竜人の少女
どこからか、綺麗なピアノの旋律が聞こえてくる。
ああ、アレだ。あの自称”魔王”が聴いていたクラシック。ドビュッシーの『月の光』。
仄かにその旋律に混じるのは……ノイズだろうか? プツプツ、と何かが小さく弾けるようなノイズ。誰かがこの音楽をレコードで聴いている。そこまで思い至ると、間近ではっきりとした声が聞こえた。
『いい加減起きろ』
目を開けると、そこに例の女が居た。
黒い軍服のような制服を身に纏い、腰には軍刀を下げている。質素な、どこにでも売ってそうな椅子に腰を下ろし、アームレストに腕を乗せながら……床に倒れている俺を、退屈そうな目で見下ろしている。
自称”魔王”。確かに、言われてみれば魔王にも思えてくるかもしれない。漆黒の軍服に軍刀、腰の後ろから伸びた9つの尾に、頭の左側面に不規則に生えている捻れた角。悪魔を従え、神に一矢報いんとする魔王に相応しい風貌。
何だよ、その目は……。
俺じゃあ退屈だってか? 力を与えたというのに、貴様の力はあの程度か―――失望した、とでも言いたいってか?
起き上がろうとするが、身体が動かない。何かに押さえつけられているというよりは、身体に力が入らないのだ。動くことを身体が拒否しているような、そんな感じと言っていい。
『いつまで寝ているつもりだ、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ』
ああ、今起きるさ。
見てろ。
俺の……俺の力は、こんなもんじゃない。
いつか、もっと強くなってやる。
もっともっと、力をつけて……もっと大きな存在になってやるんだ。
水の音が聞こえる。
ここは……俺は一体何を……?
起き上がろうとして、紅い瞳と目が合った。
獣人たちの瞳とは違う、爬虫類を思わせる瞳の形状。しかしその色合いはルビーのようで、思わず見とれてしまう。
その瞳の持ち主は、やはりあの子だった。
蒼くて長い髪と、頭から生えたブレード状の角。ヒトの持ち得るものでは、もちろんない。すらりとした身体は微かに湿ったボロボロの布で覆われていて、その中からは蒼い鱗に覆われた長い尻尾が伸びている。
動物の尻尾ではない。まるでトカゲのような……いや、きっとドラゴンのものだろう。トカゲに彼女のような角はない筈だ。
しかし……竜の遺伝子を持つ人類なんて、聞いた事がない。
「……Дal lau glanace?」
「えっ?」
微かに動いた紅い唇。そこから紡がれた言葉は、今まで聞いた事の無い言語だった。
ノヴォシア語とも、イライナ公国の言語とも異なる。語感としてはロシア訛りの英語に近いようだけど、もちろん英語ではない。発音がなんとなく似ているというだけで、彼女が何を伝えたいのかさっぱり分からない。
言葉が通じていない、という事を悟ったようで、蒼い髪の竜人の少女は困惑し始める。意思疎通の手段が思いつかないようだが、それはこっちも同じだ。ただでさえこの世界の言語はノヴォシア語とイライナ語くらいしかマスターしていないというのに、そこに未知の言語をぶち込まれたら対消滅反応でも起こってしまいそうである。
「あー、ええと……」
「ミカ姉、やっと目を覚ました!」
さて、どうやって彼女と意思疎通を図るか。その手段を見出すべく始めたばかりの思考を聞き慣れた元気な声が断ち切った。
ちょっとばかりびっくりした俺の胸に、シマリスの獣人―――フョードルが飛び込んでくる。おい馬鹿やめろ、こちとら怪我人だぞコラ。
ずきりと痛む左腕。見下ろしてみると、誰かが包帯を巻いてくれたようで、応急処置は済ませてあった。包帯と一緒に巻かれているのはどうやら薬草らしい。
この程度の傷、回復用のエリクサーを使えば簡単に塞がるはずなのだが……もちろんここはスラム街、冒険者に必須の回復アイテムを買えるだけの金を持っている奴が居るわけがない。
とはいえ、手当てをしてもらえたのは素直にありがたい。せっかく助かったというのに出血死など、笑えないにも程がある。
「……そういえば、ゴブリンたちは!?」
「そのお姉ちゃんが全部やっつけてくれたんだ」
「え?」
あの……竜人の女の子が?
ここでやっと頭の中がクリアになり、血の臭いに気付いた。
俺の傷口から溢れる血の臭いでは、ない。
振り向いた俺は、息を呑んだ。
キョトンとした顔でこっちを見ながら目を丸くする竜人の彼女―――すらりとした、アスリートみたいにしなやかな白い両手が、よく見ると真っ赤に染まっていた。
ゴブリンの血だ。
何か武器を持っている……わけではないだろう。身に纏っているのはあのボロ布一枚、暗器を隠す場所などどこにもない。魔術を使ったというのであればまだ分かるが、魔術は威力が大き過ぎて相手が粉々に吹き飛ぶことが殆どだ。故に魔術師は返り血を知らず、血の色を知らず、また血の臭いを知らぬ―――そう言われている。
では、まさか素手で……?
「……言葉が通じてるか分からないけど、ありがとう。君は命の恩人だ」
「……」
ぺこり、と頭を下げた。礼を言われているという事は伝わったようで、彼女の表情がどこか安堵したようなものに変わる。
「もちろんフョードルもな」
「えへへ……そうかな」
「これ、巻いてくれたのお前だろ」
「え、何で分かったのさ」
「お前の家にあった包帯と同じだよコレ」
「ああ……よく見てるねぇミカ姉」
こう見えても記憶力と観察力には自信があるのよ。コレ何かに生かせないかな?
そんな事を考えながら、ふと空を見上げた。
やけに暗いなと思ったら、もう既に空には星が浮かび、夜景がぽつぽつとキリウの街並みを彩りつつある。さて、何か忘れてる……わけがない。とっくに夕食の時間は過ぎ、空は星空と化した。普段ならもう屋敷に戻り、レギーナが用意してくれる夕食にありついている時間だ。
あー……どうしよ、コレ。レギーナ絶対怒ってるよなぁ……。
まあ、嘘をついても仕方がない。とにかく正直に答え、素直に謝る。これしかない。失態を隠すために嘘を重ねてもろくなことがないからねマジで。コレ経験談。
まあ、俺は今から屋敷に帰るとして……彼女はどうしようか。
「?」
首をかしげる彼女に苦笑いを返し、息を吐く。
言葉も通じない彼女。120年間もあそこで眠りについていたという事は、おそらく行く当てはないのだろう。第一、この世界に竜と人の遺伝子を併せ持つ種族が居るなんて聞いた事がない。
あそこが遺伝子研究所だったことを考慮すると、何かの実験の被験者だったのかもしれない。人間たちが忽然と姿を消し、研究資料も地下深くに葬られてしまった以上、彼女の正体を知るにはもう一度あのダンジョンをくまなく探す必要がありそうだが……。
さてどうするか……そういえば、屋敷で最近メイドが何人か辞めたって話を聞いた。レギーナに相談してみるか。
言葉も分からず、おそらく行く当てもない彼女を放置するのはいくら何でも可哀想だ。上手くいけば、しばらくはウチの屋敷で雇う事も出来るかもしれない。その間に言葉を覚えてもらって、いずれは詳しい話を教えてもらおう。彼女の事についていろいろと考えるのはその後だ。
「あー、ええと……家、ホーム……分かる?」
「イエ? ほーむ?」
あー、通じてない……。
仕方が無いので、飯を食べるジェスチャーをする。これは分かってくれたようで、困惑したような表情が一気に晴れる。ぐう、とお腹の音も聞こえてきて、竜人の少女は恥ずかしそうにお腹をそっと押さえた。
「さあ、行こう」
レギーナに怒られに、な。
いつものように塀を乗り越え、雨樋を伝って屋根の上へ。彼女はどうかと思いながら後ろを見てみると、竜人の少女は当たり前のように塀を飛び越え、雨樋を伝って屋根までジャンプしてきた。
どうやら彼女、パルクールは得意らしい。というか、俺よりも明らかに身体能力が高い。まるでプロのアスリートのようだ……竜の遺伝子故か、彼女自身の素質なのか、あるいは努力の結晶か。
窓を開け、自室の中へ。竜人の彼女も招き入れると、パチン、と誰かが照明のスイッチを入れ―――薄暗い部屋が一気に明るくなった。
「あ―――」
「……ミカエル様、随分と帰りが遅いようで」
腕を組みながら仁王立ちしていたのは、やっぱりメイド服に身を包んだレギーナだった。ジャコウネコ科特有の丸くて優しそうな眼は、まるで獲物でも狙っているかのように鋭くなっている。
腕を組みながらこちらを睨むレギーナは、俺が連れてきた竜人の少女を見てびっくりしたようだが―――その事について問い詰めてくるよりも先に、左腕に巻かれている包帯を見て顔色を変えた。
「ミカエル様、その怪我は……!?」
「実は、ゴブリンに襲われて……」
「ゴブリン? キリウの街中に……!?」
「下水道に入って行くのをフョードルが見たって……それを確かめに行ったら、その」
悪い事をした我が子を咎める母の顔から、一転して泣きそうな顔になるレギーナ。彼女はその情けない顔を俺に見せまいとしているかのように、両手を広げてぎゅっと抱きしめてくれた。
もうどこにも行かないで……まるでそう告げるように、強く。
「レギーナ……」
「ミカエル様、なんでそのような無茶を……!」
「ごめん、なさい……友達の言ってたことが嘘じゃないって証明したくて……憲兵が信じてくれなかったって言ってて、その……」
「あなたの身に何かがあったらどうなさるおつもりです」
「……ごめんなさい」
「……もう、こんな無茶はしないでください。いいですね?」
今はただ、罪悪感でいっぱいだった。
自分の母を、ここまで心配させたことに対しての罪悪感。
「ところで、彼女は?」
そっと両手を離しながら問いかけてくるレギーナ。すっかり蚊帳の外にされていた竜人の少女について、やっと話題が変わる。
「ゴブリンに襲われてたところを助けてくれたんだ。でも言葉が分からないらしくて……」
さすがに”下水道のさらに地下に隠されていたダンジョンで120年くらい眠ってた”なんて言えない。正直に話すとは言ったが、洗いざらい全て話してしまうのもアレである。冒険者の資格も無いのにダンジョンに迷い込んでしまい、そこでエルダーゴブリンに襲われて死にかけた、なんて本当の事を言ってしまったら、レギーナが卒倒してしまいそうだ。
「行く当てもないみたいだし、ウチで雇えないかな……?」
「ええと……確かに最近、何人かメイドが辞めています。旦那様に相談すれば、なんとかなるかもしれませんね」
「ありがとう、レギーナ」
「ええ。その前に……」
にっこりと微笑みながら、竜人の少女の方をじっと見つめるレギーナ。何を見ているのかと思ったが、それはすぐに分かった。
多分俺と同い年か少し年上の、すらりとした竜人の少女。身に纏っているのはボロボロの布一枚だけ―――そう、衣服とすらいえない程ボロボロの、しかも薄い布を羽織っているだけなのだ。
その事にも気付かないというか、注意が向かない程俺も余裕が無かったって事か……こりゃあ不覚。
「彼女に何か、お召し物を」
「ごめん、お願い」
「かしこまりました、お任せを」
ウインクしてからレギーナは踵を返し、部屋を後にした。
照明のついた自室に残されたのは、俺と竜人の少女の2人だけ。何か話でもしようと思ったが、彼女には言葉が通じない。さすがにこの先、意思の疎通がジェスチャーだけというのは少々やり辛いものがある。
せめて自己紹介でもと思い、俺は自分を指差しながら名を名乗った。
「あー……ミカエル、ミ・カ・エ・ル」
「……ミケェル?」
なんかイントネーションが違う。
「ミカエル」
「ミケール」
「ミカエル」
「ムィ、ム……ムィカエル?」
「惜しい、ミカエル」
「ミカ……エル……」
「そう、ミカエル」
それが俺の名前だと理解してくれたようで、竜人の少女は何度も小さな声でミカエル、と繰り返していた。
今度は彼女の名前を聞いてみよう。そう思い、彼女の方を指差しながら首を傾げてみた。これで「君の名前は?」という意志が伝わればいいのだが。
すると彼女は、自分の方を指差しながら名乗った。
「―――クラリス」
「クラリス……綺麗な名前だ」
竜人の少女改め、”クラリス”。
彼女が言葉を覚え、自分の気持ちを伝えられるようになったら―――その時は、出来るだけそれを叶えてあげようと思う。
もし自分の故郷がどこかにあるというのなら、そこに送り届けてあげよう。ここに留まりたいというのであれば、そうなるよう努力をしよう。
いずれにせよ、これからよろしく。
「よろしくな、クラリス」
「……ミカエル」
微笑みながら、彼女にそっと手を差し出した。
真っ白で、しかし微かに返り血の残った手で握り返してくるクラリス。
これが俺と竜人の少女『クラリス』との、奇妙な出会いだった。
「……Дal lau glanace?(大丈夫ですか?)」
クラリスの話す未知の言語より