クラリスの逆鱗
竜の逆鱗に触れ、生き延びた者はいない。
逆鱗に触れるという行為が何を意味するのか―――こっちの世界にやってきてから17年、前世の分も含めて39年。やっとそれがどういう意味か、そしてそれがどういう結末を迎えるのか、身をもって痛感する。
そして心の底から、ただただ思った。
『この殺意が俺に向けられていなくて本当に良かった』と。
俺を掴んでいたバザロフの手がそっと離れ、屋根の上に降り積もった雪の上に崩れ落ちる。身体中を冷たい雪に覆われてやっと、一時的に呼吸できなくなっていた身体が本来の機能を取り戻し始める。
とにかく移動しよう―――ここに居ては、巻き添えを喰らう。
本能でそう理解し、とにかくバザロフの足元から離れた。
以前にもクラリスが、あの温厚なクラリスが怒りを露にしたことが一度だけあった。暗殺ギルド『クルーエル・ハウンド』に襲撃され、俺が被弾した時だ。
彼女がブチギレる引き金はどうやら、俺が傷付けられる事らしい。メイドとして、従者として主人を想ってくれているその気持ちは素直にありがたいとは思うのだが―――その忠誠心の裏側には、とんでもない狂気が潜んでいたものだ。
武器をQBZ-97から、例のクソデカボルトカッターに持ち替えるクラリス。敢えて近接戦闘を挑むつもりか、と息を呑んだ。銃弾では装甲を穿てない。であれば、自分の膂力をフルに生かせる接近戦で機甲鎧の破壊を試みようというつもりらしい。
オイオイ殺すなよ、と祈った瞬間、クラリスが動いた。
ドンッ、と砲弾が炸裂したかのような破裂音。踏み締めたアパートの屋根の一部がそれだけで抉れ、雪が大きく舞い上がる。猛吹雪のように荒れ狂う雪を背景に、血のように紅い双眸から、同じく紅い残像を発しながら―――竜人のメイドが、その本性を露にする。
『!?』
その迫力に―――先ほどまでの、熟練の兵士を思わせる動きから打って変わって全面攻撃に移ったクラリスの殺気に、鋼鉄の鎧を身に纏うバザロフが恐れをなしたのが分かった。
殺される―――理屈ではなく、本能でそう理解したのであろう。ウサギが空腹のライオンに勝てる道理が無いように、彼は察したのだ。クラリスに殺される、と。圧倒的上位の捕食者に成す術もなく喰われる、と。
しかしそれでもなお応戦しようと構えるあたり、彼にも大貴族の当主としての矜持があるのだろうか。それとも、ただの見栄―――虚勢でしかないのか。
その結果は、すぐに分かった。
機甲鎧の手の甲のアーマーが展開、そこから2丁の銃身が伸びる。イライナ・マスケットの銃身を利用した銃だろう。あんな射撃武装を格納していたとは、と驚愕している間にそれは火を噴き、迫り来るクラリスを迎撃する。
ドパパンッ、と豪快な銃声を響かせ、2発の弾丸が空を裂く。黒色火薬を使用するマスケットとはいえ、その口径は80口径。命中すれば容易く骨を砕き、肉を裂いてなお余りあるほどの威力を誇る、現時点において最も恐ろしく、最も普及した武器である。
当然、被弾すればクラリスもただでは済まない。いくら金庫を素手でぶち破るクラリスといえど、被弾すれば身体に大きな風穴を穿たれるであろう事は想像に難くなかった。
しかし、彼女の柔肌を穿つことを期待して放たれた2発の弾丸が射抜いたのは、クラリスの真っ白な肌でも、彼女の身に纏う強盗装束でもない。
両目が刻む紅い残像―――その軌跡だった。
『―――は?』
避けた。
引き金を引く指の動きとか、筋肉や目線といった要素から発砲のタイミングを予測して射線上から飛び退いた……わけではない。
今のは俺も見ていた。
クラリスの奴、”発砲した後に反応して避けていた”のだ。
黒色火薬であるが故に、そのパワーは無煙火薬を使用した現代の銃には遠く及ばない。それは弾速においても例外ではなく、無煙火薬を使用する弾丸の弾速と比較すると、その速度は大きく劣る。タクシーと新幹線を比べるようなものだ。
しかしそれを差し引いても、銃が発砲されるのを見てから避けるとはどういう事か。
『な、な、な―――ッ』
驚愕しつつも、反対の手を突き出すバザロフ。ジャキンッ、とまたしてもアーマーが展開し、そこから切り詰められた2丁の銃身が姿を現す。
しかしその銃口が火を噴く事も、そして今しがたのクラリスの回避の再演を目にする事も無かった。
姿勢を低くしながら突っ走るクラリス。その勢いを殺さず、無造作に放ったのは先ほどまで両手でがっちりと保持していたあのクソデカボルトカッターだった。
まるで邪魔な害獣に小石でも投げ放つかのような無造作さではあったが、それに乗った運動エネルギーは信じがたいレベルに達していたのが風を切る音で分かった。飛行に適さぬ形状の刃物が、投げ放たれた際の運動エネルギーだけを頼りに飛翔している。そのせいで空気は複雑に裂かれ、さながら竜の咆哮のような重々しい音を発していた。
鍛え上げられたハンマー投げの選手が、渾身の力を振り絞って放り投げたかのような威力で飛来したボルトカッターの顎。まるで厚紙にナイフを突き立てるかのように、いともたやすく機甲鎧の左手の銃身を、収納していたアーマー諸共寸断してしまう。
ヂュンッ、とコンクリート壁にチェーンソーを接触させたような甲高い音。旋盤をやった事がある人なら分かるであろう、金属が焼ける臭いが周囲に漂い、寸断された際に発した火花が緋色の花弁を散らす。
弾丸すら弾く装甲を厚紙の如く寸断してもなお運動エネルギーを持て余したボルトカッターは、複雑な回転を何度か繰り返してから後方の煙突へ深々と顎を埋め、その暴走に終止符を打った。
『ば、馬鹿な!?』
言いたいのはこっちである。何だあのバカ力は。
打つ手なしとなったバザロフは、覚悟を決めたかのように腰のアーマーへと手を伸ばした。そこから姿を現したのは、片手サイズの金属槌―――がっちりとした機甲鎧であるから片手サイズに見えるだけで、生身の人間であれば両手で持たなければならない程のサイズのそれを、バザロフは力任せに振り上げながら前に出る。
『化け物め、潰れろッ!!』
本気で地面に叩きつければ、振動で相手の態勢を崩す事も可能であろう。それを蒸気機関によるパワーアシストを得た状態の機甲鎧でやれば、その一撃は空振りであろうとも爆風に匹敵する威力になる筈である。
空気を押し潰しながら振り下ろされるメイス。しかし、バザロフへと肉薄を試みるクラリスの進路は変わらない。まるで刺し違えてでも殺してやると言わんばかりに、バザロフの喉元目掛けて一直線に突き進んでいく。
避けろ、と叫ぼうとした瞬間には、ガギュゥンッ、と重々しい金属音が響いていた。高速回転しているモーターに金属製の杭でも突き立てて強引に止めたような、そんな嫌な音。けれども決して、メイスで人間を叩き潰した際に発する筈の無い異質な音。
ぐるぐると、雪の降り注ぐ灰色の空を黒い何かが舞う。
メイスだ。先ほどまで、あの機甲鎧の手に収まっていた筈の大型メイス。対飛竜用の武器として設計されていたであろうそれが、あろうことか大きく「く」の字に折れ曲がった状態で、ぐるぐると回転しながらどこかへと吹っ飛んでいったのである。
質量でも、運動エネルギーでも勝る筈の巨人の一撃。それをいともたやすく振り払ったのは、一流の鍛冶職人が作り上げた盾でも防具などでもない。
たった1人のメイド―――その、華奢な左手ただ一つだった。
柔肌を覆っていた竜の蒼い外殻が一瞬で消え失せたかと思いきや、今度はクラリスの右手が機甲鎧の顔面へと伸びた。
両足でしっかりと踏ん張り、体重を前面に移動させたクラリス。腰を捻り、肩を大きく突き出した状態で放たれたのは、何の変哲もない―――されども、全身の力を使って放たれた渾身の右ストレートだった。
何の変哲もない右の拳。それが機甲鎧の頭部装甲へ吸い込まれたかと思いきや、ベギュッ、と金属のひしゃげる音が響き渡る。
『ぶっ―――』
「―――」
その一撃を受け、後方へと大きく吹っ飛ぶ機甲鎧。重量にして3t超えは確定であろう鋼鉄の巨躯が吹き飛ばされ、後方にあった煙突へと背中を叩きつけられる。
左手の武装を抉り、得物を打ち払い、顔面に強烈な右ストレート―――それだけやってもまだ、クラリスは止まらない。これだけではまだ足りない、まだまだ足りない。もっと血を、もっと殺戮を。そんなクラリスの心の声が、何となくだが聞こえた気がした。
そして俺は悟る。
ああ、彼女から枷を外しては駄目だ、と。
クラリスという女の奥底には、こんなにも恐ろしい一面が潜んでいたのだ。
『盗人め、調子に―――』
抵抗しようと突き出された右手を足で蹴飛ばし、あっさりと弾いてしまうクラリス。
そして彼女が手を伸ばしたのは、先ほど無造作に投げ放って左手の銃身を切断し、後方の煙突へと深々と突き刺さっていた筈の―――例のクソデカボルトカッターだった。
鋼鉄の煙突から強引に引き抜いたそれを大きく開き、必殺の顎で機甲鎧の胴体、腰を力強く挟み込む。
とはいえ、相手は銃弾すら弾く装甲で覆われた最新兵器。いくらクラリスの馬鹿力とて、容易に切断は出来ないらしい。ギリ、ギリリ、と刃先が金属の表面を滑るような耳障りな音が響き、それが無力であると悟ったバザロフが反撃しようとする。
『ハッ、無駄な―――』
無駄な足搔きを、と勝ち誇ろうとしたバザロフの声が遮られたのは、それからすぐだった。
耐圧限界を超えつつある潜水艦が軋むかのような―――金属が外圧に屈しつつあるような、現役の潜水艦乗りであれば一番耳にしたくないであろう音。それにも似た金属音が、機甲鎧の腰から響き始めたのである。
発生源はやはり、ボルトカッターだった。
確かにあれでは、機甲鎧の装甲は切断できない。しかし斬れないのであれば、そのまま力任せに”挟み潰して”しまえばよい―――それがクラリスの下した決断だったらしい。
腰回りの装甲がどんどんひしゃげていく機甲鎧。今はまだ何ともないだろうが、機甲鎧は身に纏う事で操縦するパワードスーツのようなものの筈である。つまりあのまま腰回りを潰されていけば、やがて中にいるバザロフ本人の身体諸共挟み潰されてしまうというわけで……。
パキッ、メキメキッ、と嫌な音が連鎖する。
自分に待ち受けている末路を悟ったのか、それとも既に腰回りが圧迫されつつあるのか、バザロフが情けない悲鳴を上げた。
『ひっ、ひぃぃぃぃぃっ! わ、わたしはっ、わたしは、こんなところで……っ!!』
必死に両手を振り回し、クラリスを何度も殴打するバザロフ。しかし、顔面を殴られ唇や鼻から血を流しても、クラリスの両手から力が抜ける事はなかった。むしろ、最期の時を好きに過ごすがいいと言わんばかりに、好きなようにさせているようにも思える。
拙い、このままでは……。
歯を食いしばり、駆け出した。
彼女の本性がどうであれ、枷となるのは俺の役目だ。
ぎりぎりと力を込めていくクラリスに駆け寄り、彼女の肩に手を置いた。
「もういい」
「―――しかし」
「もういい……もういいんだ」
首を横に振りながら優しく告げると、彼女の手からやっと力が抜けていった。
「ありがとう、俺のためにここまで怒ってくれて……」
「……ですが、この男は」
「コイツを裁いて良いのは、俺でもお前でもない。分かるだろ」
「―――申し訳ございません」
グッ、とボルトカッターを引いた。潰れた装甲が露になり、あやうく上半身と下半身を切断されるところだった機甲鎧の中からは、今にも死にそうな、空気の漏れるような声が微かに聞こえてくる。
胸元にある赤いレバーを捻り、手前に引っ張った。バシュウ、と蒸気を発し、ぎこちない動きで胸元の装甲が展開していく。クラリスとの戦闘でフレームまで変形していたせいで動作は色々と怪しかったが、完全に開放された機体の内部では、やはり小柄な初老の男が怯え切った顔でこっちを見つめていた。
「おい」
「ひぃっ!!」
「―――あんまりウチの従者を怒らせるんじゃあないよ」
「す、すみませんっ! すみませんでしたぁっ!! い、命だけはっ、命だけはぁっ!!」
涙と鼻水を垂らしながら懇願するバザロフ。どうしよ、と思いながらクラリスの顔を見上げるが、こんな小物が意図的に疫病を蔓延させていたと思うとやっぱり許せないものがある。
なので、右のストレートを顔面に叩き込んでやることにした。猫パンチならぬジャコウネコパンチ。ボフッ、とそれなりに鈍い音を立てながら顔面に拳がめり込み、バザロフが気を失う。
そのままこのクソジジイを機甲鎧から引っ張り出し、俺はふと思った。
フレームも歪み、装甲も破損した機体だが―――コレまだ動くんじゃね? と。
試しに乗り込んでみた。俺にはちょっとサイズが大き過ぎるが、機体の動力源はまだ生きている。いいぞコレ、まだ動く。
「―――これ、迷惑料として貰っていこうぜ」
「え、えぇ……?」
いいじゃん、パワードスーツ。男の子のロマンだよ。
え、駄目?




