心がもう囚われていた。
ヤドカリの掟で助けられてきたことは否定しない。でも、自分が宇宙の無音と暗闇に閉じ込められていたとき、誰も助けてくれなかった。
周りの小さな声が少しずつ消えていって、自分の呼吸音だけがコンテナに響いていたとき、誰の声も聞こえなかったのだ。
「もう……嫌なんだよ。宇宙は怖いんだ。誰の声も聞こえなくて、寒くて、息ができなくなるんだよ」
「……」
「お願い……。このまま見逃して」
イルカは声が震えるのを無理やり抑え込んでバイザーを被る。これで、外の音は聞こえない。何も聞かなくていい。
イルカの足が、パラボの横を超えようとしたときだった。
『昨日 言い過ぎちゃった ついつい』
「っ!」
『えらそうに説教して やだごめんね』
耳に流れてきた暖かさに、イルカは足を止めた。声の主は、振り返らなくてもわかっていた。
「……もう少し聞いていかない?」
「何を言いにきたの。カザリ」
「別に。お別れをとでも言ったら納得するのかしら?」
皮肉めいた言葉にらイルカは振り返る。
そこには、≪タロ≫に繋がってイルカに通信している、カザリの姿があった。
「……何なのその格好」
「手伝って」
カザリの言葉は有無を言わさない迫力があった。言葉だけではない。彼女は船外活動用の簡易アーマーを身につけている。まるで、そのまま宇宙に飛び出そうとでも言うような格好だった。
「……言ったはず。歌いながら身投げするのに付き合う趣味はないの」
≪否定。カザリの作戦には、一定の成功確率があります≫
「タロ!!」
タロとカザリを繋ぐワイヤーの色は、オレンジから青を行ったり来たりしている。イルカにはわかった。それは、警告とまではいかずとも、危険であることを知らせる色だった。
「時間がない。聞いて。わたしはこれから外に出て歌う。タロには周囲のAIと連携して、なるべく多くの人に、わたしの声を届けてもらうわ」
「こんなときに歌姫気取り?」
「いいえ。燃料になるのよ。あなたと、敵の!」
イルカには意味がわからなかった。作戦も、今さら歌う意味も。タロの勝算もだ。
無言で二人に背中を向ける。進もうとしたとき、背中に強い衝撃を受けた。
「お、おい」
イルカは倒れて、うつ伏せになった。重くて身体が動かせない。バイザー越しの後頭部に、コツンと軽い振動がした。
「お願い。助けて。わたしが宇宙で頼れるのはイルカ。あなたしかいないの。あなたをひとりにしようとしたわけじゃないの。頭を働かせていると、何も見えなくなっちゃうのよ」
「カザリ……」
「あなたみたいな人に会えて、嬉しかった。自分をまったく知らない人よ。あなたがいなかったら、わたしは宇宙でも『プレアカのお嬢様』にしかなれない。だから……お願い。力を……貸して」
イルカはここでようやく、カザリがどういう子なのかを、少し理解できた気がした。
イルカの知るカザリは、単身宇宙に飛び出して歌う大馬鹿で、地上の常識を宇宙に持ち込んで大惨事にしようとする大アホで、そのくせ物分かりと頭の回転がやたら早くてーー。
「……ははっ」
「な、なによ……」
「バイザーつけて泣くもんじゃないんだよ。無重力に行くと水滴になって邪魔だから」
「えっ。えっ」
イルカの身体が軽くなった。それは、カザリが自分の背中から降りたからというだけではない。
彼女と自分は、どこかでとても似ているのかもしれない。イルカはそう思った。
「……で、何をやればいい。優しいお姫様」
「ありがとう。みんなを、助けるの」
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「パラボ。これ、本当に動くの?」
イルカは、自分のヤドカリのコクピットで様々な調整をしながら、問いかけた。
「あぁ。だが、反応値はいつもよりあげておけ。おまえの『ヤドカリ』が動くのと『ヒトガタ』の反応には少しラグがある。あと、三人称視点は使うな。HUDも腕と足で固定だ」
「はいはい」
イルカのヤドカリは、大型外装である『ヒトガタ』の中にいた。元々は輸送船やステーションの機材などを曳航するための代物で、いつも使っているヤドカリの何倍も大きく、力も強かった。
「わたしの座標と周波数は絶対消さないでね」
「カザリが宇宙で溺れないかの方が心配だよ」
≪否定。姿勢制御は私が行います≫
≪タロ≫のいつも通り無機質な声が、イルカには妙に自信満々に聞こえる。案外、電子回路の中は燃えているのかもしれない。
「きっと大丈夫。私が敵の船を抑えているから」
「うん。タロウさんたちが船とヤドカリ無力化するまで、わたしは歌う」
作戦では、カザリの歌をパスワードにすることでタロや他のAIを守るらしい。歌詞が桁数となって増えていくほど、解読は難しくなる。
「歌を聞いて、助けが来るかもしれないーーか」
「信じてないの?」
「いいや。それは一度、経験があるから」
イルカが暗闇と静寂から救われたのは、歌姫の咲かせた宇宙の花だ。カザリなら、自分を救おうとしてくれた彼女なら、もしかするかもしれない。
「イルカ、出ます」
大きな振動とともに、イルカの『ヒトガタ』は宇宙に飛び出した。