最終話 麻姑
「私も、麻姑と名乗るひとから、血を受けてこのようになった」
私は、彼女の手を取った。
あのひとは続けた。
「永遠を生きることが出来ても、心は老いる。世の中の変化についていけなくなる……いつしか不死の世界から降りたくなる。それがわかっていながら、同類をつくってしまう。看取ってくれる人が欲しいから」
私は彼女の手を握りながら、言った。
「あの時、生きながらえさせてくれたこと、恨んでいない。どうしてほしいのか、言って」
彼女はしわがれた声で返した。
「私の血を一滴残らず飲んで。私は死に、貴女が次の麻姑となるのよ」
◇
明治の末年の事である。
その頃の私は新聞記者として、蒸気機関車で全国を飛び回っていた。
出張から帰ってくるたびに、東京の千駄木はD坂にある骨董屋に入り浸るのが定番となっていた。
というのも、そこの女主人が雰囲気のある人で、私の興味をそそったからだ。
彼女は、とても若く見えることもあれば老成しているように見えることもあり、モダンに洋服を着こなしていることもあれば、唐物の生地を使った和装に身をつつんでいることもあった。
どんな格好をしていても、麻のケエプと長い爪は共通しているのもなんだか不思議であった。
しかし、最も私の興味を惹いたのは彼女の見た目ではなく、彼女が扱う骨董品にまつわる大陸の不思議な話であった。
「いやあ、麻姑さん、ご無沙汰しております。先週までは九州にいたんですよ」
女主人の麻姑は、お茶を出しながら微笑んだ。
「あら、わたくし、九州は行ったことがありませんのよ。どんなことがあったか、たまには貴方のほうから話を聞かせてくださいな」
今回の旅では確かに奇妙な話があったので話すには困らなかったが、それは少し不気味な話であった。
◇
私は取材の仕事で九州を渡り歩き、その中で久留米のある旅館に泊まった。
旅館はその土地屈指の旧家であるらしく、店構えも内装も立派なものだった。
老主人夫婦も若主人夫婦も甲斐甲斐しく世話をしてくれたし、店の者も女中もしつけの行き届いており、良い宿を当てたと私は喜んだ。
ただ一つ気になったのは、若主人夫婦の娘達の淫らな姿だった。
良い家の女なのだから着飾ることも不思議ではないが、その姉妹は度を超えていた。
髪は盛りに盛ってくるくると結い上げ、紅や白粉は元の顔がわからないほどに塗りたくり、服は目の痛くなるような極彩色の着物を着ていた。
その様子は、酌婦のような派手好みといった領域を通り越して、婆娑羅とでもいうべきか、一種の狂気を感じさせるものであった。
逗留している間に、私は地元の雑誌社の男と親しくなった。
私が彼と連れ立って渓流に釣りに行くと、例の姉妹が若い男の両脇にへばりついて何やら森の方へ消えていくのとすれ違った。
「須田屋の色きちがいが、昼日中からようやるぜ」
雑誌記者は苦々しげに言った。
「なにか事情を知っているんですか」
男の話はこうだった。
旅館である須田屋の姉妹は親のしつけも行き届いており、大人しくて真面目な少女達だった。
それがほんのニ、三年前に急に人が変わったようになってしまった。
姉妹は急に派手好みになり、また淫蕩になった。
周囲の若い男に淫らな声をかけるようになって、親が叱っても一向に言うことを聞かない。
困り果てた両親が親類のところに預けたが、そこでもすぐに男を作ってしまう。
それも、決まった相手と恋愛するのでない。
出前持ちやら、新聞の売り子やら、手当たり次第に関係を持つので、預けられた方でも呆れてしまって送り返されてしまう。
実家に戻ってきたら、今度は泊まり客とまでそういうことをするようになった。
人が変わったようになった他は異常がないので、頭の病院に入れるわけにもいかず、まことに両親は気の毒である。
「急に人格が変わるなんてことがあるかね。何か原因に思い当たる節はないのですか」
男はしばし思案した。
「そういえば、ニ、三年前にあそこは家の普請をしたな。くだらん喧嘩があったけど、いや流石に関係はないと思うが……」
「まあ、そう言わず詳しく教えてくださいよ」
かの旅館は長い廊下で主人一家の屋敷と繋がっている。
四年前の大雨で屋敷部分に被害が出たので、いっそ建て直してしまおうと地元の大工に依頼をした。
強面の親方と、七、八人の若い大工が施工のために出入りをしたが、その中に酉山という男がいた。
「酉山は非常な働き者で腕はとても良かったらしい。親方も目にかけていたし、須田屋の主人も可愛がっていたそうだが……」
酉山は鹿児島弁を喋ったが、朝鮮だか琉球だかの出身だといううわさがあった。
本人はその話を振られると曖昧に濁すだけだった。
普請が始まって三月ほど経ったある日、事件が起きた。
酉山が親方や主人夫婦の目を盗んで、姉妹と二人きりの時に急に猥褻な言葉を投げかけたと言うのである。
驚いた姉妹は主人夫婦に泣きつき、酉山は親方にしこたま殴られた。
あまりに殴るので、本当は怒る側になるはずの主人夫婦が止めに入ったのだという。
酉山もはいつくばって謝り、主人夫婦は彼を許した。
しかし普請が完成する直前に、酉山は姿を消した。
話をそこまで聞いた時、森の方で男の叫び声が聞こえた。
私たち二人は渓流から道に戻ると、林道から先ほど姉妹と森に消えた男が飛び出してきた。
「た、助けてくれっ。女たちがおかしくなって」
男の肩口には斬られた痕があり、流血していた。
男の背後から奇声を上げて例の姉妹が飛び出してきた。
姉妹は刃物を手にしていた。
私たちは駐在や街の男衆を呼んだ。
姉妹はまるで獣のように暴れ回り、十人がかりでようやく取り押さえることが出来た。
◇
私は事件の顛末を麻姑に話し終えた。
「そういうわけで、姉妹はようやく精神病院送りになりました。まあ、両親にとってはかえって良かったかもしれませんね。これで話は終わりです」
麻姑は長い爪で机をとんとんと叩いた。
「いえ……終わっていませんね。電報ってやつ、打てますか」
麻姑の突然の提案に戸惑いながらも、私は言われるがままの文面を依頼に電報所に行った。
ヤネウラサガセ デタモノヲヤケ
これを須田屋宛てに送って後、長い手紙が須田屋より届いた。
以下、要約である。
電報に従い屋根裏を改めたところ、姉妹の部屋の屋根裏から、奇怪な木像が出てきた。
それは怪しい獣と少女がまぐわっている姿を彫った不気味な像であった。
酉山が置いていったのかとも思うが、わからない。
菩提寺に行って住職に炊き上げてもらうと、病院に入っていた姉妹が正気を取り戻し、淫蕩の様子も消えた。
姉妹はここニ、三年の出来事をまったく覚えていないので、親としていたわりながら接していくつもりである。
像を焼いた数日後、近所の川で酉山らしき水死体が見つかった。
これも因果はわからないが、一つ不安が消えたのでほっとしている。
ともかくも、感謝してもしたりないので……(以下略)
私はこの手紙を持って麻姑の店に向かったが、そこはもぬけの空になっていた。
道ゆく人を呼び止めて、ここにあった骨董屋はどうなったと聞くと、十年以上前から空き家であるとの事だった。