ヴィリウ炎上
着替え、荷物をまとめて屋敷を出るなり、ステファンが最初に見たのはエンジン音を轟かせながら飛び立っていく複葉機たちの姿だった。近隣の飛行場から出撃した軍の戦闘機や爆撃機たちだ。
それだけではない。2本の足に機関銃を乗せたような”量産型機甲鎧”たちも歩兵の隊列に混じってぞろぞろと戦闘配置についており、まだ暗い南方の空では遠雷のような轟音が響きつつあった。
本当にズメイが来たのだと、そう直感した瞬間に身体中に冷たい感覚が走った。脈拍数が上がり、呼吸は浅くなって、身体中の毛穴から脂汗が吹き出していく。
殺される―――そんな原始的な恐怖に、ステファンは足が竦んだ。
幼少の頃、今は亡き父スピリドンから語り聞かされたイリヤー伝説の一幕。祖先であり大英雄でもあるイリヤーはズメイに盟友ニキーティチと2人で挑み、これを封印へと追いやったのだという。いつの日か自分も鍛錬に鍛錬を重ね、英雄イリヤーのように果敢に戦ってやると心に誓ったし、ズメイと戦う自分の妄想を何度もした。
しかし、実物の襲来する気配を感じるやこれである。
無理もない―――それはまるで、小動物が天敵たる捕食者に見つかってしまうようなものだからだ。どう頑張っても逃れる事の出来ない絶対的な”死”。それが人類にとってはズメイであったのだ。
「オリガ、車は捨てろ!」
車に乗り込もうとしていた妻の腕をグイっと引っ張りながらステファンは叫ぶ。抗議するような目を向けてくる妻に一瞬気圧されそうになるが、しかし負けじとステファンは続けた。
「道路なんてすぐに車でごった返して動けなくなるぞ!」
「でも……!」
「いいから走って逃げるんだ! おい、使用人たちはこれで全員か? 1人も欠けてはいないな?」
念を押すようにメイド長に問いかけると、年配のメイド長は「これで全員でございます!」と応じた。
とはいえ、走って逃げるのは年老いた身体にはとにかく堪える。今年で67歳になるステファンにとってはとにかく走るのは苦行極まりなく、加えて座って執務ばかりする事が多かったものだから兎にも角にも運動不足なのだ。しばらく歩くだけでも息が上がる程である。
こんな事ならトレーニングをサボらずに続けておけばよかった、とステファンは少し後悔した。
オリガの分の荷物も持ち、妻の負担を少しでも軽くしてやろうと思いながら、オリガを先に歩かせつつ後方へ視線を向ける。ズン、ズン、と巨人の足音のように聴こえてくるのは砲兵隊の砲撃だろうか。それとも、ヴィリウに迫りつつあるズメイの足音なのだろうか。
不意に空気の流れが変わった―――まるで何かが飛来しながら空気を激しく攪拌しているような、空気の流れが急に不規則になる感覚。何か来る、とステファンの第六感が告げた直後、風を切る音と共に何かの残骸が車道で立ち往生していた車を押し潰してバウンド。ステファンたちが逃げようとしていた方向にあったレストランへと盛大に突っ込み、そのまま爆発、炎上してしまう。
その残骸の正体は、先ほど出撃していった航空隊だった。
二段重ねの翼は凄まじい力に晒されたかの如くへし折られ、機体も中央でぶち折れていて、エンジンの収まっている機首はひしゃげている。いったいどんな攻撃に晒されればあんな壊れ方をするのか、と驚愕するステファン。これがズメイの力なのか―――圧倒的な力の片鱗を見せつけられて戦慄するステファンを、更なる衝撃が襲う。
あれは、とメイドの1人が言った。指差す方向に視線を向けると、砲兵隊の砲撃が飛んでいく方向に確かに黒い”何か”の姿が見える。
巨大で、着弾時の爆発が断続的に映し出すその姿。
首は2つあり、広げた翼はまるで巨大な悪魔のよう。闇に溶け込むが如き黒い外殻の隙間からは仄かに紅い光が漏れていて、脈動に合わせて明滅しているのがここからでも窺い知れる。
それはまさしく、伝承に聞く姿と全く同じであった。
まるでイリヤー伝説の絵本、その挿絵からそのまま飛び出してきたような姿。
「ず……ズメイ……!」
なんたる威容か。
かつてイライナやノヴォシアに対して牙を剥き、そのブレスの一撃は大地を引き裂いて、呪いのように飢餓をもたらした存在。
伝説の中で語り継がれるばかりだった邪竜―――それがまさに、目の前にいたのだ。
砲兵隊が必死に榴弾砲で迎撃を試みるが、しかしズメイの黒い外殻は57㎜榴弾砲による攻撃を全く受け付けない。砲弾は外殻の表面に焦げ目すら残す事が出来ず、その間にもズメイは4本の脚で悠然と、ヴィリウ市街地へ迫ってくる。
その瞬間、ズメイは巨大な翼を広げた。
翼長300mにも達する、悪魔のそれに似た形状のズメイの翼。度重なる砲撃に嫌気が差し飛び立つつもりかと思ったが、違う。
砲撃を首や腹に受けながら、ズメイはその翼で前方を煽いだ。
ズメイにとっては前方の邪魔な虫を吹き飛ばそう、というつもりだったのかもしれない。我々人間が、身体にまとわりつく小さな羽虫を吹き飛ばそうと息を吹きかけるような感覚だったのだろう。
しかし全長135mにも達する巨体を浮遊させ、マッハ2.5を超える速度での飛行を可能とする翼とその筋肉が生み出す風圧は、”軽く息を吹きかける”程度で済まないのは明白だった。
人知を超えた力で生じた風は瞬く間に大型台風のような突風を生むに至り、なおも砲撃を続ける砲兵隊に牙を剥く。薬莢の排出と砲弾及び装薬の装填を行っていた装填手や砲手たちが突風を浴びて吹き飛ばされ、榴弾砲も後を追うように吹っ飛んでいく。
悲鳴がどこからか聴こえたと思った次の瞬間、どちゃ、と高い建物の上から落とされたトマトのように、ステファンたちのいる傍らの車道に砲手が落ちてきた。
それを見てしまった若いメイドの何人かが泣き出し、口元を抑えて嘔吐を必死に堪えようとする。
生き残った航空隊が果敢に機銃やロケット弾を浴びせかけるが、しかしズメイは航空隊の攻撃を全く意に介さない。当たり前のように7.62㎜機銃を外殻で弾き、ロケット弾の爆炎に照らされながら、さしたるダメージを受けた様子もなく悠然と歩いている。
ドン、とズメイの首で新たな爆炎が爆ぜる。
トラクターの履帯が地面を踏み締めるような音がどこからか聴こえてきたかと思いきや、やがて阿鼻叫喚の地獄が広がる市街地に、なんとも珍妙な兵器が姿を現し始める。
「なんだあれは」
それはまるで、筆箱に履帯を取りつけたような、何とも言えない形状の兵器だった。兵器、と一目で分かったのは車体前方に37㎜砲を搭載している事と、車体右側に連装機銃がオフセットされた状態で搭載されているからだ。
軍の試作兵器です、と私兵部隊の1人が言った。
そう言えば聞いた事がある。イライナの天才科学者フリスチェンコ博士が、開発したばかりの新兵器のいくつかを比較的安全な西部ヴィリウへと持ち込んでテストを連日行っていた、と。
テストを終え博士はキリウへと帰り、テスト車両は後ほどキリウへ送られる事となっていたそうだが、ズメイ襲来を受け急遽実戦投入された、というのが正確な経緯だが、しかしステファンたちがそれを知る由もない。
のちに『フリスチェンコ戦車』として正式化される黎明期の戦車、その試作車両8台が、対ズメイ戦へと投入されたのだ。
長砲身の37㎜カノン砲でズメイを狙うが、しかし敵陣地を砲撃する用途には十分でも、エンシェントドラゴンを迎撃するにはあまりにも打撃力が不足していると言わざるを得ない。試作型フリスチェンコ戦車の果敢な砲撃も、しかしズメイの外殻を貫徹するには至らず、表面で爆発するか、時限信管の調整を誤った砲弾は跳弾してしまい、付近の民家に突っ込んで爆発する有様だった。
ある意味で、イライナが東部の防衛ばかりを重視した弊害が生じていた。
イライナにとっての仮想敵国はノヴォシアであり、その侵略に備える事こそが国防戦力の屋台骨と言ってもいい。それ故に防衛部隊の配置は東部へ偏重せざるを得ず、友好国の多い西部には比較的練度の低い部隊が配置される傾向にあった。
西部の守りは軽視されていたのである。
それゆえにヴィリウに駐留する部隊の練度は、イライナ独立戦争でノヴォシアとの実戦を経験した部隊と比較すると大きく劣っていたのだ。
それでもここで退くわけにはいかない―――不退転の覚悟で伝説の邪竜の前に立ち塞がり、その侵攻の阻止に全力を費やしていく。
2度、3度……試作戦車隊がそろそろ4度目の斉射をかけたところで、変化が生じた。
ズメイが健在な2本の首を互いに絡ませながら天を見上げ始めたのである。まるで雌雄の大蛇が互いに身体を絡ませるかのごとく、螺旋状に首を絡ませながら夜空を向き大きな口を開けるズメイ。
『―――ギェェェェェェェェェェェェェェッ!!!』
まるで錆び付き、廃棄されて久しい旧式の機械を、ろくに油も差さずに強引に再稼働させたような、生物の発する咆哮とは思えぬものだった。
いったいどれほどの音量なのか―――至近距離で聴けばその音圧だけで内臓を破壊されかねないほどの声量で吼えたズメイ。その咆哮をもろに受けてしまったのだろう、周囲を飛び回りながら機銃を撃ち続けていた2機の複葉機が機体をぐるぐると錐揉み回転させ、市街地へと落下していった。
ステファンたちのいる場所とズメイはおよそ5~6㎞は離れている。しかしそれほどの距離があってもなお、思わず耳を塞いでしまい、その上でキーン、と許容量を超過した鼓膜が悲鳴を上げるレベルなのだ。そんなものを至近距離で聞かされたパイロットたちや戦艦スラヴァの乗員たちがどうなったかは、語るまでもないだろう。
しかも、その咆哮は攻撃としてのものではなかったらしい。
仲間の仇を討とう、と1機の複葉機がロケット弾を斉射。加えて焼夷弾を機銃から放ちながら、果敢にズメイ目掛けて逆落としの急降下を敢行する。覚なる上は自らを爆弾とし、特攻も辞さぬ勢いの決死の急降下。
しかしその最中に、何かが機体に取り付いた。
ズメイと比較すればかなり小柄ではあるが、ズメイ同様に3つの首を持つ小型の飛竜。
―――”竜の仔”だ。
ズメイの細胞から生じたとされている幼体。ズメイ復活の直前から活動を活発化させており、”ズメイ復活の前兆”ともされていた不吉な飛竜たち。それが複葉機に取り付くやパイロットを食い殺し、飛び去って行ったのである。
もぬけの殻となった複葉機は回転しながら地面に激突。そのままズメイに踏み潰され、無残な残骸へと姿を変えていった。
竜の仔はその1体だけではない。
「そんな……」
「まさか……そんな、アレが全部……!?」
夜空を埋め尽くさんばかりの数の竜の仔が、いつの間にかそこにいた。
ズメイの咆哮は邪魔な航空機を払いのけるためのものではない―――子供たちを呼ぶための合図でしかなかったのだ。
直後、ヴィリウ上空を輪になって舞っていた竜の仔たちが、一斉に市街地へと降下を始めた。
試作戦車隊が主砲や機銃の仰角を目一杯つけて果敢に反撃する。砲弾を受けた竜の仔が爆発、四散し無残な骸を晒すが、しかしいくら何でも数が多すぎた。
あっという間に戦車に取り付かれ、強靭な顎で搭乗用のハッチを引き剥がされてしまう。中から出てきた車長がピストルで抵抗を試みるが、しかしあっさりと首から上を噛み千切られ、3つの首で身体を貪られていった。
別の車両ではハッチから首を突っ込んだ竜の仔がそのままブレス攻撃。逃げ場のない鋼鉄の棺桶と化し、火達磨になった試作戦車が爆散していく。
竜の仔たちの標的は戦車や兵士だけではなかった。
逃げ遅れた市民たちにまで襲い掛かっていったのである。
子供を庇おうとする母親を子もろとも噛み砕き、まともに動けない老人を上空へと連れ去り、それを防ぐべく応戦する兵士の一団をブレス攻撃で焼き払っていく。
西欧との玄関口であったヴィリウの街が、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。
いたるところで聴こえてくる悲鳴。
燃え広がっていく炎。
その惨状を震えながら見ていたステファンの脳裏に、幼少の頃に聞いた父の言葉が蘇る。
―――いつの日かお前も、我らの祖先のような偉大な男になっておくれ。
ぐっ、と拳を握り締める。
権力向上にこだわるあまり、冷たく凍てついていた彼の心。
その奥底で―――小さな火種が、確かに光を放った。
「……アレクセイ」
「はい、旦那様」
「……妻と使用人たちを頼んだぞ」
「お待ちください、何を―――」
私兵部隊の隊長の言葉は、最後まで聞かなかった。
あなた、と呼び止める妻の制止する声も振り払って、ステファンは年老いた身体に鞭を打ち走り出す。
右手をホルスターへと突っ込んで、中から装飾が施されたリボルバー拳銃を引き抜くなり、今まさに竜の仔に襲われそうになっている赤子と子供を抱えた女性に向かって大声で叫ぶ。
「伏せろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
街の外れの屋敷で隠居していた筈の男の声に驚いた女性は、しかし拳銃を竜の仔へと向けるステファンの意図を何とか理解したらしい。子供たちを抱きかかえ、いざとなれば自分を身代わりにする覚悟で庇う母親。その背中を狙う竜の仔目掛けて、7.62㎜弾を立て続けに見舞う。
彼もまた、英雄の血脈に連なる1人―――それ故に運が良かったのか、単なる偶然なのか。6発の弾丸のうち1発が竜の仔の右目を貫通。そのまま脳にまで達し、3つの制御機構のうちの1つを失った竜の仔は混乱しながら親子の上を通過すると、雑貨店の店先に突っ込んでじたばたと暴れはじめる。
「ステファン様!」
「狙え!!」
彼を慕って駆けつけてきた軍の兵士たちに命じるなり、彼らは一斉に竜の仔目掛けてカービンを向ける。
「放てッ!」
ダダダンッ、とカービンが一斉に火を噴いた。
フルサイズのライフル弾で身体を射抜かれ、竜の仔はぐったりと動かなくなる。
「大丈夫か?」
「こ、公爵様……どうして?」
「良いから逃げろ、避難所の場所は分かるな?」
「は、はいぃ……!」
「ならすぐに向かえ。ここはワシに任せろ」
「で、ですが」
「案ずるな。こう見えても貴族の端くれだ」
リボルバーを中折れさせ、露出したシリンダーに弾薬を詰めながらステファンは笑う。
「こういう時に身体を張るのが貴族の義務、というやつだ。さあ、ここは任せて早く逃げなさい」
ありがとうございます、と絞り出すように言い、子供たちを抱きかかえた女性はそのまま走り去っていく。
その背中が街中へと消えていくのを見守るや、ステファンは兵士たちに問うた。
「領主ペブロフスキー公は何処に? 指揮系統はどうなっている?」
「ペブロフスキー公は先ほど戦死なされました。現在は指揮系統が混乱しており、各々現場判断で戦っている状況です」
「ならば暫定的にワシが前線で指揮を執る。他の部隊にも伝えろ」
「はっ」
「それと通信設備は生きているか? 生きているなら市民のキリウへの疎開を打診してくれ。アナスタシアなら迎え入れてくれる筈だ」
「了解しました。公爵様も準備が完了次第脱出を」
「いいや、ワシはいい」
にっ、と笑みを浮かべるステファン。
こんな快活な笑みを浮かべたのは、いったいいつぶりだろうか。
「十分生きた……こんな年老いた尻を乗せる椅子があるなら、若いのに譲ってやるさ」
「しかし」
「構わん、ワシは最後まで戦う」
兵士の言葉を退け、燃える街の向こうに見えるズメイを睨んだ。
一度は堕落し、腐敗していたとはいえ―――ステファンもまた、英雄の血脈に連なる男であった。
地球規模の寒冷化(1907~1911)
ズメイの放ったプラズマブレスにより、蒸発した物質の粒子が対流効果で成層圏まで打ち上げられ、太陽の光を遮る事で発生した地球規模の寒冷化現象。早い話が火山の噴火や核の冬と同じ現象であり、当初はズメイ襲撃による被害が特に大きかったイライナを中心に、ノヴォシアからバルカン連邦の広い範囲で寒冷化が観測されたが、のちにアジアや西欧諸国にも影響が広がっていった。この寒冷化により一部地域では自然環境や生態が激変し、絶滅に追いやられた生物は108種類に達するとされている。イライナやノヴォシア、ベラシア、ポルスキー、ハンガリア等の東欧諸国の一部地域では一年中降雪が観測される事もあった他、中東や南方諸国でも降雪が確認された。
全世界では平均で-2.7℃の気温の低下が観測され、農作物の収穫量は全世界で平均40%減少。アジアや東欧では食料備蓄が枯渇した事で飢餓都市がいくつも生まれ、食料を巡った暴動や難民化が相次ぎ、世界人口は推計で1.3~1.5%の減少へと繋がった。
なお、各国が大国の穀物輸出に依存した結果、価格の高騰や穀物輸送ルートの軍事化、海軍拡張競争が急激に進み、更に各国で発生した暴動や国民の不満を外側へと向ける事で混乱を収拾しようとした国家が続出した事から強硬な外交政策や急激なナショナリズムの高まりが生まれており、この民族的沸点の上昇にドルツの情報工作が重なってが1914年のガナエヴォ事件へと繋がったのではないか、と多くの歴史家が口をそろえて発言している。
農業大国イライナでもこれによる飢餓から逃れる事は出来ず、1908年から食料不足により食料備蓄の切り崩しが開始。ミカエル統治下のリュハンシク州も例外ではなかったが、領民への食料の支給が素早かった事、自然災害を想定し大量の保存食を備蓄していた事もあり、当時を経験した領民たちは皆口をそろえて『苦難の時代でも飢える事は無かった』『子供がお腹空いたと泣くと次の日には食料の配給のトラックがやってきた』と証言している。この事からイライナは例外的に国民の生活が安定しており、多くの国民が飢えとは無縁だった、と口にしている。
なお、この際リュハンシクのリガロフ家での食事は1日2食、献立に多少の変化は在れど多くが【黒パンとニシンの缶詰】であり、稀にこれに屑野菜のスープやサーロが付く事があったという。
以下当時の証言
農夫(イライナ:当時30歳)
『確かにあの頃は寒かったです。麦は伸びないし、畑は凍てついて氷みたいでした。でも、他国の話を聞くとイライナは本当に恵まれてたんだなって。外の世界でそんな地獄が広がっていたなんて本当に信じられません。私の村では誰も餓死する事がありませんでしたし、子供たちが泣けば翌日にはパンをどっさり乗せたトラックがやってきました。ノンナ様はこんな辺境に住む農民すら見捨てる事はなかったのです』
街の仕立て屋(イライナ:当時27歳)
『寒冷化の予兆を見るや、リガロフ家が倉庫をいくつも開いたんです。元々はノヴォシアの侵略戦争が始まった時の備蓄だったそうですけど、あの時は本当にそれが役に立ちました。他所の国では食糧配給券とか、配給の列に並ぶだけでも争いがあったそうですが、私たちは配給の列に並ばなくても、家で待っているだけで必ず食料を受け取る事が出来ました。民の事を第一に考えてくださる貴族に守ってもらえて、私たちは幸せ者です』
孤児院の教師(イライナ:当時33歳)
『あの時は本当に世界規模の飢餓が発生しているのか、と疑いたくなりました。子供たちがその辺の草を食べたり、お腹が空いたと泣き出した次の日には、いったいどこからその話を聞いたのかリガロフ家のトラックがやってきてパンをどっさり置いていったんです。あの時の子供たちの笑顔……今でも忘れられません』
農民(当時48歳:ノヴォシア)
『春になっても夏になっても、畑には雪が残っていました。私たちはこれを”神の怒りだ”と思い、毎日のように教会で祈りを捧げていたものです。食料の配給は月に一度、パン1塊とジャガイモが少しだけ。子供たちはそれを分け合って、最後は泣きながら土をこね、それを食べる真似までしていました』
製鉄工(当時29歳:ノヴォシア)
『私の住んでいた街では暴動が当たり前でした。倉庫が襲われ、警備隊が暴動鎮圧のため民衆に発砲した事もあります。それだけじゃなく、外の村から飢えた人たちが流れてきて、駅前は雪をかぶって動かなくなった死体ばかりになっていました。私から言わせてもらうと、ズメイよりも追い詰められた人間の方がよっぽど恐ろしかったです』
学生(当時17歳:ノヴォシア)
『あの時、学校は暖房が切られて冬場は授業になりませんでした。最初は寒さで震える声をお互い笑い合う余裕がありましたが、それもそのうち無くなっていきましたね。友達も1人、また1人と飢えと寒さで倒れていき、母は「イライナに逃げれば助かったのに」と泣いていました。でも脱国は重罪……国境では多くの難民が銃を持った兵士に射殺されたと聞いています。気が付けば同級生の数は半分になっていました』
林業者(当時44歳:ベラシア)
『私ら地方民は最も配給の優先度が低いものとされていました。ベラシア共産党は首都を護るために食料を優先的にそっちへ回した、とみんな言っていました。冬の間の私たちの食べ物といったらその辺の草や土、木の皮でした。森に行って木の皮を剥ぎ、スープにして食べるんです。けれども飢えを抑え込めるはずもなく、私の家では春までに子供が3人死にました』
医療従事者(22歳:ベラシア)
『ベラシアでは、飢えた人間の身体がどうなっていくのかを否応なく見せつけられました。手足が痩せ、肌は灰色になり、けれども痩せた手足とは裏腹にお腹だけは膨らんでいるんです。食料は足りず、燃料もない。でもラジオから流れてくる共産党の放送では「首都は持ちこたえている」「これは苦難との戦争である」と繰り返すばかりで、もう何を信じればいいのか分かりませんでした』
鉄道員(36歳:ベラシア)
『列車が食糧輸送に使われたのは最初の3ヵ月だけで、そのうち燃料不足で止まってしまいました。軍が馬を動員して輸送を行いましたが、雪で道が塞がって殆ど食料が届かない。挙句の果てには軍馬も食料の足しにしてしまった、という話を聞きましたよ。国は死につつある地方を見捨てたんだって、私はそう思いました』
これらの惨劇が、たった1体の竜により引き起こされたのである。
この1907年から1911年の寒冷化とそれに端を発する世界規模の飢餓は、後に『暗黒時代』、または『大喪失』と呼ばれ、歴史にその名を刻むこととなった。




