襲撃者襲来
『平和の尊さを最も理解しているのは、国民の皆様でも政治家でも、貴族でもありません。今この瞬間、世界のどこかの戦場で戦っている兵士たちであります。常に死の間際に立たされているからこそ、平和の尊さを誰よりも知っているのであります。ですから私は、そんな地獄を見て帰国する兵士たちに罵声を浴びせる活動家や市民団体を平和主義者とは思いませんし、信用も致しません。それは今後も変わらないでしょう』
『戦争を始める諸悪の根源はいつでも政治家であり、あるいは貴族であります。ですから軍服を身に纏う兵士たちには何の罪もない。彼らはただ、国に命じられて戦場へ向かうだけなのです。ですから責めるのであれば彼らではなく、外交努力で戦争を回避できなかった貴族を、このミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフを責めてください。責任は兵士たちにではなく我々にあるのです』
ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ、公国議会での答弁にて発言
ブロロ、とZIS-110のエンジンが高らかに唸り、黒塗りのソ連製セダンが舗装された道路を滑らかに走っていく。
こんなにも不安になる娘の送迎が、未だかつてあっただろうか―――後部座席でモニカに寄り添いながらニコニコしているアズをバックミラー越しに見守りながら、頬杖を突きつつ車外に目を光らせる。
独立戦争が終わって3年、イライナは順調に繁栄の道を突き進みつつある。そもそも戦争による爪痕が、少なくとも目に見える形では全く残らなかったので、リュハンシクの街並みを見ていると本当に戦争があったのかどうかすら疑わしくなってくるのだから不思議なものである。
子供たちが生きる未来に、戦争は残さない。
そのつもりだったし、そのために努力は惜しまなかったのだが、別の脅威が迫りつつあるとは何ともクソなものである。それも、10年前の亡霊が原因である可能性がある、というのだ。
あの時殺しておけばよかったかな、と物騒な事を一瞬だけ考えてしまった。そうすれば後顧の憂いも一切合切残らなかっただろう。きっとパヴェルに相談したら「まあそうだろうな」とさらりと答えるに違いない……アイツ、復讐の連鎖を断つ方法として『相手方を一族郎党皆殺しにしてしまえばいい』なんて過激極まりない方法をさらっと提示してくるのだ。
でもまあ、倫理的には間違っていても選択肢としては間違いではないのだろう。そういうところを徹底すれば後顧の憂いは断つ事が出来るのだから(とはいえその時両手は血に塗れているだろうが)。
昔の俺にはその覚悟が無かった―――では今はどうだろうか。
やれと言われたらやれるか―――甘さが娘を危険に晒す事にならないか。
自分自身の覚悟にすら疑いの目を向けつつも周辺を警戒しているうちに、運転手がハンドルを切った。車はリュハンシク城を離れ、州都リュハンシクの郊外へと差し掛かり、やがて人気のない旧市街地が見える位置までやってくる。
リュハンシク南方には旧市街地がある。昔はあっちが州都リュハンシクだったそうなのだが、イライナがノヴォシアに併合された際に徹底的に焼き払われたうえ、新たに今の場所に新市街地が開発されてからは住民たちがそっちに移り住んでしまい、やがてゴーストタウンと化したのだとか。
今のところは予算不足もあるし、他の政策も実施しなければならないのでまだ手付かずだが、将来的にはあそこの再開発も考えている。とはいえまだ計画すら定まっていないので、あそこを再開発したとして何が出来上がるのか、その未来像すら見えていないのが実情であるが。
ちらり、とバックミラー越しに車の後方を見た。
車間距離に余裕をもって、もう1台のZIS-110がついてくる。運転席でハンドルを握っているのはスーツ姿の運転手で、助手席にはサングラスを着用したスーツ姿の男も見えた。
戦闘人形たちだ。
ストーカー被害を受け、急遽増員したアズの護衛の兵士たちである。念のため相手がアズとモニカのストーキング行為を断念するまでは警備を増員して対処する事となった。なるべくアズのイメージダウンに繋がらないよう、警備兵たちは皆軽装だ。
加えて頭上には光学迷彩システム『ラウラフィールド』を搭載した監視用ドローンが3機体制で巡回。映像とデータは戦闘人形たちの個体間ネットワークとリンクしているので、異常が確認されればすぐに増援を派遣する事も出来る。
ともあれ、ベストは何も起こらない事だ。
「ねえねえ、今日はパパも来てくれるの?」
「ん? うん、そうだよ。パパもアズがレッスンを頑張ってるところ見たいなぁってママにお願いしたんだ」
愛娘の声で、不安が一気に溶け出した。
しかしそれも一時的な事だ……すぐにまた、この天使のような子供たちを我が身に代えても守らなければ、という決意が凝り固まっていく。
旧市街地が遠退いていく……というタイミングで、ポケットの中のスマホが振動を発した。
振動のリズムから通話でもメールでもなく、悪い知らせの通知である事はすぐに察しがついた。ポケットからスマホを引っ張り出して画面をタップ、通知欄から一番見たくなかった通知をチェックし、アプリを立ち上げる。
スマホの画面にはドローンからの空撮映像が映し出された。それによると、リュハンシク市街地から伸びる国道の後方から、こっちに追い縋ってくる不審車両が確認されたというのである。
画面をダブルタップしズームすると、その姿が微かなノイズとラグと共に確認できた―――1台のクーペが、明らかな法定速度オーバーでこっちに向かって猛追してくるのだ。
後方の警備車両が臨戦態勢に入ったらしい。フロントガラス越しに、中にいる兵士たちがAKを装備し戦闘準備に入ったのが分かった。
バックミラー越しにモニカにアイコンタクト。彼女も状況を把握したようで、小さく頷くなり「アズ、ちょっと耳塞いでよっか」と優しい声で言った。
ダッシュボードを開け、中に収まっていた56-2式自動歩槍(※中国製AKクローン、折り畳み銃床型)をマガジンと一緒に引っ張り出す。マガジンを装着しコッキングレバーを引いて薬室へ初弾を装填。そのまま慣れた手つきでダッシュボードからサプレッサーを取り出し、銃口へ装着されていたアダプターへと取り付けていく。
ねじ山をしっかりと噛み合わせてくるくる回し、サプレッサーの固定を確認。銃声を抑えて仲間との意思疎通を円滑にする目的だが、個人的にはそれよりもアズへの配慮だ。愛娘を銃声でびっくりさせ、心理的に大きな悪影響を及ぼす事だけは避けたい……まあ、俺の射撃訓練をよく見学に来てるし、自分にも撃たせろとせがんでくる元気の塊みたいな娘だからそんな心配は無いような気もするが、しかしガチの銃撃戦ともなれば話は別だ。
後方の警備車両が、猛追してくるクーペの前に立ちはだかるように車線変更。しかしクーペはそれでもお構いなしに速度を上げ、追突も覚悟の上と言わんばかりの勢いで突っ込んでくる。
その直後だった。後方で銃声が弾け、嫌な予感が現実へと姿を変えたのは。
ガガガン、と銃声が響き、後方の警備車両の車体を鉛の弾丸が殴りつけていく。それに応戦するように後方のZIS-110も窓を開け、AK-19を突き出した兵士たちがサプレッサー付きのそれで5.56mm弾をクーペへと撃ち返す。
だがしかし、相手のクーペの運転手は驚きのドライビングテクニックを見せた。目の前を塞ぐように陣取るZIS-110にフェイントをかけたかと思うと、そのまま瞬時に反対側へとハンドルを切り、相手のディフェンスを掻い潜るアメフト選手さながらにZIS-110を追い抜いてこっちに迫ってきたのである。
追い抜かれたZIS-110も速度を上げて猛追するが、しかしこちらの車両への流れ弾を懸念してか、銃撃はない。
人質に取られた格好だ。
「おい」
「了解」
戦闘人形の運転手に短く命じる。運転手は事前に取り決めた作戦行動に従い、ハンドルを左へと大きく切った。ソ連製のセダンが進路を変え、国道の木製ガードレールをぶち破って、ぼこぼこした地面の上を突っ走りながら旧市街地へと向かう。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
「アズ、舌を噛むなよ!」
そう叫びながら助手席の窓を開け、後方のクーペへとお構いなしに56式をぶちかました。
クソッタレ、ストーカーから随分とランクアップしたじゃあないか。まさかリボルバー拳銃に切り詰めたレバーアクションライフルを引っ提げて襲撃してくるとは!
シュカカカカッ、と7.62×39mm弾をフルオートでばら撒く。俺たちが進路を変更した事で後方の警備車両も流れ弾の心配をする必要がなくなり、相手のクーペは前方のやや右に角度をつけた位置を走るZIS-110と、後方からやや右にずれた位置を走る警備車両の両方から弾丸を叩き込まれる事となった。
7.62×39mm弾と、5.56mmNATO弾による前後からのサンドイッチ。まともな防弾装備も無かったようで、銃撃を受けたクーペの車体は瞬く間に紙粘土よろしく穴だらけになっていった。
車が旧市街地の荒れに荒れた石畳を踏み締めた辺りで、追ってくる襲撃者のクーペがグリルからついに黒煙を吐き始めた。それでも助手席から身を乗り出して果敢にリボルバー拳銃を放ってくる襲撃者だが、偶然か、それとも死神に魅入られたか―――俺の放った7.62×39mm弾がその左側頭部を直撃した。
ぱっ、とインクが飛び散るように紅い飛沫とピンクの破片が舞い、力の抜けた人間の身体が助手席の窓からずり落ちて、ぼこぼこした石畳の上を転がった。
よし、このままなら逃げ切れる―――そう安堵したのも束の間だった。
唐突に生じる嫌な予感。
ハクビシンという、食物連鎖において下位に位置する動物の獣人だからなのだろう。他者からの殺気や死の予感に対しては人一倍に鋭敏である、という自負があった。
その危機察知の応力が告げる―――”もっとヤバいのが来る”と。
ぎょっとしながら前を振り向いた俺の視界に飛び込んできたのは、人影だった。
人のいない旧市街、ゴーストタウンと化した街並みが続く荒れ果てた石畳の上。かつては繁栄の中心地であったであろう大通りのど真ん中に佇むのは、1人の刺客。
燕尾服にシルクハット、そしてギラリと光を発する片眼鏡。おまけに左手には銀細工の施された杖まで持っており、そのいでたちは冒険者や殺し屋というよりは執事か紳士、ちょっとふざけた解釈をしてもマジシャンを思わせる、そんな奇妙な相手だった。
このまま撥ね飛ばそうと判断したのだろう、運転手が更にアクセルを踏み込んで、車のエンジンが高らかに咆哮する。
いや待て、このまま突っ込むのは拙い―――躱せ、と運転手に怒鳴るように促した頃には既に遅く、その執事のような格好の人影は手にしたステッキを捻ってロックを外した。
ステッキの中から現れたのは、白銀に輝く細身の剣身。
―――仕込み杖だ!
その執事がふわりと飛び上がるなり、一直線に突っ込んでくるセダンへと躍りかかる。
普通ならば左右へと避けようとするところを真正面から突っ込んでくる―――その常軌を逸した判断からも、相手が確実にこちらを無力化できるだけの技量を持った相手である事が窺い知れた。
咄嗟にハンドルを掴み、左へと切った。
直後だった―――フロントガラスが散弾みたく弾け飛んで、そこを通過してきた白銀の切っ先が、ハンドルを握っていた戦闘人形の運転手の右目を貫通。そのまま後頭部までぶち抜くや、後部座席に座っていたアズの頭上でぴたりと停止したのである。
制御ユニットのある頭部を損傷した運転手はそのまま機能を停止。ハンドルを片手で支えている俺に、その執事のような男は無表情でリボルバー拳銃を向けてくる。
しかし後部座席からグロック18Cを構えるモニカの視線と殺気を察知するや、仕込み杖を運転手の頭から引き抜いてルーフの上を転がり、そのまま後方へと抜けていった。
くそ、と悪態をつきながらも運転手をどかしてハンドルを握ろうとするが、逃げ場を求めて旧市街地へ踏み込んでしまった事が仇となる。
木製のフェンスをぶち破り、荒れ果てた石畳の上を爆走するセダンは、そのまま制御不能に陥って―――かつては酒場だったのであろう建物に突っ込み、凄まじい衝撃と破砕音を最後に、俺たちは意識を失った。
パパ、という呼び声が意識を呼び覚ます。
まるで二日酔いにも似た不快感―――意識がゆっくりと解凍されていく中、はて俺は何をしていたんだっけ、と自問自答する。酒を飲んでいたわけではない筈だ。俺はパヴェルや姉上と違ってアルコールを受け付けない体質だから……。
うめき声を漏らしながらも頭を振り、やたらとガソリン臭い車内で目を覚ます。
滅茶苦茶に破壊された酒場の廃墟と割れたフロントガラス、ハンドルに頭を押し付けたまま機能を停止している戦闘人形の運転手。
そして後ろから聴こえる、妻の声。
「アズ……アズ!?」
ハッとした。
何があったのか―――凍結されていた記憶が一気に蘇り、俺はぎょっとしながら後ろを振り向く。
まさかアズが、と最悪の事態を予測したが、しかし後部座席に取り残されていたモニカが俺に突き付けたのは、それとは別のベクトルの現実だった。
「アズ! どこに行ったの、アズ!!」
半ば錯乱状態になりながら、シートベルトを外して周囲を見渡すモニカ。
最愛の愛娘、アズラエル・ミカエロヴナ・リガロヴァの姿は―――どこにもない。
トランクの中を確認するモニカだが、しかし中には何もなかったのだろう。目を見開き、絶望するような顔で視線をこっちに向けたモニカと目が合う。
「ミカ、アズが!」
「まさか……攫われたのか?」
「さっきの奴よ……きっとアイツがアズを!」
「……そうかい」
シートベルトを外し、56-2式を片手にセダンを降りた。
グリルからボンネット、シャーシまでもがひしゃげて燃料漏れを起こし、いつ引火するかもしれぬ車から距離を取る。
相手がいったい何なのか、それは分からない。
しかしほぼ確定なのは―――相手が俺たちに明確な敵意を持っている事。
そしてよりにもよって娘を連れ去っていったであろう事だ。
アヘン戦争(※正史とは異なり回避)
ジョンファとイーランドの間で勃発するかに思われた戦争。国外への銀や金塊の流出を防ごうとしたイーランドが、バーラト王国で製造されたアヘンをジョンファへと輸出。しかしジョンファでは長善帝(※リーファの兄)の下、アヘンの流入を厳しく取り締まったために両国の関係は悪化し、イーランド国内では軍を差し向け開戦すべしとの意見が噴出し始める。
しかし、イーランドの造船業最大手【ペンドルトン・インダストリー】と兵器製造大手【アンダーソン・ファイアーアームズ】が人道的観点から連名で開戦への反対を表明。『もし開戦に踏み切った場合、わが社は今後帝国への一切の艦艇・兵器納入を行わない』とまで発言し、議会に激震が走った。ペンドルトンとアンダーソンの2社はいずれもトップシェアを占める大企業であり、両社がボイコットを敢行すればイーランド軍に対する甚大な悪影響が懸念されたためである。
それに加え、ジョンファは倭国と友好関係にある国家であり、対ノヴォシア戦を睨み倭国との関係強化を図りたいイーランドにとって、ジョンファとの開戦は倭国側の心象を悪くする恐れがあった。更にジョンファは人口増加による食糧問題にも対応を模索しており、当時のノヴォシアからの独立のため後ろ盾を欲していたイライナとは食料の輸入輸出、及び国防面で利害が一致していたため、迂闊な開戦はイライナとの関係悪化にも繋がる可能性が大きかった(当時のイーランドは北海での石油採掘利権を何よりも欲しており、そのカギを握っていたのがイライナであった)。
国内での反対派による活動、そして外交問題に発展する恐れから最終的に開戦は帝国議会において否決。史実とは異なりアヘン戦争は直前で回避された。
なお、この史実とは異なる展開にジョンファ国内の中国人転生者一同はスタンディングオベーションしたというが、それはまた別の話である。
アヘン戦争回避の要因
・国内の軍需産業最大手の開戦反対表明、及びロビイング活動による根回し
・倭国、及びイライナとの関係悪化の懸念
・そもそもアメリア合衆国との独立戦争は旧人類時代に終結しており、銀や金塊の国外流出は問題となっていたが史実ほど流出防止に躍起になる必要もなく、他の代替案を講じる余裕があった
・そもそもジョンファ軍が史実よりも強大過ぎ、加えて国土も広い事からいざ開戦となれば泥沼化は避けられないという軍事研究者からの進言が多数あった
・史実以上にジョンファ、コーリア、倭国の関係が親密であり、最悪の場合倭国とコーリアも参戦する可能性が高く、そうなればイーランドもノヴォシアと同じ轍を踏む可能性が高かった
・イライナのやべえハクビシンを敵に回す可能性があった




