破滅の先触れ
セシール「こないだ範三の作った蕎麦食べたんだ」
ミカエル「うん」
セシール「蕎麦とか小麦粉は手に入ったんだけど、蕎麦に使うつゆは手に入らなくて」
ミカエル「商人から買ったのか?」
セシール「 い や 全 部 範 三 が 手 作 業 で 作 っ た 」
ミカエル「」
セシール「 黒 海 で 鰹 釣 り 上 げ て か ら 鰹 節 を 自 作 し 始 め た 時 は 我 が 目 を 疑 っ た 」
ミカエル「」
リュハンシクに戻ってからの最初の仕事は、防衛体制の増強を命じる事だった。
現時点で、もう既にリュハンシクには十分すぎる数の守備隊が展開している。が、あくまでもこの戦力はノヴォシアの侵略を跳ね除けるためのものだ。能力よりも党への忠誠心を優先して選抜した無能な指揮官と、突撃する事しか許されない歩兵部隊を打ち払うには十分な戦力だが、しかし相手がズメイとなると話は違ってくる。
イライナ東部リュハンシク州は、ノヴォシアと開戦になれば真っ先に攻撃を受ける場所である。平原が広がっており遮蔽物がない事、地理的にノヴォシア領へ杭のように突き出ている事、そしてノヴォシアの軍事拠点のあるマズコフ・ラ・ドヌーとほど近い事がその理由となっている。
有事の際を想定し、リュハンシクには戦車500両を常駐。自走砲も装甲車も、歩兵部隊も十分な戦力が揃っている。もはや1つの州の軍隊というより、一国の軍隊とも呼べるレベルの規模だ。
それでいて規模の割にコストが掛かっていないのは、兵員全てが戦闘人形であり人件費がかからないからだ。おかげで兵器の維持費や製造費に全額ぶち込める。
「もし一週間以内にズメイが復活、イライナに進行したと仮定した場合、想定される進行ルートは?」
「相手は人間じゃないからねェ……」
腕を組みながら想定される条件を告げると、シャーロットは棒付きのキャンディーを口に放り込みながら立体投影されたホログラムのキーボードを指で叩き始める。
目の前にあるAIに条件を入力すると、シャーロットが自作したAI『セフィロト』は1秒足らずでシミュレーション結果を出力してみせた。
立体投影されるイライナ東部の地図。封印されていたアラル山脈を飛び立ったズメイはリュハンシク防衛線を意に介さず突破、そのまま首都キリウに直行する様子が紅い矢印でハイライト表示されている。
「……全戦力をぶつけたと仮定した場合はどうだ?」
「変わらないよ」
言いながらもシャーロットは前提条件を変更、AIにシミュレーションさせるが、結果はそう変わらなかった……戦闘時間が5分から8分に変わっただけである。
「……確認しておくが、この戦闘時間8分ってのはアレか? 守備隊が全滅する時間って事か?」
「いや、ズメイは防衛部隊による攻撃を無視してキリウへ直行する可能性が高いという事さ」
「無視? なぜだ」
「おそらくだが、ズメイはミサイルや榴弾砲による攻撃を”攻撃”とすら見做さないんじゃないかな」
絶句した。
そんな事があっていいのか、と。
確かにゾンビズメイも変異を繰り返し、最終的には対戦車ミサイル程度では満足なダメージも与えられないほどの防御力を手にした。
しかし本体の力は、あのゾンビズメイとは比較にならないほどのものである―――薄々そう思ってはいたが、よもやこれほどのレベルにまで達しているとは。
「じゃあ……ズメイはリュハンシクをただ移動していくだけって事か?」
「そうなるねェ」
頭を抱えたくなった。
大国の侵略を跳ね除け、圧倒するだけの戦力がここにいるというのに、それらの全力攻撃を受けたとしても意に介さないとは。
「……条件を変更。もし仮にズメイが我々を敵と認識、守備隊と交戦に入った場合の結果は? こちらの戦力は現時点のもので、予備兵力も全て投入した場合と仮定する」
「……」
タイピングし、AIに結果を出力させるシャーロット。
結果が表示されると同時に、彼女は咥えていたキャンディを噛み砕いた。
―――所要時間は、10分だった。
しかもそれは、10分でこちらが全滅するという衝撃的な結果だった。
改めて、先人たちの強さに脱帽である。
銃と格闘術、戦技を身に着け、魔術と錬金術を修めた―――今ならばあるいは、と思った事が無いと言ったら嘘になる。もしかしたら祖先たるイリヤーを超えたのではないか、と。
しかしそれが誤りであったと自覚するのに、幸いそれほど時間はかからなかった。
数少ない断片的なデータを読み込んだ結果のシミュレートとはいえ、リュハンシク守備隊を僅か10分で全滅に追いやるエンシェントドラゴン、ズメイ。
「……俺の祖先は、たった2人でこんな化け物を退けたのか」
リュハンシク城の執務室に飾られている絵画を見つめながら顔の前で手を組み、思わずつぶやいた。
黄金のメッキで彩られた額縁に収まっているのは、馬に跨り大剣を掲げる大英雄イリヤーの後ろ姿と、口を大きく開けて翼を広げ、今まさに炎を吐き出さんとしているズメイの巨体が躍動感あふれるタッチで描写されている。
ノヴォシアの画家が描いた【英雄の出陣】と題された絵画、その複製画だ。オリジナルはだいぶ状態が悪いようで、キリウ大聖堂に厳重に保管されており販売はされていないらしい。
「シャーロットから連絡が。兵器の製造体制は戦時増産体制に入った、と」
「ありがとう」
クラリスの報告に、しかし本音を呑み込み建前の言葉で応じた。
―――焼け石に水じゃあないか?
現時点での戦力は、十分にノヴォシア軍の攻勢を退けられるだけのものである、と評価できる。
その全戦力を、予備兵力まで投入して全力攻撃しても10分で全滅するという判定を受けているのである。まあ、断片的なデータを読み込んだAIのシミュレーション結果である事に留意が必要ではあるのだが、だからといってその精度の不確かさに期待するわけにもいくまい。
―――ズメイ復活はイライナ存亡の危機である。
姉上は、ノヴォシア側にそう通達したそうだ。
復活が確認できた場合、こちらはそれ相応の処置を取る、と。
「……ノヴォシア側は何と?」
「相変わらずですわ。”ズメイ復活の予兆は確認できず、石碑にも変化は起こっていない。不要な不安を煽る言動は慎むべき”だそうで」
「……本当に愚かだ」
どうしてなにもかも隠蔽しようとするのか。
自分たちだけで討伐できる相手であると、本気でそう思っているのか。
「クラリス」
「はい」
「……戦力増強の最低ラインは領民が避難できるまでの時間を稼げる程度だ。シャーロットにはそう連絡を」
「かしこまりました」
「それと……”イライナの槍”の照準をアラル山脈、封印の石碑に合わせておいてほしい」
表情を変えずに言うと、クラリスは眼鏡の奥の紅い瞳を微かに震わせた。
正気ですか―――彼女の、爬虫類のような形状の瞳がそう告げているのが分かる。
「弾頭は対消滅弾頭、出力100%。加害範囲を4.5~5.0ヘクタールに搾る事は可能か?」
「技術的には可能です」
「ではそうしてくれ。いつでもピンポイントでズメイを攻撃できるよう24時間体制で監視を続行。ステルスドローンも増強、長距離ミサイルは常に配置に就かせるよう厳命を」
「かしこまりました」
リュハンシク州領主は、他の州の領主と比較するとより強い権限を与えられている。
ノヴォシアが侵攻を開始したら真っ先に攻撃を受ける最前線の州だから、という理由もある。が、俺が僭越ながら執筆し適宜改定を加えている『国防計画1號』(※のちに”ミカエル・プラン”と呼ばれる国防計画)の中には【リュハンシク州を”リュハンシク共和国”として独立を承認、イライナ本土から切り離し戦争を代行させる】という案が存在する。その際領主が国家元首として振舞う事が期待されているのだ。
それ以外にもイライナ公国憲法には専守防衛を順守する旨の記載があるが、条項の中には【ただし敵国が自国に対し危害を加える意思が明確であると判断できる場合、越境攻撃により先制でこれを攻撃、殲滅する事が出来る】というものがある。
越境攻撃の裁量もリュハンシク領主に限り認められており、憲法の範囲内で越境攻撃ができるのだ。
この場合、ズメイの復活の可能性に対し隠蔽を繰り返し何の対応もしないノヴォシアという状況を考慮すると、ズメイはイライナに対しての脅威であり、侵略してくる恐れがある存在であり、またノヴォシアがそれに対し隠蔽工作を繰り返している事から、まあ憲法を拡大解釈して越境攻撃してもだいたいOK、という寸法だ。
姉上にはこの事は既に通告してあるし、外交ルートを通じてノヴォシア側にも通達しているらしい……向こうの外交官はかなり嫌そうな顔をしたそうだが。
ズメイ復活はそれだけ人類の脅威だ。
万一、ノヴォシア、イライナ、ベラシアの北方三国がこの脅威を前に屈してしまった場合、次に犠牲になるのは東欧及びバルカン諸国、そしてそこでも抑え込めなければ西欧に北欧、そして海を渡り南米へ……言うなれば俺たちは惑星規模の脅威、その最前線に位置しているのである。
コンコン、とドアをノックする音。ラフィーかな、と思いながら「入れ」と短く言うと、やはりドアを開けて部屋に入ってきたのはラフィーこと息子のラファエルだった。
「失礼します、父上」
「どうした、何かあったか?」
「はい……管理局で働いている友達から気になる話を聞きました」
そういえば、ラフィーの友達が何人か管理局で職員の仕事をしていると聞いた事がある。自衛用のライフルを持ち、冒険者の討伐確認に現場に赴いたり、依頼人と冒険者の仲介を行ったりする仕事だ。
冒険者ほどではないが、下手をすれば命に係わる危険な仕事でもある。
「最近、”正体不明の魔物”に襲われて負傷する冒険者が後を絶たない、と」
「正体不明の魔物?」
「はい。生き残った冒険者の証言では”首が3つある小型の飛竜だった”と」
目を細め、クラリスの方を見た。
間違いない―――”竜の仔”だ。
ズメイの細胞から生まれた幼体と目されている魔物。封印が弱まり、ズメイ本体がこの世界に干渉を強めている証拠と言っていいだろう。
ノヴォシア国内だけでなく、イライナでも目撃例が出るどころか実害が出るとはな……。
「ご主人様」
「シャーロットを呼んでくれ。調査に行く」
「父上、僕も行きます」
「分かった……だがヤバいと思ったらすぐに逃げろ。いいな?」
「はい、父上」
神話の怪物、その幼体。
生け捕りにするか、死体をサンプルとして持ち帰れば……何か得るものはある筈だ。
東シナ海事件(1941年11月8日)
東シナ海を警邏中だったジョンファ海軍の巡洋艦『長江』と、アメリア海軍所属の巡洋艦『アストリア』が接触。そこから双方の艦の乗員の銃撃に発展した事件。当時は大東亜連邦への圧力を強めていたアメリアと、圧力をかけてくる欧米諸国への敵意から双方の緊張は限界に達しており、この事件が太平洋戦争勃発の引き金となった。
11月8日午前10時12分、東シナ海を航行中のアメリア巡洋艦『アストリア』発見の情報がもたらされるなり、ジョンファはこれの追跡と監視のために巡洋艦『長江』を派遣。アストリアが排他的経済水域に侵入した事から警告を行うも、南シナ海では欧米諸国と大東亜連邦側で領海や排他的経済水域の認識と主張が異なっていた事から、アストリアは自国側の主張を問題のないものとし航行を継続した。
なおも前進するアストリアが領海内へ侵入するコースを取った事から、長江はより接近しての警告を指示。アストリア左舷より艦を寄せ、右舷の副砲の照準を合わせながらの警告を行った。
しかし11時3分、双方の艦は艦首側より接触。ジョンファ側は『アメリア艦がぶつかってきた』、アメリア側は『ジョンファ側が意図的に激突させた』とそれぞれ主張しており、認識が食い違っているためどちらに非があるのかは明らかではない。
この衝突をきっかけに双方の緊張は限界に達し、両国巡洋艦の甲板上では銃を持ち出した水兵たちによる銃撃戦が発生。両艦の艦長は水兵たちを制止しようとするが一度ついてしまった火はなかなか消えず、ジョンファ側の水兵『陳浩宇』が銃撃を受け死亡。仲間の死に激高した水兵が右舷の副砲を発射しアストリアは小破。被弾したアストリアはそれ以上のエスカレーションを回避するため反撃せず、全速で東シナ海を離脱していった。
ジョンファ側からの報告を受け、大東亜連邦は本部のある台湾に加盟国各国首脳を招集し緊急会議を開催。この東シナ海の事件が大東亜連邦の主張するジョンファ領海内で起こった事を考慮し『これは欧米諸国によるアジアへの明確な侵略行為である』と非難する声明を発表。一方のアメリア側は『我々は国際法を順守しており、銃撃や砲撃を受ける謂れはない』と主張するも、高まっていた緊張のために両国内では開戦を求める声が大きくなっていき、倭国は開戦を決断。翌月12月8日、宣戦布告と同時にアメリア領ハワイア群島ルビーハーバーを機動艦隊で報復攻撃し、太平洋戦争の開戦となった。
なおこの東シナ海事件においてどちらに非があるかという議論は2025年現在においても続いており、ジョンファが先に撃った、アメリアが先に仕掛けたという説から『これは大東亜連邦側がアメリア側に潜り込ませていたアジア系乗員に撃たせる事で開戦のきっかけを作った一種の偽旗作戦である』という陰謀論めいた説まで囁かれており、今なお議論の対象となっている。
実際、この事件を受けアメリア側は軍内部のアジア系人員の全員を強制収容所へと送る隔離政策を実施している。




