第十六話 板橋三娘子
唐の元和年間のことである。
汴州の西に板橋店という宿屋があった。
店の姐さんは三娘子という三十がらみの女で、どこから来たかは誰も知らないが、独り者で、他には身内も、奉公人さえもいなかった。
家は幾間にか区切られ、一階が酒楼として客に飲食を提供し、二階が客室であった。
その女は甚だ富裕であるらしく、宿屋の裏に設けた厩舎で沢山の驢馬を飼っていた。
荷駄がなくて困っている人があると、その驢馬を安く売ってくれるので、世間でも感心な女だとして褒めていた。
◇
許州の人、趙季和という者は、旅の商人である。
ある時、彼はこの板橋店に一泊することにした。
趙が店に着いた時、既に五、六人の先客がいた。
店主の三娘子は妙に艶っぽい女で、旅客の男たちはこの美女の勧めるままに良い気になって酒盃を次々と空けていた。
趙はといえば、彼はまったくの下戸だったので、酒には口をつけずに賑やかな店内を眺めていた。
夜になると、酔客たちはふらふらと客室に上がっていった。
深く酔っているためか、他の客室からはすぐにいびきの音が聞こえはじめた。
しかし、趙は深夜になっても眠ることが出来なかった。
その内に、一階からかすかに物音がし始めた。
趙は、こんな深夜になんだろう、と密かに階段の踊り場から階下を覗いてみた。
一階では三娘子が、木彫りの人形と器を机に置いて何かぶつぶつと呟いている。
人形は木馬、木牛、そして木人といった趣であった。
器は蛍石で出来ており、水を湛えてほのかに光っていた。
三娘子は器の水を木馬や木人に吹きかけた。
すると、それらの人形はかたかたと動き出し、机を降りた。
みるみる人形は大きくなり、等身大になった。
等身大の人形たちは三娘子の命令で、皿を洗ったり、片付けをしはじめた。
三娘子はまた、手に取った袋の中から何かの種を掴むと、器の水を吹きかけた後に窓から庭へばら撒いた。
その種はすぐに目を出してあっという間に実をつけた。
蕎麦の実であるらしかった。
三娘子はそれを木人に刈り取らせると、木牛と木馬に挽かせて、その粉で焼餅を焼き始めた。
焼いている間もぶつぶつと呪文のようなおどろおどろしい言葉をつぶやいていた。
趙は慎重に部屋に戻って、寝たふりをした。
翌朝、趙は急な商用が入ったと言って早朝に出立をした、と見せかけて店の裏から店内を覗いていた。
「さあ、今朝は当店自慢の焼餅がありますよ。朝食にどうぞ」
三娘子は昨日の怪しげな焼餅を客に振る舞う。
客は美味そうに口に運んでいたが、急に苦しみだした。
「どうです、美味しいですか?」
三娘子は床に転がってのたうちまわる客へ、にたりと笑いかけた。
客の悲鳴は、まるで驢馬の鳴き声のようであった。
驚くべきことに、客の耳が次第に伸び、手足の先は黒ずんで蹄となり、身体には毛を生じて、ついには驢馬になってしまった。
三娘子は例の人形達を取り出して大きくすると、驢馬達の衣類から路銀から全て奪い取り、追い立てて厩に入れてしまった。
趙は物音を立てないように、その場を去った。
◇
趙は肝の太い性質であったから、一計を持って再びこの店を訪れた。
「あら、お客様。こないだはお早いご出発で、当店自慢の焼餅がご提供できなかったのが残念でしたのよ」
「では、明日の朝はそれを頂いてから出発するとしよう」
明くる朝、一階で焼餅の提供を受けた趙は、三娘子にこう言った。
「これは実に美味そうだ。しかし、俺は元来喉の狭いたちでね。詰まらせるといけないから、白湯を一杯いただけないだろうか」
「承知いたしました」
三娘子が白湯を用意しに目を離したその一瞬の隙に、趙は隠し持っていた予め用意した蕎麦粉の焼餅、なんの変哲もなく呪文のかかっていない焼餅を、三娘子の作ったものとすり替えた。
三娘子が白湯を運んでくると、趙はわざと目の前で焼餅を食べ始めた。
「とても美味いなぁ。実は私も焼餅を持ってきていたんだ。姐さんの自慢の味を確かめたかったから、敢えて手持ちのは食べなかった。捨てるのも勿体ないから姐さんに差し上げるよ。食べてくれ」
そう言って、趙はさも自分が持ってきた焼餅だというていで三娘子の焼いた焼餅を差し出した。
三娘子も優しい女主人の仮面を被っているから無下に断るわけにもいかず、その焼餅を食べた。
「どうです?美味しいですか」
趙がにやりと笑ってそう問うと、三娘子は答えようとしたが言葉にならず驢馬の鳴き声を上げた。
三娘子の耳が伸び、手足の先が黒ずんで蹄となり、身体に毛を生じて、遂には驢馬になってしまった。
趙は木人を持ってきて使い方を教えろとか、他の人を驢馬から元に戻せとか色々と責め立てたが、ヒヒンとかブルルとしか三娘子は答えられない。
仕方がないので三娘子を普通に驢馬として使うことにした趙は、他の驢馬を逃し、人形を持ち去った。
◇
趙は実に四年もの間、三娘子だった驢馬を荷駄としてこき使った。
趙がある関所を通ろうとすると、その程近くには古びた麻姑廟があり、その華表の前に、麻の葉の被肩をかずいて、錦の着物をまとい、頭を団子に結った爪の長い美少女が立っていた。
その歳の頃十八、九の少女は趙と驢馬を見るなり、こう言った。
「板橋の三娘子よ。しばらく見ない間にそんな姿になったの?無様ねぇ」
趙はその声が老婆のようであったのと、少女が一目で真実を見抜いたことに驚いた。
「ねえ、お兄さん。そいつの自業自得だとは思うけど、もう許してやってはくれないかしら。他の人にかけた術も、とっくに解けているはずよ」
「しかし、これは荷駄としては優秀で、一日にきっかり百里を走るんだが……」
麻姑は目を細める。
「もちろん埋め合わせはいたします」
趙が了承すると、麻姑は驢馬の顔に爪を当て、左右に押し開いた。
驢馬の皮がずるりと剥け、中から裸の三娘子がぜえぜえ言いながら出てきた。
「麻姑様、ありがとうございます!この御恩は必ずや……」
「素人に不覚を取るなんて術者の面汚しよ。不快だから、さっさと目の前から消えなさい。お前の出来る恩返しなんて、せいぜいそれくらいさ」
三娘子は麻姑を拝し終わると、裸のまま何処かに駆けていった。
麻姑は趙の懐を指差した。
「さて、あなたに埋め合わせをしなくてはね。そこの人形をお貸しくださいな」
趙は懐に入れていた木人やら木馬やらを麻姑に差し出した。
麻姑がその長い爪でそれらの人形の額を突くと、たちまち大きくなって、肉を生じ、髪を生じ、生きた人間の従者や牛馬のようになった。
「驢馬よりよっぽど役にたちますよ」
趙はその後、商売で財を成し、許州にこの人ありとして称される人物となった。