娘の幸せ
軍団蜂
人間の成人男性くらいの大きさを持つ巨大オオスズメバチ。魔物の一種。春から夏にかけて獲物となる動物が豊富な地域に巣を作り、そこを拠点として狩りを行う。そのためこの巨大オオスズメバチを発見した場合、近隣に巣がある可能性が極めて高く注意が必要となっている。
基本的に狩りをするのは毒針(※ロングソードほどのサイズ)を持つ雌の仕事であり、冒険者として交戦する事が多いのも雌の個体である。飛行距離も長く凶暴で、毒針で獲物の自由を奪うと巣に連れ帰って非常食にしてしまうため、毒針には注意したい。
雄の個体は巣の中で遭遇するタイプであり、雌が連れ帰った獲物の肉を噛み砕いて肉団子に加工したり、巣の拡張や幼虫の世話などを担当する。雌と比較し戦闘向けの個体ではないが、針の代わりに尾から溶解液を噴射してくるため侮れない。尾を向け顎をギチギチと鳴らし始めたらすぐ左右に回避する事。
堅牢な外殻を持っているが9×19mmパラベラム弾程度であれば貫通が見込める程度の強度であり、また炎や電撃にも弱い。しかし生半可な攻撃では逆に怒らせてしまう事もあるため、やるからには一撃で仕留めるつもりで攻撃する事が望ましい。
上記の危険度から、小規模な群れの殲滅であればBランクから、巣殲滅であればAランクから受注可能となっている。
「「かんぱーい!」」
ガッ、とビールがなみなみと注がれたジョッキを打ち付け合い、真っ白な泡で覆われたそれを一気に呷った。喉を通り過ぎていく刺激と風味。激しい運動で疲れ切った身体にアルコールが染みわたっていき、細胞の一つ一つが歓喜に打ち震える。
ドン、と空になったジョッキをテーブルに打ち付けるように下ろし、私はフォークとナイフに手を伸ばした。
「いやぁ、あっという間だったなぁ」
「はっはっは、でも久しぶりの大仕事だった」
範三もビールを一気に呷るなり、鴨肉の燻製へとフォークを伸ばし始める。
リュハンシクは特に治安がいい地域で、だから管理局に併設された酒場も閑散としている。魔物の襲撃に晒されている地域などはもっと冒険者でごった返していて、時折発生する同業者同士での喧嘩が一種の風物詩なのだそうだ。
パヴェルは私をそんな環境に放り込みたくない、争いとは無縁な場所で平穏に生きてほしいと言っていたが、私にはやっぱりこういう環境の方が性に合うのかもしれない。まるで実家に帰ってきたような安堵すら覚える。
軍団蜂の巣殲滅の仕事に飛び入り参加する形となってしまったが、範三が管理局側に打診したところ許可が下り、報酬は2人で山分けということになった。女王や卵、幼虫まで含めて徹底的な殲滅を行った事も加味し、のちに領主であるミカのところにこの件は報告するらしい―――担当の受付嬢曰く、『今の領主様は慈悲深いお方なので追加で報奨金が支払われる可能性が高い』と言っていたが、まあミカだからやってくれるだろう。
やってやった、という達成感を感じる一方で、しかしもう少し暴れたかったという物足りなさも感じる。
もっと自分の全力を発揮して戦える相手はいないものか……。
やや不完全燃焼気味になりながらも、フォークとナイフで皿の上のチキンキリウを切り分けた。しっかりと火の通った鶏肉の中から、刻んだイライナハーブとガーリックの効いたバターソースが溢れ出てくる。
鶏肉をそれに浸して口へと運んだ。塩分をたっぷり含んだバターソースは少し濃い目の味付けとなっていて、何もしないで普段からパクついていたら高血圧だの肝臓病だのといった症状を誘発しそうな味付けとなっているが、とにかくカロリー消費の激しい冒険者にはこれくらいがちょうどいい。
同様の理由で管理局の酒場で提供される料理は殆ど高カロリーに調整されている。
それにしても、誰かと一緒に仕事をするというのはなかなか良いものだ。
1人で戦う事が多かったが、範三のような強い男が一緒ならば安心して背中を任せられる。一時期、経験も大事だと思って野良の冒険者と組んで仕事をしてみたのだがまあ散々な結果に終わった。連携もクソもあったものではなく、実力も大きく開いていたのでほぼ私の独走状態。仕事が終わって合流するなりすぐパーティー解消の打診が来たものだから、それ以来私は1人で仕事をしていた。
でも範三ならその心配もない。
実力は近いし、それに私と考え方も似通っているから軋轢も生じない。
理想的なパートナーだと思う。
「セシール殿」
「ん」
チキンキリウの皿の上でバターソースに浸水しつつあったマッシュポテトを口へと運んでいると、ボルシチを口へと運んでいた範三が唐突に口を開いた。
「その……暴れ足りんだろう? どうだ、この後拙者に少し付き合わぬか」
「……ん???」
予想外の申し出だった。
リュハンシク市から少し離れたところにはとにかく土地が余っている。
ノヴォシアに最も近いこのリュハンシク州は、とにかく侵略戦争に晒されやすい。リュハンシク城以東に民家はないし、そういう立地の関係もあって州の法律で『リュハンシク城の周囲に民間施設を建ててはならない』というものも存在するほどだ。
マズコフ・ラ・ドヌーからリュハンシク城にかけての平原は、何人たりとも突破する事の出来なかった戦場であるとして今では『串刺し公の庭』とまで呼ばれている。
そんな戦火の足跡が根深く残り、今でも軍靴の音が聞こえてくるようなリュハンシクに住みたがる人間というのは、意外とそう多くは無い。
それはそうだ、隣国の都合に振り回され、有事の際には鶴の一声で強制的に疎開させられてしまう―――戦争が終わって戻ってくる頃に家が無事である保証はどこにもない。そんな生活が当たり前ともなれば最初から他の州に、出来る事なら安全な内地に住もうとする人間はとにかく多い。
だから特に、リュハンシク市の郊外は土地が余って仕方がないと以前にミカがぼやいていた事がある。
パヴェルがあの場所に家を建て、店を構えたのも、そういう事情で土地の価格が随分と下落していた事を受けてのものだろう。
範三がそこにこの地における家を建てたのも、きっとそういう理由に違いない。
しかし何というか、彼の家はいつ見てもなかなか慣れないものがある。
彼の故郷、倭国の伝統的な武家屋敷を模したものであるという。本人はもっと質素な家が良い、と最初は言っていたのだが、ミカが『せっかく土地が余ってるんだから贅沢に使ってほしい』と背中を押した事からこうなったのだそうだ。
ちなみに建築を担当したのはパヴェルである。何だあのヒグマ本当に何でもできるなオイ。
門を潜るなり、敷地内にある道場へと案内された。暴れ足りないという事なのだからまあそうなるよな、と思いながら彼の後に続くなり、一礼してから道場に足を踏み入れた範三は鍛錬用の木刀を1本取り出して、それを私に渡してくる。
「―――手合わせ、願いたい」
「―――いいだろう」
食後の運動だ。
武器を全て外し、ポーチも取り外して同乗の壁際にまとめて置き、受け取った木刀を手にして道場の真ん中で範三と向き合う。
いつも彼はここで鍛錬を続けているのだろう。しっかりと手入れが行き届いた道場だが、しかし床には踏み込みの際におおきくへこんだと思われる個所がいくつか見受けられる(どんな踏み込みをしたらそうなるのか)。
互いに一礼してから、そっと木刀を構えた。
同時に前に出るなり―――腹の底から声を出し、互いに木刀を打ち合う。
振り上げ、相手の攻撃を受け止め、素早く反撃を繰り出す。
愚直に攻め込むかと思いきや変化球で相手の意表を突き、裏をかく―――僅か一瞬で全てが決まる駆け引きを幾度となく、それこそ私は時間を忘れて繰り返した。
いったい何度、範三と木刀を交えた事か。
そろそろ木刀が折れるのではないか、と心配になったところで、範三が不意に構えを解く。
「どうだ、いい汗をかいただろう?」
「ん? ああ、そうだな」
息が上がっていた事に、今気付いた。
左手で額の汗を拭い去り、呼吸を整える。
仕事が終わってからずっと、胸の奥底にあったもやもやとした感覚は綺麗さっぱりなくなっていた。
「む、こんな時間か」
何気なく外を見ると、もうすっかり暗くなっていた。日は沈み、空の向こうには銀色の鏡みたいな満月が浮かんでいる。真っ暗な空には星が広がっていて、見ているだけであの星空へと落ちて行ってしまいそうな、そんな錯覚すら覚えた。
パヴェル心配してないかな、と思い、道場の隅に置いておいた私物の中からスマホを取り出す。タップしてスリープモードを解除してみると、通知の中にはパヴェルから2通ほどメールが来ていた。
【今日夕飯どうするの?】
【無視しないで、クマさん泣いちゃう(;(ェ);)ぴえ】
あー……。
とりあえず返信しておく……『帰りながら適当に済ませるから』と。
「セシール殿、こんな時間だしどうだ。一緒に夕食でも」
「ん、いいのか?」
「うむ。これから支度をしてくる故、外で水でも浴びてさっぱりしてくると良い」
「なんだか申し訳ないな、何から何まで」
「なあに、同じ高みを目指す剣士として当然のことよ」
そう言い、範三は木刀を片付けてから道場の神棚に一礼してから外へ出ていった。私も同じように木刀を片付け、神棚に一礼してから外に向かう。
外にある井戸から水を汲み上げて、頭に思い切りかぶった。キンキンに冷えた地下水に最初はびくりとしたが、身体にいつまでもじっとりとまとわりつく熱気と汗を根こそぎ洗い流してくれて、何とも言えぬ心地よさに酔いしれる。
もう一度水をかぶってからタオルで水を拭き取り、そのまま少し夜風に吹かれた。
そう言えば、私も今年で24歳だ。
クラリス曰く、ホムンクルスの寿命は短いのだという。40歳までは20代の容姿と身体能力を維持するが、40歳をひとたび超えれば身体が急激に老化を始めてしまう―――50歳まで生きれば長生きなのだそうだ。
人間50年。
来年でこの命も折り返しだ。
これまではただ、戦うためだけに生きてきた―――女としての人生など、まともに考えた事も無かった。
この命が燃え尽きる前に、せめて父親代わりになってくれたパヴェルに親孝行をしたいとは思う。心配ばかりかけた親不孝な娘だが……誰かと結婚して、子を生んで、孫を彼に抱いてもらえれば少しは親孝行になるだろうか?
誰か、というところで、不意に頭の中に思い浮かんだのは範三の顔だった。
「……」
頭をぶんぶんと横に振り、気を紛らわせるために井戸水を汲み上げる。
水面に浮かぶ私の顔は、真っ赤だった。
「~!」
ばしゃー、と頭から思い切り水をかぶる。
どれだけ気を紛らわせようとしても、しかし脳裏から彼の顔が消える事は無かった。
「いやー、しかしそんなに水浴びが心地よかったのか?」
「……うむ、そんなところだ」
ちょっと小声でそう返しながら、魚の塩焼きを口へと運ぶ。
範三の家で食事を振舞ってもらうのはこれが初めてではない。仕事終わりとか、何気なく鍛錬したくなった時は彼の家を訪れて、道場で手合わせしてもらったり一緒に素振りをしたりと、さながら侍のような日々を送る事も多い。
あれだけストイックで厳しい鍛錬をするのだからどんなものを食べているのかと気にはなったが、範三の……というか市村家の食事は質素なものだった。
昼飯は時折蕎麦とかうどんが出てくるけれど、夕食は決まってご飯と味噌汁に漬物、そして焼き魚と決まっている。
本人曰く『これが最も慣れ親しんだ味』との事だ。
頭の奥底に眠る記憶が呼び覚まされそうになる。私ではない誰かの記憶。
「どうした、セシール殿?」
「え?」
「……いや、今日は食が進んでおらんようだが。口に合わなかったか?」
「ふぇっ? あ、ああ、いや、そんな事は無い。そんな事は無いぞ」
あっはっは、と誤魔化すように笑い、キュウリの浅漬けを付け合わせの唐辛子と一緒に口に放り込んでからご飯を一気にかき込んだ。
「おかわり!」
「おお。まだまだ米も味噌汁もたくさんある故、遠慮なく食べていくと良い」
そう言いながら私の茶碗に山のようにご飯を盛り付ける範三。ドカ盛りご飯を受け取り、焼き魚と一緒に食べ進めていく。
ここがイライナで本当に良かった、と食事の度に思う。
イライナの食糧生産能力は世界一だ。『世界のパンかご』などと呼ばれるほどで、麦も米も野菜も、とにかくたくさん採れる。
とはいえ倭国の調味料を用意するのには苦労しているだろう。最近では倭国とも貿易を始めたそうだが、異国の調味料などそう簡単に手に入るものではない筈だ。
「こんなにいっぱい食べていいのか?」
「む、どうしたのだ急に」
「いや、調味料とか調達するの大変じゃないかなって。こんな貴重なものをドカ食いしたら範三が……」
「ああ、それなら気にしなくても良い。味噌と醤油、それから納豆は自作している」
「自作!?」
「うむ」
まあ職人の作ったものと比べると味はな……と謙遜する範三だったが、この男もついに自給自足を始めたのか。
何なのだ、血盟旅団の男共はなぜにこんな家事のスキルが軒並み高いのだ?
むむむ……私も真面目に家事覚えた方がいいかもしれない。
そんな事を考えながら、ずずず、と味噌汁を啜った。
「ただいま~」
「おかえり~」
店の入り口から家に入ると、厨房の奥でパヴェルが明日の分の仕込みをしているところだった。切ったニンニクを寸胴鍋の中に放り込んだり、ヴォジャノーイの脚で作ったチャーシューを秘伝のタレに付け込む彼の背中は大きくて、頼りになる父親って感じがする。
「ケガ、なかったか?」
「ああ、範三のおかげで」
「……範三?」
ぴた、とチャーシューを切っていたパヴェルの手が止まる。
なんだ、私何か変な事でも言ったかと思って困惑すると、こっちを振り向いたパヴェルは何とも言えない複雑そうな表情を浮かべた。
なんだか寂しそうな、けれども清々しいような、今までに見せた事が無い彼の剥き出しの心―――それが表情として表れているような、そんな顔だった。
「……なあ、セシール」
「なんだ?」
「俺、お前が冒険者になりたいって言った時は全力で止めたが……今、幸せか?」
「え、あ……ああ、うん」
「……そうか……なら、いい」
お前の幸せが一番だ、と続けるなり、パヴェルは再びチャーシューを切り分け始めた。
いったい何だったのだろうか……彼の発言の意図が全く読めなかったけれど、けれども何か、彼の中で重い枷が外れたような感じがした。
その晩の事だった。
範三の家にパヴェルから「娘゛を゛よ゛ろ゛じ゛ぐ゛お゛ね゛が゛い゛じ゛ま゛ず゛」と電話があったのは。
ノヴォシアにおける魔術師の大粛清
ノヴォシアが共産主義国家に移行した後、国内で行われた魔術師の大粛清。レーニンとスターリンが主導し行われた”革命運動”の一つであり、2025年現在ではその犠牲者数は推定で120~130万人(※魔術師以外の民間人含む)とされている。
レーニンの標榜する共産主義とは全てにおける人民の平等であり、突出した才能を持つ個人は特に疎まれる傾向にあった。生まれつきの素質で全てが決定されてしまう魔術師という存在はまさにその最たるものであり、帝政ノヴォシアが長い年月をかけて育成していた魔術師たちの多くが存在しない罪状で処刑台へと送られる事となった。
以前より適性の無い個人が適正に恵まれた魔術師を敵視する風潮はあったが、そこに共産主義という正義が加わってしまい一気に爆発した形となる。これによりノヴォシアは多くの魔術師を喪失、辛うじて大粛清を逃れた魔術師やその関係者の多くが隣国イライナへと亡命し、結果としてノヴォシアは蓄積した研究と人員の多くをイライナへ引き渡す結果となってしまった。
その爪痕は根深く、2025年現在においてもノヴォシアは『魔術後進国』として他国の後塵を拝している。




