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定期的な大掃除


 1897年 10月11日


 イライナ公国東部リュハンシク州 ”串刺し公の庭”上空







 イライナ東部リュハンシク州とノヴォシア西部マズコフ・ラ・ドヌーの国境付近、そこからリュハンシク城にかけての平原には”串刺し公の庭”と呼ばれる領域がある。


 イライナ独立戦争時、そしてこれから頻発するノヴォシアのイライナ侵攻で、しかし決してそこから先へ進む事の出来ぬ領域。ひとたび足を踏み入れたら最期、不躾な侵入者はたちまち槍で身体を貫かれ、無残な晒し者にされてしまうであろう。


 故にリュハンシク城の城主、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ公爵はノヴォシア側から『串刺し公』とも呼ばれ、畏れられる存在としてそこに君臨し続けている。


 眼下にその、まるで闇を塗り固めて造り上げたかのような漆黒の城を認め、複葉機に乗るノヴォシア空軍のパイロットは息を呑んだ。


 既に彼らはイライナの領空を侵犯しており、ここはイライナ公国の領空だ。無論、事前の通達も無ければ許可も得ていないれっきとした国際法違反であり、すぐに彼らの侵入を察知したイライナ側の飛行機が領空侵犯の旨と警告、進路変針の要求をしにスクランブル発進してくるであろう。


 それこそが彼らの任務だった。イライナの領空を侵犯する事でイライナ側の出方を見極める事―――既にイライナは外交ルートを通じ、『領空侵犯を確認した場合は警告なく撃墜する場合がある』とノヴォシア共産党へ通告を出しているが、本当にそうできるものか確認するという意味合いが強い。


 仮にも彼らは大国ノヴォシアの航空隊である。迂闊に撃墜に踏み切れば両国の関係は悪化の一途をたどるし、その気になればノヴォシア共産党はパイロットの死を大義名分としてイライナ侵攻の口実を作る事も出来る、というわけだ。


 結局のところ、彼らは人身御供にされたも同然だった。


 ふざけている、と上層部からの命令の意図を胸中で糾弾しながらも、パイロットは指示されたコースを飛んだ。


 複葉機が実用化されたのはつい最近の事だ。アメリア合衆国のライト兄弟が飛行機を実用化した事で、その技術は飛竜に代わる航空戦力として世界中に広く普及した。


 飛竜のように調教や雛の段階での刷り込みが不要で、飛行能力に個体差が無く、おまけに変温動物である飛竜のように周囲の気温に気を配る必要もない。資源と資金さえあればいくらでも増産が可能であり、その合理性は瞬く間に飛竜を空の王者の座から蹴落とした。


 これからは一切の非合理性が許されぬ、徹底した合理化の時代へと舵を切っていくのだろう。血と鉄の時代の到来を感じながら、パイロットは意識を現実へと引き戻した。


 とにかく、今は任務をこなさなければならない。


 何事もなく設定されたコースを飛んで基地へと帰る。そして雑味に塗れた安物のコーヒーで一息つくのだ―――そういえば次の休暇はいつだったか、と思い至ったその時、彼は確かにその絶叫を聞いた。


 それはまるで、空間が引き裂かれるかのような絶叫。


 限界まで高められた運動エネルギーの暴力に耐えかねた空が発するヒステリックな金切声だった。


 ギャオゥ、と甲高い轟音。


 いったい何の音か―――凄まじい衝撃波に機体を揺さぶられながらも必死に操縦桿を握るパイロットの視界の端に、粉微塵になった部品のような物が映る。


 翼、フラップ、エンジンの一部、尾翼の切れ端―――そしてコクピットから投げ出されたパイロット。


 砕けて落ちていく主翼の識別番号から、後方を飛んでいた味方機のものだと気付いたのはすぐだった。


「Что? Что, чёрт возьми, случилось⁉(なんだ? いったい何が起きた!?)」


 もう1機の友軍機が翼を振り、異常事態を伝えてくる。


 しかしそんな事は百も承知だ―――大慌てで視線を周囲へと向けるが、しかしどこにも敵機の姿は見当たらない。


 対空砲の類かと思ったが、しかしこの速度で飛ぶ複葉機を初弾で直撃できるような対空砲など見た事も聞いた事もない。イライナの新兵器か何かなのだ、と理解した瞬間には背中に冷たい汗が滴り、息が上がっていた。


 カッ、と空の一角に蒼い閃光が迸る。


 日の光などではない―――そう思った瞬間には、翼を振り終え回避行動に移ろうとしていた友軍機のどてっ腹に風穴が開き、やがて燃え盛る破片を散弾よろしく撒き散らしながら爆散していた。


 遅れて再び、先ほどの”空の叫び”が木霊する。


「Отмените миссию и возвращайтесь домой!(任務を中断、帰還する!)」


 もう十分に、イライナ側のやり方は見た。


 連中は本気なのだ。我らの空を侵せば殺す、という通達は決して脅しでも何でもない。言ったからにはやる、それを口実に戦争をするなら真っ向から叩き潰す―――つまりはそういう事だ。


 翼を翻し、マズコフ・ラ・ドヌー方面へと逃走を図る。


 しかし空と、視界の端にチラリと映った婚約者の写真―――それが彼が最期に見た、この世の風景となった。


 その直後には後方から飛来した一発の砲弾が、複葉機を粉々に打ち砕いていたのである。


















 機体に搭載されたAIによるガイドを参照しながら、Su-30Exをゆっくりと減速させていく。


 北からの風に機体が何度か揺れたけれど、大きく進路が乱れるような事は無かった。


 まるで木の枝に降り立つ小鳥のようにふわりと滑走路に降りる。ランディングギアの軋む音。機体後部に搭載されていたドラッグシュートが解放され、空気抵抗まで用いた急減速で機体がスピードを落としていく。


 既定の位置で機体を停止させ、ゆっくりと格納庫のある方向へと進めていく。既にかまぼこ型の格納庫(ハンガー)にはポンプ車と台車を持った医療スタッフ、それから白衣姿のシャーロットがいて、こっちに向かって大きく手を振っているところだった。


 彼女に応えるように機首のカナード翼をピコピコ動かして、そのまま格納庫(ハンガー)へ。


 機体を停止しエンジンをストップ、その瞬間に俺の意識と機体との接続が電子的に”切れる”感覚を味わった。それはまるで楽しい夢から覚めた瞬間のようで、意識の外側から途端に圧し掛かる自分の肉体の重さと、空を飛ぶ開放感の喪失が同時に襲い掛かってくる。


 がごん、と機体に何かが接続される音。多分ポンプ車の吸引ホースが接続されたのだろうな、と思いながらしばらくこの宇宙服みたいにごついパイロットスーツ姿で待っていると、じゅるじゅると音を立てて、まるで未知のクリーチャーが人間の脳を吸うような気味の悪い音と共にコクピット内の対Gジェルが吸い出されていった。


 ジェルの水位が下降して、コクピットの中に薬品臭だけが残る。


 パシュ、と空気の抜ける音と共に装甲化されたキャノピーが解放された。差し込む外の光の眩しさに目を覆いたくなるが、自分一人ではまともに動かせないほど重い宇宙服みたいなパイロットスーツがそれを許さない。金魚鉢みたいなバイザー越しに照り付けてくる格納庫の照明に網膜を焼かれそうになっていると、その光の中に妻の姿が浮かんだ。


「やあやあ、任務お疲れ様」


「……後味が悪いものだな、逃げる敵の背中を撃つっていうのは」


 俺の任務―――それは領空侵犯してきやがった礼節を弁えないバカ共を撃ち落とし、イライナの領空侵犯に対する姿勢を示す事。


 ここでノヴォシアの軍事力にビビって警告と変針要求だけでは相手に舐められる。だから領空侵犯した敵機を即座に全機撃墜し、こちらのやる気をアピールしてやる必要があった。


 その任務に注文を付けたのは、他でもないシャーロットだ。


 意外と馬鹿力の持ち主でもあるシャーロットに抱きかかえられ、パイロットスーツのまま台車に乗せられる。


 その時にやっと、自分の機体の姿が見えた。


 【Su-30Ex】―――俺専用に用意された、R-2ndシステムを搭載したSu-30の特別仕様。


 いわゆる性能実証機、あるいは試作機という位置付けのワンオフ機だ。シャーロット曰く「実戦データが欲しい」というので実弾を積んで出撃したのだが、しかしあんな相手の意識外からレールガンをぶっ放すだけの戦闘でよかったのだろうか?


 機体の下部―――仲良く2つ並んだ大口径のエアインテークの間に、砲身が上下に割れたレールガンが取り付けられている。三度の砲撃を終えたそれは未だ微かに熱を帯びていて、周囲にはうっすらと陽炎が浮かんでいた。


 こちらに向かってくる敵を撃つというのならば、まだいい。


 しかし戦う意志もなく、明らかに逃げようとする敵を撃つというのは何とも後味の悪いものである。安物の、雑味に塗れたコーヒーを飲んでいるかのようだ……いや、それよりも心の奥底にいつまでも沈殿して、思い起こすたびにざらりとした嫌な感覚を残していく分こっちの方がタチが悪いというものである。


 そんな俺の心の中を見透かしている……というか察しているのだろう。シャーロットは特に任務の事は何も言わず、台車で研究室へと運び込まれた俺の身体から黙々とパイロットスーツや追加装備を取り外し始めた。


 嫌な思いに敢えて触れない彼女の優しさを感じつつ、しばらくされるがままにされる。


 思いのままに空を舞う自由と、重力に縛られ地に足を付ける日常の境目。


 これはきっと通過儀礼なのだろうなと、そう思った。


















 空で戦い、次は地上で戦う。


 某ソビエトオオヒグマは生活圏が広い事で有名だ。歩兵として戦っていたかと思いきや今度は戦車に乗り、お次はヘリを飛ばし、今度は戦闘機まで飛ばす。


 現役の頃は戦艦の機銃手をやったり潜水艦にも乗った事があると言っていたから、彼の場合はあとは宇宙に行くだけでコンプリートというわけだ。


 俺も人の事は言えないな……と思いつつ、跨ってた”ベスパGTV”を路肩に停車させた。座席後方に追加したラックの上には『Піца "Ведмідь"(ヒグマピザ)』というロゴと、パヴェルの描いた”ピザの生地を回すヒグマのシェフ”のイラストが添えられている。


 ボックスの中からピザの箱を取り出して、階段を上った。


 雑貨店の2階にあるドアをコンコン、とノックすると、中から足音が聞こえてくる。


『Чого ти хочеш?(何の用だ?)』


「Я прийшов сюди за доставкою піци. Велика моцарела... Це правильне замовлення?(ピザの配達です。モッツァレラのLサイズ……で注文合ってますよね?)」


『Адреса неправильна. Ми не замовляли піцу(住所間違ってるぞ。俺たちはピザなんて頼んでない)』


「Ех, тобі не треба? Воно таке смачне і повне сиру?(え、いらないの? チーズたっぷりで美味しいのに?)」


 それは残念な話である。休日の昼間、ソファの上でだらけながらB級映画を見て炭酸飲料と一緒にパクつくピザほど美味い物は無いというのに。


 ピザの箱を開け、中から得物を引っ張り出した。


 ACRストックを装着し折り畳んだ状態のポーランド製アサルトライフル、ベリル。UH-1ホロサイトとブースター、M-LOKハンドガードにマウントしたハンドストップというミカエル君仕様のAKクローンを引っ張り出すなり、安全装置の解除とセレクターレバーを弾いてフルオートに。コッキングレバーを引いて初弾を装填してからストックを展開、ドア越しに撃ちまくった。


 パパパン、と軽快な5.56㎜弾の銃声。


 左手を伸ばしてドアに触れ、施錠されたドアを砂へと変えて進路を確保。廊下の向こうに人影が見えたので眉間を撃ち抜いて黙らせ、部屋の1つ1つをクリアリング。カッティング・パイの要領で曲がり角から徐々に角度を変えて敵を探り、誰もいない事を確認―――これを繰り返す。


 ホロサイトの向こうに人間の頭が見えたので、撃った。5.56㎜の金属の礫に穴を開けられた程度で人間というのは簡単に死んでしまうのだ。なんと脆い事か。


 敵がもう誰も残っていない事を確認して、部屋の中にある書類や引き出しの中を物色した。やはりカーチャの調査は正しかったようで、書類にはノヴォシア語の羅列が見て取れる。暗号っぽいが、鍵の付いた引き出しを錬金術で強引に開けてみると中には暗号の置換表もあった。


《どうだ、ミカ》


「ビンゴだ」


 ヘッドセット越しに聴こえてくるパヴェルの低い声。


「ノンナ暗殺計画だとさ」


《おー怖い怖い》


 これはルカ案件だな……新婚ホヤホヤの夫婦にこんな物騒な情報を知らせるのは気が引けるが、しかし何の備えもないといよりはマシだ。


《しかし最近スパイ増えたよな》


「構わんさ。見つけ次第潰す」


《こっちも怖い怖い》


 諜報員の育成にかかる手間を考えれば、こうして潰していくだけでも向こうにとっては大損害だろう。


 ”掃除”は定期的にやっておかないと。




ガナエヴォ事件(1914年7月12日)


 バルカン連邦構成国の一国、ガルヴィアで発生したグラントリア皇太子フェルディナント暗殺事件。当時のガルヴィアはバルカン連邦の加盟国であり、来たるべき帝国主義の時代に備えバルカン諸国と連携しての徹底抗戦の構えを取っていたが、将来的にバルカン半島へ手を伸ばしたいドルツ帝国は水面下で情報戦を仕掛けており、特にガルヴィアではバルカン連邦からの脱退を主張する左派勢力の動きが活発となっていた。

 バルカン連邦の中心的存在としてハンガリア王国と双璧を成していたグラントリア帝国はドルツによる政治干渉を危惧しており、改めてバルカン連邦の団結と来たるべき帝国主義の時代への抵抗を訴えるべく皇太子フェルディナントは妻ゾフィーと共にガルヴィア入りし演説を行う事となった。なお、この決定に対しハンガリアのセロ・ウォルフラム勇敢爵は危険であるとして最後の最後まで反対していたという。


 結果、皇太子フェルディナントは反対を押し切る形でガルヴィア入りし首都ガナエヴォでの演説に臨むが、演説終了後、車列での移動中に左派勢力の一員であったガヴリロ・プリンツィプにより至近距離で銃殺されてしまう。この際皇太子フェルディナントは、隣に乗っていた妻ゾフィーを身を挺して庇い、至近距離から6発もの銃弾を受けたとされている。


 この事件はバルカン連邦加盟国だけでなく世界中に激震と共に伝えられ、大きな混乱を招いた。特にグラントリアはガルヴィアに対しプリンツィプの身柄引き渡しを要求、バルカン連邦からの追放と最後通牒まで突きつける事となったが、直前にこれら一連の原因がドルツの情報工作によるものであった事が判明。怒りの矛先はドルツへと向けられ、同年8月11日、報復としてドルツ帝国領フューゼンを砲撃(フューゼン事件)。これがきっかけとなり両国は戦争状態へと突入、グラントリアと領土問題を抱えていたフェルデーニャ王国を始めとする諸外国も続々と参戦を表明してしまい、後の歴史において最も忌むべき戦争と言われる【第一次世界大戦】が勃発してしまう。


 たった6発の弾丸が世界規模の大戦争へと繋がってしまったのである。

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陸に空にと物の見事にイライナの逆鱗に触れることをしてますねえ、ノヴォシアは。一回目の暗殺計画はこんな早くに始まったんですか。王配が決まったタイミングを狙っていたんですかね…なおパヴェルとシャーロットの…
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