人の心を取り戻せ
イリナの薬香
イライナハーブを始めとする複数種類の薬草を乾燥させて磨り潰した粉末と一緒に香木を燃やして焚いたお香。リラックス効果の他に鎮痛効果があるとされ、医療施設などでも患者の鎮痛目的で焚かれている事が多い。事実、イライナやノヴォシアを始めとする中央大陸の文化圏においてはこのお香の香りを『病院の匂い』と表現する事も多く、それだけポピュラーな存在とされている。
名前の由来となっているイリナは、旧人類時代に活躍した野戦治療師(※回復系の魔術を得意とする従軍魔術師)であったとされている。遥か昔、イーランドとノヴォシアがアルミヤ半島を巡って戦った”アルミヤ戦争”に従軍した彼女は、そこで医療品が足りず、膿んだ傷口を不潔な布切れで巻くだけが精一杯の負傷兵たちの姿を見て衝撃を受け、少しでも彼らに安らぎが訪れるようにとこのお香を焚き、負傷兵たちの苦しみを和らげたとされている。
しかし痛みを希釈するだけで傷口の手当てが出来るわけもなく、野戦病院では感染症が蔓延。体力の落ちた多くの負傷兵たちが、ベッドの上で母親や恋人の名を呼んだり、熱にうなされ幻覚を見ながら死んでいった。
乙女イリナの祈りは、神に届く事は無かったのである。
イリナの薬香、というものがある。
イライナハーブや複数種類の薬草を乾燥させたうえで磨り潰し、その粉末を香木にふりかけて火をつける事で、鎮痛効果とリラックス効果のあるお香になる、というのだ。
イライナでは……というか、ベラシアやノヴォシア、ポルスキーにハンガリアの一部地域など、共通だったり似通った文化圏においてはポピュラーなものである、と以前に薬学の書物で読んだ事がある。元々は従軍魔術師で野戦病院を任されていた乙女『イリナ』が、負傷や感染症で苦しむ傷病兵たちの苦しみを取り除こうと、野戦病院の中で焚いていたお香であったのだとか。
その普及ぶりから、今ではイライナ人やノヴォシア人の多くがこの香りを『病院の匂い』と表現するほどなのだという。とはいえそんな事を全く知らない、そもそもこの世界の人間じゃあないボクたちからすると心が安らぐ不思議な香りだと思える。花の香りとも違う、まるで雨上がりの森の中にいるような解放感と、胸の奥まで突き抜けていくような爽やかな香り。吸い込めば吸い込むほど心の中の苦痛が溶け、身体に噛み付く痛みが薄れていくような感覚すら覚えて、ああ、これがこのお香の効果なのかと実感してしまう。
とはいえ傷を癒すためではなく痛みや苦しみを紛らわすためのものだから、その苦痛を取り除く根本的な治療には至っていない。ただ、直接的な苦痛に蓋をするだけで、実際この香りに看取られて、多くの傷病兵が医療品の尽きた野戦病院で死んでいったのだという。
悲劇的な話として今でも語り継がれているそうだが、一番辛いのは乙女イリナの方だったろうな……と今から500年くらいは昔を生きていた1人の個人に思いを馳せ、天井でゆっくりと回るファンの軸に焦点を合わせた。
リュハンシク城の地下、ボクの研究室。
ベッドの上で横になるボクを見下ろして最終調整をしているのは夫のミカと、いつもの修道服姿のイルゼ。時折、お香を焚いている鉄鉢の中に香木を補充しては、緊急回復用のエリクサーを準備している。
「……それじゃあ、始めるよ」
返答は、できない。
既にボクの首から下は―――そこに在った筈の機械の身体は、切り離されている。
隣の小さなベッドに、首無し騎士さながらに寝転がっているロリボディがそれだ。
ああ、あんなに小さかったんだ―――まるで自分のアルバムをめくるように、何気なくそう思う。機械の身体は成長せず、中身だけが歪な成長を続けた結果が今のボク。ずっと凍り付いていた分の時間を一気に取り戻そうという挑戦は、けれども決して無事では済まないだろう。
このお香だってそうだ。ミカがボクを苛むであろう苦痛から少しでも遠ざけようと、昨日同志団長……じゃなくてセシールに依頼してイライナハーブを380本も調達して調合したものだという。
ボクのワガママに、ミカは付き合ってくれた。
幸せ者なんだねぇ、ボクは。
「ミカ」
「なんだい」
「……やっぱり、ちょっと怖い」
「……やめとくか?」
「いや」
笑みを浮かべ、ミカの方に視線を向けた。
首から上だけ―――とはいえ、この頭の全てが生身というわけではない。何パーセントかは機械化しているし、この声だって口の中にある補助声帯からAIで再現したボクの声を使って喋っているわけだ。
「……頬、触っててほしい」
「ん」
ミカの小さな手は、暖かかった。
暖かくて、柔らかくて、けれども力強い。
ずっとここにいるよ、と告げるような彼女の熱が、これ以上ないほど心地よかった。
「……もう、大丈夫」
「それじゃあ……始めるよ、シャーロット」
腹を括った。
これは自分で捨ててしまった全てを―――取り戻すための試練なのだ。
ミカの小さな手のひらから魔力が溢れる。
その瞬間だった。
唐突に蘇る、凍り付いた時間。
とうの昔に失ったものと認識していた生身の肉体。
再び蘇るあの感覚―――手足の感触、動く心臓の鼓動、身体中の血管を行き交う熱い血の脈動。
思う通りに動いてくれず、けれども何よりも自分の求める”人間らしさ”の具現。生身の肉体の感覚。
しかし唐突に感じたそれに、何よりもパニックを起こしているのは他ならないボク自身だった。
いや、正確に言うならばボクの頭蓋の奥にある脳味噌そのものだった。
とっくに切除されたはずの、首から下の生身の身体。その感覚が一気に蘇って頭の中に流れ込んでくるものだから、まるで幽霊のようなその感覚に脳の認知機能が大量のエラーを吐き出した。
神経という神経が、いたるところで火花を散らす。
有り得ない。だってその腕は、その脚は、その心臓は、その肺は、その胃は、その腸は、その骨は。
とっくの昔に自分自身が、非合理極まりない存在―――肉で出来た牢獄と断じて、自らの意思で捨てたものではないか。それが、合理性で動く機械みたいな女の分際で今度は生身の身体を欲するのか。
突然の心変わりに脳が対処しきれず絶叫する―――その叫びは身体のいたるところで、失われたはずの身体の痛みとして、幻肢痛として発現した。
身体中を苛む激痛。
指先がプレス機で押し潰されるような痛みを発し、足先がロードローラーに踏みつけられるような激痛に苛まれる。腹が抉られ、骨が砕け、腹が裂けるような、常軌を逸した激痛の百鬼夜行。
叫びたくても、叫ぶことができない。
ボクには知覚できなかったけれど、この時点でボクの首の接合面はベッドの上に用意された生身の肉体と接続されて、口の中にあった補助声帯も生体パーツに置き換えられて肉の一部と化し、けれども神経が再接続中であったが故に声帯が機能を果たしてくれなかったのだ。
暴れたくても、手足は動かない。
まるで自分の肉体ではないかのように。
ぞわり、と旧い恐怖が影を揺らす。
病室のベッドの上、満足に動いてくれない障害だらけの身体。あの時のボクにとっては、徹底的に消毒された真っ白なシーツとベッド、それから白い床に天上の、薬品の臭いが充満した病室だけが世界の全てだった。
あの時の、不自由極まりない感覚が覚悟を揺るがした。
やっぱり肉体なんて、生身の身体なんて非合理的じゃないか。
元より、この手術だって成功する保証はどこにもない。わざわざ危ない橋を渡るよりは、いっそのこと自分の意識を完全に電子化して、電脳の海の中で生きていった方がいいのではないか。その方が合理的だし、こうなる恐れもないではないか。
腕を取り戻した、というシェリルの話を聞いて衝動のままにミカに依頼した事を後悔するような思考が濁流のように溢れてくる。激痛に後押しされたそれは自身の弱さに対する憎悪にも似たどす黒い何かに変色を始めていたけれど、それもボクに向き合うミカの顔を見た瞬間に霧散した。
この苦痛が始まってどれだけ経ったか―――それすらもあやふやな、永遠にも思える苦痛の最中。この視界の中にちらりと映った最愛の夫は患部だけを真っ直ぐに見つめ、額にびっしりと汗を浮かべながら錬金術の発動を続けていた。
そうだ、ミカも辛いのだ。
首から上と、あらかじめ用意した生身の身体の再接合。その後、断面にある血栓を排除して、それに伴い接着面を迂回させるように配していた血管のバイパスルートを閉止。タイミングを間違えればボクの命に係わるし、僅か数ミリのズレも許されない繊細極まりない作業。
それを、あんなに汗だくになりながら続けているのだ。
何の見返りもない、むしろ大金をはたいてまで。
全てはボクの願いを叶えるため。
再び生身の足で大地を踏み締めたい、という願いを叶えるため。
《―――いい男じゃあないか》
幻聴だろうか。
耳元で、確かに聴こえたのだ―――今は亡きボグダン隊長の声が。
《幸せにな、シャーロット》
「―――」
ああ、隊長。
じわり、と視界が霞んだ。
本当に、ボクは幸せ者だ。
こんなにも、周りに優しい人がたくさんいる―――ボクなんかのために、ここまで全力を尽くしてくれる人が、こんなにも。
あの頃では考えられない事だった。他者の思考を読んでしまえるが故に、あまりにも冷え切って厭世的になってしまった心に、人の温もりが染みわたっていくような感じがした。
ありがとう、ミカ。
君と出会う事が出来て、ボクは本当に幸せ者だよ……。
色素の抜け落ちたような、真っ白な壁。
まるで”色”という概念を徹底して排除したような風景の中、全てがモノクロに染まった世界の中で、ベッドの上に佇む少女が1人。
外でサッカーをして遊ぶ同年代の子供たちの様子を、じっと羨ましそうに見つめている。
叶う事ならば、あの子たちと一緒に遊びたい。
この自由に動かない身体が恨めしい。
だから彼女は―――シャーロットという少女は、生身の肉体を捨てた。
でも―――それで手にしたのは、決して自由などではなかった。
徹底した合理化、非合理的要素の排除という、人間から徐々に遠ざかっていく日々の始まり。
ヒトとして不自由な生身の身体で生きていくか。
それとも心すら捨て去ってキカイとして生きるか。
「いったい、どっちが正しかったんだろうねェ」
ひとり、問うても誰も答えてはくれない。
きっとこの問いに、答えなんて無いのかもしれない。
生きて答えを探せ、というのが今のところのボクの答えだ。
右手の中に、小さくて……けれども確かな温もりがあった。
この感触はいったい何年ぶりだろうか―――これまでは、機械の身体であったが故に人肌に触れても温もりなんて感じる事は無かったから。
瞼を開けて、視線を右へと動かした。
目に入り込んできたのは、小さな人影。
ボクの右手をぎゅっと包み込むように握って、ベッドの傍らに持ってきた椅子の上で、じっと心配そうにこちらを覗き込むミカの姿。
目を開けたのに気付いたのだろう。ぴょこ、と頭から伸びるハクビシンのケモミミが跳ね上がるや、心配そうだった銀色の瞳が希望に満ちたものへと変わっていった。
「ぁ……ミカ?」
「良かった……良かった、よかった……」
段々と声を震わせるミカ。
泣き出してしまいそうなのを誤魔化すためなのだろう。そのままボクの胸に飛び込むなり、ハクビシンの長い尻尾をまるで飼い主の帰りを待ちわびていた犬のようにぶんぶんと振った。
そんな彼女が愛おしくて、そのまま抱き寄せて頭を撫でる。
ベッドの向こうに鏡があった。
そこに映っているのは、小柄なハクビシンの獣人を抱きしめる長身の女性。
あれがボクなのか、と少し驚いた。
ベッドから身体を起こしているだけなので身長がどれくらいなのかは分からないけれど、たぶんクラリスと同じくらいなのではないだろうか。研究の邪魔にならないようセミロングくらいの長さに切りそろえていた髪もすっかり伸びて、ウェーブのかかった長く蒼い髪がベッドの上へと伸びている。
そして何より―――。
手のひらを見た。
シリコン製の人工皮膚や金属製の人工骨格、そしてファイバー状の人工筋肉では精巧に造れても決して真似できない、生身の人間の身体。
かつての自分が血肉の牢獄と例え、忌み嫌った非合理性の塊。
ミカを抱きしめながら、自分の身体に触れた。
お腹に、胸に、肩に、頬に。
全てが、決して機械の身体などではない―――正真正銘の、本物の身体。
目が熱くなった。
視界がじわりと滲み、声が震え始める。
「……ミカ」
涙を拭い、ミカが顔を上げた。
「―――ありがとう」
キミのおかげで、大事なものを取り戻す事が出来た。
あの日、あの時―――本来の自分の身体と一緒に捨て去ってしまった、大切なものを。
それが何なのかと問われれば、今ならば答えられる。
それは”人の心”だ、と。
人間らしさの具現なのだ、と。
腕の中のミカを抱き寄せ、唇を奪った。
機械の身体ではなく、生身の身体でのファーストキス。
まさかいきなり唇を奪われると思っていなかったのだろう。ミカは少し驚いたように小さな手足をばたつかせて暴れたけれど、舌を絡ませ合うなりすぐに大人しくなった。
しばらく唇を重ねてから、そっと離す。
「―――まだ、再構成が終わってから3時間しか経ってないから……」
真っ赤に染まった顔を隠すように、視線を逸らしてミカが言う。
「しばらくは安静に。3日くらいしたらちょっとずつリハビリを始めよう」
「ああ。当然、キミも付き合ってくれたまえよ?」
「当たり前だろ、夫なんだから」
そんな答えが嬉しくて、もう一度ミカを抱き寄せた。
クラリスよりも大きなおっぱいに顔を押し付けられてバタつくミカ。けれども別に、ミカにだったら何をされてもいい。この人にだったら全てを捧げてもいい。
だからおっぱいで窒息してしまえ。えいえい。
ちょっとヤバくなってきたところでミカを解放、至近距離で見つめ合う。
「ミカ」
「な、何だよ」
「んふふ……ぎゅー♪」
「もがー!?」
本当に、この人と出会う事が出来て良かった。
ボクはきっと、世界一の幸せ者だ。
リガロフ家
イライナ公国の公爵家であり、同国の貴族の中でも最も有名な一族。イライナ救国の大英雄イリヤーをその始祖に頂き、近代においてもイライナ独立の立役者となった宰相アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァ、そしてその末妹にして『イリヤーの再来』、『雷獣』、『串刺し公』、『リュハンシクの守護者』などの異名を持つミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフなど、歴史に名を遺した偉人ばかりが名を連ねている。
始祖こそイリヤー・アンドレーエヴィッチ・リガロフであるとされているが、一族の血脈は旧人類時代から続いており、旧人類としての起源は970年まで遡る(イリヤーが始祖というのは獣人としての一族の始祖という意味である)。
一族の始祖となった旧人類ボグダンは戦争での武功により当時のキリウ大公から子爵の地位と”リガロー城”を与えられ、のちにこの城に由来する『リガロフ』を名乗るようになる。しかし1228年、大モーゴル帝国によるイライナ侵略によりキリウは陥落。当時の当主であったアンドリーは妻子を逃がしキリウ防衛戦で戦死、遺された妻子は当時のモスコヴァ公国へと亡命し、モーゴル帝国の支配から解き放たれるその時まで一族を率い徹底抗戦を貫いた。
このように歴史の永い一族であるが、後世においては概ねイライナ独立において重要な役目を果たした存在として好意的に評価されている一方、ノヴォシアでは『共産主義国家最大の敵』としてミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフを名指しで敵視するなど、陣営によってその評価が大きく変わる事でも有名である。
独立以外にも義務教育制度の導入や民主化のための100年計画、インフラ整備に民衆への献身的な奉仕、国土回復政策、及び国土の積極的電化など先見の明がある政策をことごとく成功させている事から『まるで未来を見てきたかのようだ』とも評される。
リガロフ家という一族自体は2025年現在でも健在であり、著名人では俳優の『アントン・スピリドノヴィッチ・リガロフ』やリュハンシク州知事の『ミハイル・イワノヴィッチ・リガロフ』、国会議員の『アンナ・ミハイロヴナ・リガロヴァ』などが有名である。




