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第一話 名前

挿絵(By みてみん)


 激昂した父の振り下ろした刀が右肩からずぶりと入り、左の脇腹に抜けていく。

ここで死ぬのだな、と私は思った。


目を開けると、私の顔の前に、長く美しい爪と白く細い指があった。


「ごめんなさいね、お嬢さん。勝手に手当てをしてしまって。だって他人事とは思えなくなっちゃって……」


その柔らかな声を聴きながら、私は、このお姉さんの爪で背中を掻いたら気持ちよさそうだな、と訳のわからない事を考えていた。


 南朝は宋の元嘉げんか年間の初めの頃の話である。

富陽ふようの人、おう某という者が何やら竹でできた仕掛けを担いで山を登っていた。

王某が額に汗しながら進んでいくと、何やら甘い香りが漂ってきた。顔を上げると、深山には似つかわしくない女人が前を歩いていた。


「おう、ねえさん。ここらは山賊の出ることもある。女一人では危ねぇぞ」


振り向いた女は、歳の頃は十八、九。

頭に小さなまげを二つ団子のように結い、余の髪は腰まで長く伸ばしている。

顔は形の良い鼻につぶらな瞳、桜色の唇。

まずまずの美女と言ってよい。

錦の衣の上に首元には被肩ひけんーー当世風に言うならばケープとでも言うべきものであるーーをつけている。

その被肩は麻布で織られているようだったが、それ自体が麻の葉のような形をしていた。


「あらご心配なく。悪い男はこれで引っ掻いてやりますから」


女が白い手をかかげると、その指先に鳥のように長い爪が伸びていた。


「まあ、そう言うな。俺が着いていってやるよ。この蟹取りの王さんは、近所じゃゴロツキからも一目置かれてるんだ。おいそれと手出しはされねえ」


女はつかつかと王某に歩み寄る。

急に耳元に口を寄せて囁いた。


「王さん、親切なあなたに良いことを教えてあげましょう」


「ほう、なんだい」


「怪しいものに、名前を教えるな」


女の声はまるで老婆のようであった。


「えっ」


動揺した王某が瞬きをする間に女は煙のように消えていた。


 王某は気を取り直して目的地の山間の沢にたどり着いた。

背中に背負った竹の仕掛け、やなを沢にかける。

何事もなく山を降りて、あくる朝また見にいくと仕掛けが壊れていた。

仕掛けの中には穴が一つ開いた木切れと、蟹の脚だけが浮かんでいた。

不思議に思いつつも、王は木切れを放り捨てて、仕掛けを修繕するとまた帰路についた。

帰り道、街の暗がりから声をかける者がいた。


「おい、王よ。蟹は取れたか」


嫌なやつにあってしまったな、と王は思った。


「生憎今日はボウズだよ、ちょうさん」


「ははは、ボウズだよ、じゃねぇんだよ。それは俺に渡すあがりがねえってことだろう。俺は金が入り用なんだ。ふざけんなよ」


張某は街の亭長ていちょうに仕える岡っ引きであるが、博打に入れ込んでいて常に金欠だった。

そこで、王のような脛に傷ある人間につけ込んで金を巻き上げるのである。


「山や川のことは田畑のようにはいかねぇんだ。勘弁してくれ」


張某は暗がりからぬっと顔を出すと、捕物に使う筆架叉ひっかさーー本朝における十手のような武器ーーで、王の頬を殴りつけてきた。


「お前の旧悪を暴いて引っ捕えるくらい、俺にとっちゃ造作もねえ話なんだ。明日には蟹を必ず取ってこい。いいな」


王某の口の中に血の味が広がっていく。


 翌日の朝、また沢を見に行くと、またしても奇妙な木切れが浮かんでいて蟹の脚だけが散らばっている。

さすがに不審に思った王某は、木切れを引っ掴むと素早く蟹を入れるために持ってきていた籠に入れて蓋を固く閉じ、山を降りた。

家に帰って見ると、籠の中の木切れは奇怪なものに変じていた。


「はなしてぐでぇ、はなしてぐでぇ」


籠の中でそう喚くそれは、猿のような生き物だった。

小さい身体に不釣り合いに長い首、そして何よりも目を瞑った赤ん坊のような人間めいた顔が、王某には不気味に思われた。

蟹を取れなくしたのはお前の仕業かと問うと、怪物は言う。


「ぐっぢまった。みんなぐっぢまった」


「食っちまったじゃねぇ!お前のせいで俺は破滅するかもしれねぇんだぞ」


激怒した王某は、籠ごと怪物を竈門の火にくべた。


「たすげでくれ。おではあの山の神だ。だずげてくれたら、じゅつをとなえて蟹も、魚もとれほうだいにじでやる」


その恩返しには魅力があった。


「本当か」


「ほんとうだども。だから、おまえの名前をおじえでぐで」


王某の脳裏に数日前の女の言葉が蘇った。


“怪しいものに、名前を教えるな”


王某はしばし逡巡した後に、こう言った。


「俺は蟹取り名人の……張某だ」


怪物はげっげっげっと笑った。

怪物の額の肉がぷつりと裂け、その裂け目から血走った目がぎょろりと覗いた。

怪物は王某の聞き取れない言葉で何事かをまくしたてた後、最後に付け加えた。


「張某」


怪物は再び不気味な笑い声をあげた。


何も起こらなかった。


怪物は王某を見て、


「あれ、おかしいぞ、なんでだ」


と喚きながら火の中で焦げて崩れはじめた。

目玉だけが最後まで残っていたが、それも腐った卵のような臭いとともに潰れて溶けた。


 「お前の出会ったその怪物は、山蕭さんしょうというものだろう」


王某の話を聞いた街の古老はそう言った。

山蕭は山に巣食う妖怪で、人の名前を知るとその者に害をなすことが出来るのだ、と古老は言う。


「ところで、張のやつが頓死したそうだぞ。お前はなにか心当たりはないかね」


王某は、不思議な女人のことや、張某のくだりには触れずに、怪物のことを古老に伝えたのだ。

王某は古老の問いに首を振り、その家を去った。

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