第十二話 毛人
清の時代のことである。
張敔という名の役人が、湖広の房県というところに赴任して、その地の辺境を開拓することになった。
しかし、村人たちは開発に非協力的で、しかも何者かが夜闇に紛れて官用の食糧や家畜を盗んでいくので、事業は一向に進まなかった。
疲れ果てた張敔は自身の館に逗留している旅の女道士に愚痴をこぼした。
「この辺りの連中には困ったものです。一連の泥棒もきっと開発を良く思わない村人たちの仕業でしょう。やはり、田舎者は頑迷で、やることが姑息で、いかんですな」
女道士は長い爪をしていて、歳のころは十八、九に見えるのだが、古今の事に詳しく、張敔は感心して館に置いていた。
「昔は“蘇湖熟すれば天下たる”と言われておりましたが、最近は“湖広熟すれば天下たる”と言いますね。農業の中心地が大きく変わり、昔は周縁に過ぎなかったこの地にも開発が及んだ。急激な変化についていけない者もいるでしょう。しかし、泥棒はちがいますよ。村人たちの仕業ではありません」
女道士は部屋の花窓に近づくと、そこから見える山を指差した。
「賊はあそこから来ています」
「今どき山賊かね」
「まあ、そのようなものです。今日辺りは月がないので、やつらが来るかもしれません。よろしければ、一緒に倉に張りましょう」
◇
丑の刻、倉の周りに鉄砲を持った兵士を隠し、張敔と女道士ーー麻姑と名乗っていたーーは、息をひそめていた。
夜の闇に、腰の曲がった人のような、あるいは大きな猿のような影が何体も現れた。
影が倉の扉に手をかけたとき、張敔は白い砂をつけた手を掲げて兵士に合図を出す。
一斉に乾いた音が鳴り、影は倒れた。
「やったか?」
張敔がそう言うと、ゆっくりと影は立ち上がった。
「火槍がきかないだと……」
振り向いたそれは、全身に毛が生え、背が折れ曲がっている。
拳で地面をついて狒々のように迫ってくる。
しかし、その顔は明らかに人間のそれなのである。
張敔は悲鳴をあげて後ずさったが、麻姑のことを思い出し、慌てて戻りその手をつかんだ。
「ここは危ない。麻姑殿、逃げましょう」
「ご心配なく。対処は心得ております」
麻姑はやんわりと張敔の手を振り解くと、謎の猿人の前に立ちはだかり、こう叫んだ。
「長城を築く」
猿人はぴたりとその歩を止め、耳をつんざくような悲鳴をあげた。
周りの他の猿人も同様だ。
「長城を築く、長城を築く」
麻姑が繰り返すと、猿人たちは悲鳴を上げながら、散り散りになって逃げ去った。
◇
「あれはなんだったのです。人ですか、猿ですか」
翌朝、張敔が問うと、麻姑は欠伸をしながら答える。
「あれは、秦の始皇帝の時代、長城建設のために駆り出された役夫です。苦役に耐えかね、仲間と示しあわせて逃げ込んだのが、妖気のたちこめるあの山、房山だった。彼らは房山で野人も同然の暮らしを続ける内に退化して、いつの間にかあのような怪物、毛人になってしまった。しかし、不死の妖になった今でも、長城建設に駆り出されることを恐れている。だから、長城を築く、というと逃げ出すのよ」
「なんと、俄には信じ難い事ですが、人があのような姿に変じるとは。恐ろしいこともあるものですなぁ」
麻姑は張敔を睨みつけた。
「恐ろしいのは、未だにあの人たちの心を縛り続ける秦の苛政よ。あなたも、役人ならば、もっと人々の声に耳を傾けることね」
その声は厳めしい老婆のようだった。
「はい……」
麻姑が去ってから、張敔は村人の意見をよく聞くようになり、やがて開発は円滑に進められるようになった。
しかし、房山だけは手付かずのまま、今も残されているという。