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第二話 白亀

 晋の世のことである。

毛宝もうほうという若者が長江のほとりを歩いていると、鼻腔に甘い香りが漂ってきた。

ふと辺りを見回すと、麻姑之店まこのみせと書かれた幟の下に御座をしいて一人の女が商いをしている。

女は歳の頃は十八くらいに見えて、肌は透き通るように白く、唇は桜色で、つぶらな目に小ぶりな鼻を備えた麗人であった。

髪は天辺で小さなまげを結っていて、その余の髪は長く腰まで伸ばしていた。

服装も露店などをしている女の割には錦の艶やかな着物を着て麻で織った披肩ケープを羽織っている。

長い下衣が何やら古風に感じられた。

しかし、何より目を惹くのは、その長い爪である。

毛宝は、この長い爪で背中を掻いてもらったらさぞ気持ちよかろうな、と思った。


「かきませんよ」


「えっ」


「かきませんから、私」


今しがたの妄想を言い当てられて、毛宝はぎょっとした。

女はにこにこと笑っている。


「さあ、今日の商品はこれだけです。ご覧ください」


女が木の枝でござの上の鉢を指す。

水をはったその鉢の中には小さな亀が泳いでいた。

毛宝が驚いたことには、その亀は甲羅も手足も、そして頭も白く、目は赤く光っているのだった。

しかし、手脚をばたばたさせて鉢を出ようとする様はいかにもいじらしく、可哀想に思われた。


「幸運をもたらす神亀でございます」


先ほどまでと違い、女の声は低く、老婆のようであったのに毛宝は驚いた。

畜類にはときおり白いものが現れる。

珍しいので瑞兆だなんだと皇帝に献上されたり、見せ物に使われ引き回されて、その内に死んでしまうのが常だった。

値段を聞くと結構な額だったが、買えないこともない。

毛宝は亀を購入すると、そのまま長江の流れにその亀を投じた。


「もう二度と捕まるなよ」


亀の白い首が水面に浮かび、毛宝を振り返ったようだったが、すぐに水中に消えた。

毛宝が亀を逃したのは、美人の前で格好をつけたかった、という面もないではない。


「幸運も一緒に逃げてしまうかな」


振り返ると女も、幟も、ござも、跡形もなく消え去っていた。


 二十年余が過ぎた。

激動の世の中は毛宝の地位も大きく変えた。

毛宝は予州の刺史しし、現代でいうところの県知事のような役職にまで昇っていた。

忙しく働く内に若い頃にあった奇妙な出来事などもすっかり忘れていた。

しかし努力して得た地位も一朝にして失われるのが乱世である。


ちょう石季龍せききりゅうの軍が迫っています。その数、五万」


部下が青い顔で報告する。

石季龍とは、すなわち石虎せっこのことである。

叔父だった石勒せきろくの遺児を殺害して趙の帝位を簒奪し、晋との国境を度々侵犯して暴虐の限りを尽くしている。

毛宝ら晋の人間からすると、悪鬼か妖魔の頭目のように恐れられた残虐無道の王である。

毛宝は直ちに防備を整えて迎え撃った。

数週間は持ち堪えたが、遂に城中の食糧が尽きた。

すると、城の内から敵に唆された離反者が出て、ついに城門が破られてしまった。

毛宝はやむを得ずから城から逃げ出したが、供回りの兵も次々と打ち取られ、遂には単騎となってしまった。

逃げに逃げて、気がつけば目の前には長江の広大な水面が広がっている。

既にこの大河を渡ろうとして水死した避難民や兵士の屍が浮かんでいる。

しかし、背後を振り返ると追手の松明の灯が近づいてくる。

毛宝は一か八かで、長江の水面に飛び込んだ。

衣服は濡れて重くなり、身体はどんどん沈んでいく。

やはりだめか、毛宝が目を瞑ったそのとき、脚が何か硬いものに着地した。

その硬い地面はゆっくりと競り上がりつつ、対岸へ向かって動き出した。

不思議な動く地面に乗って、毛宝は遂には対岸へとたどり着いた。

岸にへたり込んだ毛宝が振り返ると、七尺はあろうかという巨大な白い亀が水面から首をもたげてこちらを見ていた。


“幸運をもたらす神亀にございます”


毛宝の脳裏にいつかの女の声が響いた。

毛宝は白い亀の目、不思議と恐ろしくはないその赤く光る目としばらく見つめあったが、やがて静かにその亀は水中に戻っていった。

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