滅亡への序曲
ミカエル「ふー、疲れたぁ」
クラリス「お疲れ様ですわご主人様」
ミカエル「ごめんパヴェル、風呂入るから風呂湧かしといて」
パヴェル「仕方ねえ俺がDJやるしかねえな」
ミカエル「誰が”フロア沸かせ”つったんだよオイ」
「さっちゃーん。ほーらママでちゅよ~♪」
「きゃー♪」
抱き上げたサキエルの小さな身体を優しく揺すりながら、今まであまり見た事がないレベルの笑顔と甘い声を我が子に投げかけるシャーロット。俺とシェリル以外の仲間たちはみんなそのギャップに驚いているようだが、まあ無理もない事だ。
彼女の場合、出産に至るまでのハードルが高かったのだから。
生まれつき数多の障害を抱え、それを忌み嫌い自由を求めて生身の身体を捨て、そこから先祖返りするかのように再び生身の身体を手に入れたのである。一度諦めた夢を再び手にする事がいったいどれだけの努力を要するのか、俺には察するに余りある。
それを全て乗り越え、やっとの思いで生まれた小さな生命なのだ。溺愛しない筈がない。
きゃっきゃと楽しそうに笑いながら、まだまだ丸くて小さな手を伸ばすサキエル。お母さんの頬っぺたをぺたぺたと触ると、今度はぐいぐい引っ張り始める。
他の子供たちがそうであるように、サキエルもまたハクビシンの獣人として生を受けた。
一部が白くなっている前髪や眉毛と睫毛、そして頭から生えるケモミミに尻尾とその特徴はハクビシン獣人のそれだが、しかし一方で母親たるシャーロットの血も濃く出たのだろう。毛並みは基本的に海原を思わせる蒼なのだ。
そんな特徴もあって、他の兄妹たちと比較すると一発で見分けがつくようになっている。
「ふふっ、なんだか目元がシャーロットにそっくりですね」
「ママに似たのかな?」
「じゃあサキもきっと研究者になるね。間違いない」
サキエルの前で指をくるくる回し始めるシャーロット。ジャコウネコ科の獣人としての本能なのだろう、動く指先を目で追ってはそれを掴もうと手を伸ばすサキエルは、とても楽しそうだ。
きっと母親に似たのだろう……そう思いながら、ついでにシャーロットの悪癖も思い出す。
シャーロットの場合、一度フィールドワークに出ると最短で三日、長くて一ヶ月単位で帰って来ないなんて事も珍しくないのだ。なので保護者同伴でもない限りフィールドワークに出すのは不安……と思ったけど、いつぞやの感覚遮断落とし穴の一件があるのでコレ俺も同伴した方が良いだろう。親子そろってエロ同人されるなんて事になったら大変だ。色々と。
「むー」
「ん?」
「ふふっ。ほら、サキがパパとも遊びたいって」
こっちを見ながら小さな手を伸ばしてくるサキエル。どうやら俺をお呼びらしい。
はいはい、と傍らに歩み寄って頬っぺたをぷにぷにすると、小さな手に指先をぎゅっと掴まれた。
母親も頑張って幸せを手にしたのである。
この子にもきっと幸せな未来が待っている―――親として、そう思わずにはいられない。
「―――お久しぶりです、姉上」
ジノヴィがキリウを訪れるのはいつぶりだろうか―――思い返すだけでも半年前くらいだから、彼がここにやってくるのは”珍しい”と言ってもいいのかもしれない。
そう思いつつ、ジノヴィの表情から一緒に優雅に紅茶を飲みながら午後を過ごしている場合でもないな、とも察した。
いつも仏頂面で、どことなく他人と距離を開ける事の多いジノヴィ。しかしそんな彼の顔には焦りにも似た緊張の色が浮かんでおり、”絶対零度の法務官”とも言われた男が浮かべる表情などではない。
ただ事ではない―――そう判断するには十分すぎた。
「悪い知らせか、ジノヴィ?」
「ええ、かなり。下手をすれば人類の存続にも……」
「周りに人はいない。話せ」
人払いの必要はない。
用件を、と急かすや、ジノヴィは持参した封筒の中から数枚の白黒写真を取り出してアナスタシアの机の上に置く。
写っているのは石碑のようだった。
大地に刺さった大剣を象った石碑。表面には『Здесь произошла самая страшная катастрофа в мире(世界最悪の災厄、ここに眠る)』という表記も確認できる。
刻まれている言語がノヴォシア語である事から、その石碑はイライナではなくノヴォシアにある事が分かる。
その石碑が何か―――ノヴォシア、ベラシア、そしてイライナに住む人間であれば一発で分かる事だ。
その恐怖は、彼らの民族に遺伝子レベルで刻まれているのだから。
「ズメイの封印に揺らぎが」
「……ついに、か」
ついにこの刻が、とアナスタシアは息を吐いた。
よく見ると写真に写る大剣型の石碑―――ズメイの封印には亀裂が生じており、写真はその亀裂をノヴォシア側の調査員が調査しているところのようだった。
とはいえ、ズメイが封印されたのは今からおよそ180年前の事である。リガロフ家の始祖イリヤーと、その盟友ニキーティチ。今なお英雄として語り継がれる2人が全力で挑み、しかし討伐までは至らず封印がやっとだったという災厄の邪竜ズメイ。
その力は、ゾンビズメイの一件で思い知っている。
ただの首の1本、それだけであれほどの損害をもたらしたのだ。その本体が復活するとなればいったいどうなるか……考えたくもない。
「さすがに今日明日復活する、という事はありませんが……決して遠くはない未来、我々は神話に挑むことになるかもしれません」
「……」
ズメイの復活―――最悪の知らせを聞いたアナスタシアの脳裏に過ったのは、ミカエルの顔だった。
イリヤーの再来、イライナ救国の英雄の血脈、その末席に名を連ねる彼女ならば……あるいは。
いずれにせよ、あまり良い知らせではない。
最悪の未来に備えておく必要がある。
―――来たるべき”審判の日”に。
第四十章『次世代たち』 完
第四十一章『審判の日 1907』へ続く




