母の祈り
撃墜王ミカエル
1894年のイライナ独立以降、イライナとノヴォシアの関係は緩やかに悪化を始めた。ノヴォシアはイライナが軍門に降る気がない事を悟るなり航空機を頻繁に領空侵犯させ恫喝を試みたが、イライナ側は都度対応。当初は警告と威嚇射撃のみであったが、領空侵犯の件数が急増した事を受け『今後は警告なしで撃墜する』とノヴォシア共産党に通告した。
対応は主にリュハンシク防衛軍が行い、途中からはSu-30Ex(R-2ndシステム搭載の性能実証機。ワンオフ仕様)に搭乗したミカエルも迎撃に参加した。彼女は1896年の初飛行から通算で387機の撃墜を記録し、ノヴォシアからは『我ら革命家最大の敵』と名指しで批判された一方、ノヴォシアのパイロットたちからは『空の雷獣』『リュハンシクの竜』などと呼ばれ恐れ、中には風の音をSu-30Exのエンジン音と勘違いし逃げ出すパイロットも続出したという。
挙句の果てには第二次イライナ侵攻で敵国首都モスコヴァまで単独侵攻。レールガンで砲撃し首都に甚大な被害をもたらしたとされているが、2020年代に入ってからの情報開示でパイロットは影武者であり、本人は義勇兵としてスオミでスロ・コルッカを名乗り戦っていた事が判明している。
信じられない事に、年齢80歳を過ぎてもまだ空を飛んでいたとされ、後進のパイロットたちからは『空の長老』とも呼ばれた。イライナ公国独立50周年記念式典では教え子たちのSu-35と共に7機でフォーメーションを組み、蒼い電飾が施されたSu-30Exでキリウの夜空を飛んでおり、その雄姿は今でも映像記録に残されている。
なお、彼女の機体は機首に『ミサイルに跨ったハクビシン幼獣』のマーキングがあったとされており、現在でもイライナ空軍のエースパイロットは雷獣の威容にあやかろうと機首にマーキングする事がある。リュハンシク空軍では伝統と化しているようだ。
まさか本当に、という副長の言葉に、艦長は苦々しい顔で小さく頷いた。
イリヤー・アンドレーエヴィッチ・リガロフも、そしてドブルィニャ・ニキーティチもイライナ出身の英雄である。そういう事もあって、イライナでは特にイリヤー伝説の知名度は高く、子供たちの憧れる偉人は多くがイリヤーかニキーティチであるという。
戦艦【スラヴァ】をキリウ大公ノンナ1世から預かった”アレクサンダー・コルヴォヴィッチ”大佐もそうだった。幼少の頃の楽しみと言えば母にイリヤー伝説の絵本を読み聞かせてもらう事で、軍人だった父の休日に映画館に連れて行ってもらい、ズメイとの戦いを描いた白黒映画(※当時は無声映画だった)を観た時などはこれ以上ないほど興奮したものだ。
いつか自分もイリヤーのような英雄になり、祖国を邪悪な竜から守る事を夢見て軍人を志したコルヴォヴィッチ大佐。しかしまさか、大人になり上官たちが定年で退役していき、自分もそろそろ退役後の事を考え始める辺りになって、少年の頃の夢が最悪な形で叶うと誰が想像したであろうか。
沈没しつつある貨物船『アンナ』の後部甲板に陣取り、炎に照らされながら咆哮する巨体。
夢でもなく、見間違いでもなければ―――それは紛れもなくイリヤー伝説に登場する邪竜、ズメイそのものだった。
翼長300mにも達する悪魔のような翼。
1つ欠けた、2本の長い首。
背中から棘の生えた長い尻尾。
そして全身を覆う黒い外殻と、その繋ぎ目から漏れる紅い光。
幼少の頃、母が読み聞かせてくれた絵本の挿絵に描かれている姿そのものだった。
紛れもなく、それは災厄の邪竜―――ズメイだったのだ。
「艦長……!」
「砲戦用意。目標1時方向、ズメイ!」
後続の貨物船が謎の飛竜に襲われている、という通報を受け、飛竜の排除と生存者の救助のために進路を反転、アレーサ港へ戻ってみればこれだ。よもやイリヤー伝説の怪物と戦艦で殴り合うなど……。
「津波到達までの時間的猶予は」
「……あと25分であります」
25分―――それだけの時間で、ズメイを撃破し沖へ離脱できるはずもない。津波を受けて転覆するか、そもそも25分の間にズメイにこの戦艦スラヴァが撃沈されるか。
だが、しかし。
炎上するアレーサの街を見て、コルヴォヴィッチ艦長は拳を握り締めた。
黒海を頂く静かなアレーサの街が、こうも炎上するのはいつぶりか。20年前の海賊の一件以来ではないのか。
生まれ育った故郷を―――父母の眠る街を、好きにさせてたまるか。
多くの乗組員たちがそう思っていた。ズメイの威容に恐怖こそ抱いたが、しかしその恐怖に勝ったのは故郷を焼かれた復讐心だったのである。
「……すまない諸君、君たちを生きて故郷に帰してやれそうにない」
「何言ってるんです艦長」
ヒグマの獣人の砲術長が、快活な笑みを浮かべながら拳を手のひらに打ち付けた。
「伝説の竜と一戦交えて死ねるなら本望です」
「そうですよ。もしかしたら、俺たち後世で英雄になったりして」
「子供たちにカッコいいところ見せてやりましょうぜ」
艦橋にいる乗員たちは皆、笑っていた。
ズメイと遭遇した時点ですでに、生還は諦めていたのかもしれない。
そんな死地に乗員全員を送り込んでしまった己の決断を後悔しつつ、艦長は「みんな……すまない」と小さく謝罪の言葉を述べた。
《主砲1番、砲撃準備ヨシ》
《2番、3番、砲撃準備ヨシ》
「よぉし」
ズメイの背中を睨み、コルヴォヴィッチ艦長はラッパのような伝声管に向かい命令を下した。
「―――砲撃開始。砲弾が尽きるまで、怒りを込めて撃ち尽くせ!」
戦艦スラヴァは、元々はイーランドの戦艦であるドレットノート級戦艦の4番艦であった。
1番艦ドレットノート、2番艦ジャガーノート、3番艦エジンコートに続く4番艦”アルゴノート”として就役したその戦艦は、元々は建造する予定のない艦であったとされている。
イーランドがイライナとの関係強化のため、製造元のペンドルトン・インダストリーに補助金を支払い製造終了した戦艦の製造ラインを再稼働させ、姉妹艦たちの問題点を改善、それをフィードバックする形で建造されたのがこの4番艦アルゴノートである。
イライナに格安で売り渡された戦艦アルゴノートは、アルミヤ半島アルムトポリの海軍基地にて艤装を終えた後、名を『スラヴァ(※イライナ語で”栄光”)』と変えて黒海艦隊の総旗艦として再度就役。健在建造計画中の【クニャージ・リガロフ級戦艦】就役までの繋ぎとして重宝されている艦である。
カッ、と30.5㎝砲の砲身内で装薬が点火し、榴弾がライフリングの刻まれた砲身内部を駆け抜けていく。十分すぎる運動エネルギーを受け取った砲弾は爆炎と衝撃波すらも置き去りにして空間を突き破り、勝ち誇ったかのように咆哮するズメイの背中を盛大に殴りつけた。
如何に伝説の邪竜とはいえ、質量も運動エネルギーも桁違いなドレットノート級戦艦の末妹に背後から殴られるのはたまったものではないらしい。全長135mにも達する巨体が着弾の衝撃で大きくよろめき、砲弾の質量と炸薬の爆発が黒い外殻を吹き飛ばす。
よもや海から自分を殴りつけてくる相手がいるとは思わなかったらしい。驚いたように長い首を沖へと向けると、既に再装填を終えていた戦艦スラヴァの砲撃が再度飛来。右の前脚と右側の首を付け根から捥ぎ取って、ズメイに大きなダメージを与えた。
いくらズメイが生命体としての完成度が高いエンシェントドラゴンとはいえ、それに果敢に殴りかかっているのは封印前のズメイが知っているフリゲートや戦列艦などではなく戦艦である。
分厚い装甲で戦場に留まり、相手の砲撃に耐えながら相手を主砲で叩き潰す海の怪物。運用にも維持にも莫大な費用が掛かるバケモノが、弱い筈が無いのだ。
勝ち誇っていたズメイは、首の1本を捥ぎ取られるに至ってやっと戦艦スラヴァを脅威と感じたらしい。海を割らんばかりの甲高い咆哮で威嚇するが、しかし覚悟のガンギマった海の男たちに威嚇が通用するはずもない。
三度目の砲撃が、ズメイの胸板を割った。
黒い外殻が吹き飛んで、真っ赤な血と―――さながら溶岩のように赤々と光を発する胸筋が露になる。
しかしその傷も、すぐに塞がり始めた。断面から真っ黒な鱗が伸び、傷口を覆って、まるで地層のように何枚も何枚も瞬時に折り重なって、あの単分子構造の分厚く頑丈な外殻が出来上がる。
千切れた首も、既に半ばほどまで再生しつつあった。
傷口が再生していきます、と悲鳴じみた報告をする戦艦スラヴァの観測員。攻撃そのものは通用するが、しかし再生能力のせいで殺すまでには至らない―――”死ぬまで殺す”にしても背後からは50m級の巨大津波が接近しつつあり、今の戦艦スラヴァに出来るのはズメイの注意をアレーサ市街地から自らへと向け被害担当を引き受ける事だけだった。
千切れた首の断面から頭蓋骨が生え始めたところで、ズメイは咆哮しふわりと空を舞った。燃え盛る貨物船の残骸がその巨体を下からぼんやりと照らし出し、まるで地獄の底から現世へと降臨した悪魔のようにも見えてしまう。
四度目の砲撃を試みる戦艦スラヴァ。しかしホバリングするズメイはその砲撃をひらりと躱すなり、普通の飛竜とは全く格の違う速度で戦艦スラヴァへと急迫。艦橋の右側面、第三砲塔を踏み潰す形で着地すると、艦橋のすぐ近くで大音量の咆哮を見舞った。
それは人間が耐えられる音量を超過していた。艦橋の窓という窓が割れ、観測員やコルヴォヴィッチ艦長ら艦橋要員、そして取り付いたズメイを何とかして引き剥がそうと銃座につき4連装機銃を連射していた射手たちの鼓膜が、脳が、内臓が、その暴力的極まりない音量を前に破裂してしまい、戦艦スラヴァの乗組員たちは目や耳、鼻や口といった開口部から血を吹き出して倒れていった。
しかし、その程度では邪竜の怒りはおさまらない。
背中の外殻を剥がし、胸板を割り、あまつさえ英雄イリヤーに切断されてしまい残った2本の首のうちの片方を吹き飛ばされたのである。それも神により直接造り出されたエンシェントドラゴンではなく、海中に生じた生命から永い時を経て進化した人類共に、だ。
再生を終えたばかりの右の前脚を大きく振りかぶり、前脚を艦橋へと叩きつけるズメイ。
同格の戦艦との殴り合いを想定し艦橋も装甲化されていたとはいえ、エンシェントドラゴンの、それも肉薄しての殴打など想定している筈もない。艦橋は指揮所もろともあっさりと圧壊し、既に息絶えているコルヴォヴィッチ艦長ら乗員たちの肉体を木っ端微塵に砕いてしまう。
艦橋で火の手が上がり、指揮能力を喪失する戦艦スラヴァ。
しかしそれでも、主砲は生きていた。
ゴゴゴゴ、と重々しい音を立てながら主砲が旋回。前部甲板と後部甲板に搭載された3基6門の30.5㎝砲の砲身が、ゆっくりと、しかし確実に仇敵ズメイを睨みつける。
直後、6門の主砲がゼロ距離で火を噴いた。
前例がないほどの超至近距離で放たれた一斉砲撃。艦橋の仇討ちと言わんばかりに叩き込まれた砲撃が、ズメイの左右の前脚を捥ぎ取り、胸板を叩き割って筋肉を裂くや、その肉の奥に鎮座する巨大な結晶状の器官を露出させる。
悲鳴のような咆哮を発し、翼を広げて上空へと退避するズメイ。
撃退したのか、と生き残った乗員たちが甲板から夜空を見上げるが―――その2つの口に、バヂッ、と蒼い稲妻が踊ったのを目にして、彼らは目を見開いた。
伝承にもあったのだ―――ズメイのブレスは一撃でアルミヤとノヴォシア本土の接合部を寸断してアルミヤを半島に変え、その際生じた爆発はノヴォシアの寒冷化を促進して、記録的な大飢饉を招いたと。
蒸発した物質の粒子を、対流効果で成層圏まで舞い上げてしまうほどの威力のブレス。
そう、”プラズマブレス”だ。
艦橋を潰されていては回避する事も出来ず、それでいて上空に逃げられたせいで主砲の仰角は限界で、生き残った速射砲や対空機銃で応戦しようにもズメイの外殻には通用しない。
それでも戦艦スラヴァは、最期の瞬間まで戦い続けた。
黒海の、祖国の海の守り手たらんと、最期の瞬間まで戦い続けたのだ。
しかし無慈悲にもズメイの2つの口から放たれたプラズマブレスが船体を瞬く間に溶断し、戦艦スラヴァはその命を終えた。
纏う熱風が甲板上の乗員を瞬く間に発火、蒸発させ、遅れて海面で発生したTNT換算にして145.6テラトンにも達するブレスによる水蒸気爆発が船体を押し上げ、完全に真っ二つに叩き割ってしまう。
溶けた装甲と断面を夜空に晒しながら、戦艦スラヴァは荒れ狂う波に呑まれ、そのまま黒海へと没していく。
アレーサのすぐ目と鼻の先で生じた、新たな水蒸気爆発。
それにより生じた新たな津波が、市街地へと向かい迫りつつあった。
ズメイのプラズマブレスにより生じた新たな波を目にしたグレイルは、目を見開いた。
戦艦スラヴァがズメイをタコ殴りにしている時は、もしかしたら、と淡い期待を抱きすらもした。戦艦ならばあるいは、と。
しかし戦艦の火力を以てしても殺す事は出来ず、逆に反撃を受け、目と鼻の先で巨大津波を発生させられてしまったのだからたまったものではない。まだグレイルは、レギーナを救出できていないし津波から逃れられる場所にいるわけでもない。
「レギーナさん!」
「グレイル、もういいの! あなただけでも逃げて!」
「何言ってるんです、ダメですよ諦めたら!」
しかし、グレイルも分かっている。
このままここにいれば、2人とも助からないと。
レギーナを見捨てて逃げれば自分は助かる。サリーを未亡人にしなくて済む―――しかし、狼の獣人であるが故に人一倍仲間意識の強いグレイルにとって、義理の母を見捨てるという選択肢は有り得なかった。最後の一瞬まで、限界まで努力を費やすべきだと結論付けていた。
しかし新たに生じた津波は既にアレーサ港を呑み込み、防潮堤を越え、市街地へと迫っている。
まるで海そのものが迫っているかのようだった。
映画で見るような巨大な波ではない―――まるで海そのものが移動して、沿岸部の街を呑み込もうとしているようにも思えた。
倒壊した建物の瓦礫を巻き込み、黒く濁った濁流が迫ってくる。
地響きにも似た荒れ狂う海の音に、グレイルは恐怖した。
「―――グレイル」
レギーナが、笑った。
「―――サリーをお願いね」
「……っ」
ごめんなさい―――何もできなかった己の無力さに憤り、歯を食いしばりながらも、グレイルは心の中でそう思った。
そっと、レギーナから手を離す。
どれだけサリエルから責められてもいい―――義理の兄、ミカエルから叱責されても構わない。
それら全ては、何もできなかった自分への罰として甘んじて受け入れよう。
走って逃げていくグレイルの背中を見つめながら、レギーナは目の前でそっと十字を切った。
「……お母さん、お願い」
先立った母、カタリナへ祈る。
自分も今、そこへ逝くと。
そして―――子供たちの永久の安寧を。
「ミカを、サリーを……みんなを、護って」
彼女の祈る声は、濁流にかき消された。
リュハンシク行進曲
作詞・作曲:アリョーシャ・イグナートフ
制定:1916年
イライナ公国の軍歌。ノヴォシアによる第一次、第二次イライナ侵攻を跳ね除けたリュハンシク守備隊の活躍を讃え、イライナ公国政府の要請を受けた作曲家アリョーシャ・イグナートフが作詞と作曲を行った。
制定後から軍事パレードで定番の曲となったほか、スオミやポルスキーなどの友好国の軍隊でも歌詞を変更するなどして行進曲として採用されている。
歌詞
1
黎明燃ゆる草原に
旗はたなびくリュハンシク
暁裂きて立ち上がる
雷の民 我らが兵
銃声響け 空を割れ
民を護るは我が使命
赤き嵐を打ち砕け
進め、リュハンシクの仔ら!
2
黄金の大地に麦は実り
亡き友の名を風が呼ぶ
涙の雨に濡れながら
誓いは炎となりて生きる
母なる国よ 安堵せよ
国土侵す敵あらば
我らは再び壁とならん
進め、リュハンシクの仔ら!
3
雷鳴こだまし 地は叫ぶ
再び迫る赤き旗
隊列組んで 銃をとれ
自由は剣よりも強し
祖国の空へ声をあげ
希望の光を掲げ征かん
誇りの名を 我らの名を
永久に、我らイライナの仔ら!




