第六話 家
南朝の宋の時代に起きたことである。
夕暮れ時、湘東のある街の端のたもとで、少年が座ってひたすらに河へ石を投げていた。
「坊や、どうしたの。お家に帰らないの」
少年が振り向くと、長い爪をした女が立っていた。
少年はこの爪で背中を掻いたらきもちよさそう、などと考えた。
「かかないわよ」
そう言って、女は少年の横に座る。
「あの家、変なんだ。帰りたくない」
少年はまた石を投げる。
小石が水面を跳ねて、飛んでいく。
「どんな風に変なの」
少年は俯いた。
「父さんや、母さん、兄ちゃんたち以外に、だれかいる。なんか、かもしれないけど。そいつは変なやつで、悪いやつだ」
少年は手の中の石をじゃりじゃりと転がす。
「そいつはいつもいるの」
「たぶんいつもいるんだと思う。でも、隠れてるときと出てくるときがあって、出てきたときは嫌な臭いがする。傷んだ魚みたいな」
「きみはそれがわかるのね」
「父さんに言ったら怒られるし、母さんはもうすぐ引っ越すから我慢なさいっていうし、誰も信じてくれない。……おねえさんは、ぼくの言うことを笑わないんだね」
女はどこか遠くを見ている。
「笑わないわ。それは、私の住む世界の話だもの。きみに覚えておいてほしいことがあるわ。よく聞いてね」
女は少年の頭に手を置いた。
「自分の感じることを大切になさい」
その声はまるで老婆のようだった。
少年が顔を上げると女は既に消えていた。
どんなに不気味な家でも子供は家に帰らなければならない。
少年は帰路についたが、その脚は家の前ではたと止まった。
むせかえるほどの悪臭が家から漏れ出ていた。
いる。
あれがいる。
少年の脚はがくがくと震え出した。
“自分の感じることを大切になさい"
少年は踵を返すと、わあわあ泣きながら夕闇の街を駆けていった。
◇
その家では、少年の父の昇進祝いと送別会を兼ねた宴が催されていた。
「ぬはははは。この家も私が買う前は、やれ凶宅だのなんだのとくだらん噂がありましたが、私が来てからは何事もなく家運は増すばかりで、この度も栄転する運びとなりました。鬼だ幽霊だといったものは、まったくどこにいるのでしょうな。この家も、これからは凶宅どころか吉宅となるでしょう。ただで置いていきますから、お集まりの方で住みたいという方はどうぞご自由にお住みなさい」
そんな事を言って少年の父は酒を飲み干す。
少年の乳母がそっと近寄って耳打ちする。
「なんだと、馬鹿もん、早く探しにいかんか」
少年の父は乳母を怒鳴りつける。
「李大人、どうなされましたか」
「あ、いや、なんでもありません。さあ、みなさんどんどん料理も酒もおあがりください。私はちょいと厠へ」
少年の父は廊下に出ると怒気を露わにした。
末の子が遊びに出たまま戻ってきていないらしい。
末の子は何を考えているかよくわからず、陰気で、可愛くない。
帰ってきたら折檻の一つでもしてやらないといかんな。
そんな事を考えながら厠に向かうと、廊下に筵を巻いたような奇妙な物が浮かんでいた。
長さは五尺ばかりで、白い。
少年の父は座敷に引き返して、刀を取ると、その物体を斬りつけた。
筵のようなものは二つに分かれると、それぞれが白い人型のなにかになった。
少年の父はその二人をさらに横殴りに斬りつける。
二人は四人になった。
四人の白い何かは、少年の父から刀を奪い取ると、その場で斬り殺した。
そして、それは座敷に乱入して、その場にいた人々に襲いかかった。
客人はみな一命を取り留めたが、その家の者、李姓の者は皆死んだ。
この時、家を離れていて独り生き残った少年が、後に湘東の太守となった李頤である。