第十五話 凶煞
あの人は私にとって、母のようでもあり、姉のようでもあり、そして仙術の師匠でもあった。
仙術の腕を上げ、新たな段階に行くたびに、あの人は不死の神酒を私に飲ませてくれた。
私は老いることがなくなるばかりか、あの人とはじめて会った時の若さ、十八の頃にまで見た目が戻った。
しかし、逆に、あの人は徐々に老いるようになっていった。
あの人が病に臥せったとき、私は問うた。
「今までにお会いした仙人の方は、みな長生というだけで老いているか、人以外の何かに変質しておりました。私が老いることがなくなり、また麻姑さまが老いるようになったのは何故なのですか。西王母様より賜ったという、あの不死の神酒は一体なんなのですか」
あの人は言った。
「不死の神酒なんて、ないの。あれはねぇ……私の血よ」
◇
唐の太和年中のことである。
遼東の楊という男が、自身の屋敷に怪しげな旅の女道士を泊めていた。
その女は麻姑と名乗り、歳の頃は十八、九に見えた。
頭を団子に結い、肩からは麻の葉の形の被肩をかづき、その指には長い爪を生やしている。
また、白い小鳥を肩にとめているのも特徴的であった。
「朝食ですよ」
「飯あり、飯あり、丁令威」
庭で喋る小鳥に麻姑は手づから餌をやっている。
楊が声をかける。
「その鳥は慣れたものですね。言葉を覚えているのもかわいいな。同じ鳥でも、例の化鳥とは大違いだ」
「元が元ですからね。これでも、いつも連れているわけではないの。一緒に旅をするのは久しぶりですのよ。……例の化鳥?」
楊は問われて麻姑に仔細を話しはじめた。
楊の家の近くには、黄という富裕な未亡人が住んでいた。
この女は荒んだ性格で、周囲と常に揉め事を起こすので、夫が早くに死んだのも、この女のせいだと噂されていた。
触らぬ神になんとやらで、周囲の人々もかまわないようにしていたある日事件が起きた。
隣家に血まみれになった黄家の下女が駆け込み、黄からひどく折檻された旨を訴えてそのまま息を引き取ったのである。
黄はそんな女は知らないといって死体を引き取らないので、隣家の人が死体を埋めた。
すると、その土饅頭が割れ、中から得体の知れないものが飛び立った。
「それは蒼く大きな鳥で、その鳥が黄の家に舞い降りると、黄は頓死してしまったのです」
それだけなら痛快な出来事で済んだかもしれないが、その鳥が舞い降りたのは黄の家だけではない。
鳥は近隣の家に日毎に舞い降り、その家からは必ず一人死者が出るのであった。
「鳥は順繰りに家を巡っており、いよいよ明日の夜には私の家にくるかもしれません。客人に何かあってはいけないので、明日にはお発ちくださいと申しておったのです」
麻姑はこの話を聞くと、爪を唇に当てて言った。
「それは煞ですね。凶煞とも言いますが……よろしい。お世話になったことですから、なんとかして見せましょう。頼もしい味方もいることですし」
麻姑は小鳥の頭を撫でた。
「煞あり、煞あり、丁令威」
小鳥が喋った。
◇
麻姑は次の日の晩、屋根の上に登って煞を待っていた。
月明かりに照らされて、肩の白い小鳥がぼんやりと光っているように見えた。
やがて飛来してきた鳥は、今までに楊の見たことのない不思議なものだった。
「水晶、いや、なんだあれは」
その鳥の形をした何かは、蒼い水晶か硝子のように半ば透き通っていて、内臓が全て見えているという、極めて不気味な代物であった。
麻姑は小さな弾弓で無患子の実を打つ。
化鳥はひらりひらりとかわすが、一個の実が当たると、けたたましい鳴き声をあげて空中でじたばたともがきはじめた。
「やった。今ね」
麻姑は小鳥を手に乗せた。
「丁令威殿、頼みます」
小鳥は手から飛び立つと、急速に膨張し、たちまち化鳥の二倍ほどもあろうかという巨大な鳥へと変じた。
「鳥あり、鳥あり、丁令威。家を去ること千年、今再び帰る。城廓もとの如くにて、人民非なり。なんぞ仙を学ばざるか、塚累々たり。仙学べば、煞とて恐るるに足らず」
巨鳥は羽ばたいて空中でもがく煞に迫る。
爪で煞をがしりと掴むと、嘴でがんがんとその身体を突いた。
煞の身体に硝子細工のようにぴしりとひびが入る。
巨鳥が嘴で突き続けると、煞は内臓を撒き散らしながら空中で砕け散った。
◇
翌朝、麻姑は出ていくと言った。
どうか長く滞在していただきもてなしたいと楊はひきとめたのだが、やはりもう発つというので、あれこれとお礼の品々を渡して見送ることとなった。
「ああ、もう行ってしまわれるとは。しかし、あの水晶のような鳥はいったいなんだったのでしょう。そして、そのそちらの小鳥様は……」
麻姑の肩にいつのまにか小鳥に戻った例の巨鳥が鎮座していた。
「煞は殺意が実体を得たもの。幽霊とはまた違うから、恨みの相手以外にも作用してしまったのね。でも、霊的な存在、例えばこの霊鳥と化した丁令威殿などには、あれの力は通じない」
「霊あり、霊あり、丁令威。仙を学びて鳥となり、不死を得たり」
人が化け物に変じることはよく聞くが、霊鳥になるという話は珍しい。
楊は一人と一羽が見えなくなるまで、その姿を伏し拝んでいた。