自由と責任
―――なぜ、こうなったのか。
列車の窓、暗殺から陛下を守るために特別に用意された分厚い防弾ガラスの向こうには、黒煙が幾重にも立ち昇る帝都の風景が見える。
全ては死にゆく帝国を救うための手だった筈だ。
テンプル騎士団から技術援助を受け、帝国を見限り独立しようとするイライナを何とか繋ぎ止め、帝国の崩壊を防ぐための計画が、しかし水泡に帰そうとしている。
テンプル騎士団は崩壊し、そして遥か祖先から受け継いできたこの帝国も、革命の炎へと消えゆこうとしている。このままでは皇帝カリーナは、偉大な祖国を崩壊へ導いた愚かな皇帝として遥か未来まで語り継がれる事となろう。
歴史に汚点が刻まれるという、決して消えぬ屈辱の烙印。
しかしまだ、チャンスはある。
北方諸国へ脱出し、亡命政府の樹立を宣言すればいい。
事実、共産主義という思想に対し多くの国家が否定的だ。富める者たちを追放し、財産を没収して、全てを平等に分け与えんという思想は断じて受け入れがたい。そこで亡命政府を樹立し、北方諸国を味方に付けていつの日か再起を図ればいい。
国家とは皇帝や王族が動かし、貴族が富める者の義務の原則に基づいてそれを補佐する事によって、国の運営は今日まで続いてきたのである。その大原則をすべて破壊しても混乱を生むだけだし、人間は”平等”という枠組みの中で満足していられるほど大人しい存在ではない。
国家の運営を何も知らぬ革命家たちの妄言は、しかしもう止められない。彼らは賛同する同志たちだけではなく、民衆まで味方に付けてしまったのだ―――結局のところ、皇帝カリーナの統治は民衆にも見限られた、という事である。
この屈辱、二度と忘れてなるものか。
自らの汚点を、脈々と続いてきたロマノフ家の統治を終わらせる事になってしまったこの屈辱を目に焼き付けんと、皇帝カリーナは燃え盛るモスコヴァの街を見つめ続けた。
「陛下、そろそろ出発いたします」
「……分かった」
帝都ともしばしの別れだ。
いつの日か必ず舞い戻ろう―――そう堅く誓う皇帝カリーナの視線に、しかし異物が入り込んだのを彼女は見逃さない。
まるで子供のような、小柄な人影だった。
はて、護衛の兵士にあんな小柄な兵士はいなかった筈だが……脳裏を過った嫌な予感が、しかし急激に現実として実体を持ち始める。
やがてその小柄な人影は担いでいた大砲のような大筒を列車の方へと向けるなり、左手で敬礼を送ってきたのである。
「……ミカエルか!?」
間違いなく、そうだ。
あの小柄な体格に銀色の瞳―――見間違う筈も無い。
しかし、なぜ。
ミカエルは今頃、リュハンシクで防衛戦の指揮を執っている筈ではないのか。よもや戦場を抜け出して、この皇帝カリーナの首を討たんとしている筈もない。そうでないならばこの世界にミカエルが2人居る事になってしまう。
ぎょっとして目を見開いたのと、彼女が引き金を引いたのは同時だった。
先んじて突入した剣槍が防弾ガラスを叩き割り、ミカエルの担いだ大筒―――対戦車兵器『RPG-29』のサーモバリック弾に突破口を提供する。
ライフル弾すら止める分厚い防弾ガラスに阻まれる事無く突入してきたサーモバリック弾は、皇帝カリーナに苦痛どころか、自らの死を悟る間もなく一撃で絶命に至らしめた。
よりにもよって弾頭がカリーナの首を直撃、その華奢な首を侍の振るった刀の一撃さながらに刎ねたのである。
その程度で運動エネルギーを使い果たす事も、ましてや信管を動作させる事もなくサーモバリック弾は彼女の背後の壁を直撃。そこでやっと炸裂するなり、車両内の酸素を急激に消費し大爆発を起こした。
生じた爆炎と衝撃波が、車両内に詰めていた護衛の兵士を吹き飛ばし、焼き尽くしていく。ライフル弾や砲撃すらも防ぎ切る堅牢な装甲を持つ専用車両も、しかし内部で生じたサーモバリック弾までは防げない。むしろその堅牢さが彼女たちにとっての棺桶と化してしまったのは何の皮肉だろうか。
専用車両が爆発、炎上してもお構いなしに、帝室専用列車はモスコヴァ駅を走り去ろうと加速を始める。
しかし駅の外には既に、赤軍により鹵獲されたカマキリ型の戦闘人形たちが待ち構えており、列車を発見するなり3体の戦闘人形たちが列車に取り付き殺戮を始めた。
銃声と肉の断たれる音、装甲が破断する音に誰かの絶叫―――阿鼻叫喚の地獄と化しながらも、60㎞/hで走っていく専用列車。
その後ろ姿を見守り、ミカエルはそっと踵を返した。
《……気は済んだか》
「……ああ」
スマホで通話している最中にも弁え知らずの白軍兵士が襲ってきたので、錬金術で造った剣を磁力で投擲し手にした小銃だけをぶち抜いておいた。慌てて逃げていく兵士の後ろ姿を見送り、溜息をつく。
正直、まだ実感がない。
俺が皇帝を殺したなどと。
きっとこれは、今は何も感じなくとも、例えば夕飯の時とか入浴中とか、あるいはベッドで眠る直前になってふとした調子に思い出し、そこでやっとやらかした事の大きさを突きつけられてショックを受けるなり何なりするやつなんだろうなぁ……と他人事のように思う。
けれども、彼女を逃がすわけにはいかなかった。
自由とは、人類すべてに許された権利である。
色んな自由があるし、今日に至るまで人間たちはそれを謳歌してきた。俺にしたってそうだ。冒険者になる自由、仲間と旅をする自由、そして妻たちと結ばれる自由―――色んな自由を行使してきた。
皇帝カリーナもきっとそうだったのだろう。彼女は彼女で、皇帝としての自由を行使したのだろう。テンプル騎士団に靡く自由、イライナを侵略する自由、俺の友達を兵士として動員し死なせる自由を。
しかし自由は無償で行使できるものではない。
銃を撃てば手元に反動が生じるように、あるいは病気の薬に副作用があるように、自由には”責任”という概念が生じる。
自由を行使したら、責任を取らなければならない。
だから俺は妻たちと結婚する自由を行使して夫としての責任を取っているし、冒険者になる自由を行使したら仕事という責任を果たしている。
皇帝カリーナもそうした。自由の行使で生じた責任に殉じた。俺の友達を死なせる自由を、自らの死という責任で清算してもらったのだ。
「……ごめんなパヴェル、我儘言っちゃって」
《気にするな。俺も復讐やった事あるから、お前の気持ちは分かるつもりだ……ともあれどうする、引き返してフルトン回収するか?》
「いや、パヴェルはキートをイライナに届けてくれ。俺は自力で帰る」
《……マジか》
「ああ」
それじゃ、と言い残し、通話を切った。
ポケットにスマホを仕舞って、内ポケットからキャンディを取り出し口へと放り込む。マンゴー味のキャンディをカラコロと口の中で転がしながら前を見ると、駅を離れようとする俺を無数の銃口とカマキリたちの大型ブレードが睨んでいた。
「…Ты все еще собираешься драться со мной?(……まだ、やるのか?)」
イライナ訛りの標準ノヴォシア語で呼びかける。前列の左から5番目にいる若い兵士が息を呑んだ。
「Прекратите, этот бой — победа Красной Армии. Если вы продолжите сражаться, ваши жизни будут в опасности. Думаю, было бы разумно уехать отсюда и искать убежища за границей(もうやめろ、この戦いは赤軍の勝利だ。これ以上戦い続けたって諸君らの命は無い。ここを離れて海外に亡命した方が利口だと思うぞ)」
「Заткнись, предатель! Мы – армия народа, и во имя Императрицы Карины мы никогда не будем побеждены!(黙れ逆賊め! 我らは人民の軍、皇帝カリーナの名に懸けて決して敗北せんのだ!)」
撃て、と下士官が叫びながらシャシュカを振り下ろした。兵士たちが一斉に小銃の引き金を引き、改修を受けたと思われるカマキリ型の戦闘人形たちが頭部に搭載された水冷式機関銃を掃射し始める。
瞬く間に無数のマズルフラッシュが生じ、土砂降りのような8mm弾がミカエル君の150㎝というミニマムボディに殺到してくる。
さすがは職業軍人、狙いは正確だ。磁力防壁がなかったら今頃はこの身体もやたらと鉄の臭いがする赤い穴あきチーズにされていた事だろう。
逆境にあっても心折られる事無く、敵に対し躊躇なく攻撃を加える事に関しては彼らの事を賞賛したい。今ここで刈り取るにしてはあまりにも惜しすぎる。
AK-19の銃口を向けようとして……やめた。
「Что это за парень!? Мои атаки не достигают цели!?(なんだコイツは!? 攻撃が当たらない!?)」
磁力防壁でことごとく受け流される銃弾を見て、若い兵士が驚愕したように言った。
「Извините, что прерываю вашу отчаянную атаку, но я иду домой. Я молюсь, чтобы вы все выжили благополучно(必死こいて撃ってるところ悪いけれど、俺はもう帰るよ。諸君らが無事に生き延びる事を祈る)」
じゃあね、と手を振りながら踵を返したところで、兵士たちに同伴していた2機のカマキリ型戦闘人形が動いた。背を向けた獲物に喰らい付こうとするヒグマのように、両腕に装備された大型ブレードを振りかざして斬りかかってくる。
けれどもその斬撃の軌道は大きく逸れ、磨き抜かれた石畳の床を刺し穿つばかりだった。
至近距離からの機銃掃射も意味を成さず、脚での踏みつけ攻撃もドーム状に展開した磁力防壁の表面を滑るばかりでこのミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフに危害を与える事すら叶わない。
背後からの銃撃と斬撃を不可視の防壁で防ぎながら、一発も発砲することなく駅舎を後にした。
赤軍と白軍は拮抗状態にあるようだ。職業軍人で構成されている事と装備の質で言えば、白軍の方が有利なのかもしれないが……赤軍の犠牲を厭わない攻撃と、いずれ開示されるであろう女帝カリーナの死。この2つをきっかけに大きく瓦解するのではないか、と俺は見ている。
イライナで今なお続く消耗戦と極東での大損失。
いずれにせよ、ノヴォシアはもう駄目だ。
やがてこの大国は、共産主義の津波に呑み込まれるだろう。
「さて、と」
路肩に乗り捨てられたセダンに乗り込んで、運転席をギリギリまで前に引っ張り電撃を流してエンジンを始動。しっかりシートベルトも締め、前足がちゃんとアクセルやクラッチ、ブレーキに届く事を確認してからサイドブレーキを解除。半クラの状態からアクセルを踏み込んで加速、ギアを段階的に上げていく。
これからは、自力でイライナへ帰国しなければならない。
モスコヴァからマズコフ・ラ・ドヌーへ、そしてイライナ領リュハンシク州へ……なかなか苛酷な旅路になりそうだが、まあ仕方のない事だ。
俺たちが極東に行った目的は工作員『キート』の回収であり、パヴェルにはその最優先目標を達成してもらわなければならない。それに姉上だって、俺が帰り道で寄り道してサクッと皇帝カリーナを暗殺してきた事に関しては文句は言わないだろう(むしろノヴォシアの皇帝に引導を渡した事を評価してくれるかもしれない)。
先ほど、俺は自由には責任という対価が生じるものであると述べた。自由の行使には責任を果たす必要があるのだと。
これが、新たに生じた俺の”責任”だ。
”皇帝カリーナを殺す”という自由に生じた責任。
元はと言えば俺の個人的な我儘だ。友達を死に追いやった相手に落とし前をつけさせる、という個人的なワガママ。
そのツケは、自分で払わなければならない。
セダンを全速力で走らせ、銃撃してくる無礼極まりない赤軍兵士を2名ほど撥ね飛ばしながらカーラジオをつけた。外出禁止を促す放送ばかりだったが、しかし中には帝室からの命令を守らない悪い放送局もあったらしい。流行歌を流しているチャンネルがあったので、しばらくはノヴォシア語のラブソングを聴きながらドライブを決め込むことにした。
旅順要塞の謎の戦艦
旅順要塞攻防戦の折、軍港と沿岸砲群の間の区画で発見された謎の戦艦。ほぼ完全な状態で、崩壊した沿岸砲に乗り上げる形で座礁しているところを倭国軍が発見した。武装や全長、そして特徴的な白い塗装から、”白亜の戦艦”とも称された戦艦『インペラトリッツァ・カリーナ』ではないかとされているが、同艦は既に倭国海海戦で戦没している事から、同型艦の『インペラートル・アレクセイ』ではないかとされている。しかし記録ではインペラートル・アレクセイは北海艦隊のドックで整備を受けていたところを赤軍に接収されており、この説は否定されている(とはいえノヴォシア共産党の公式発表は信憑性に欠ける事に留意されたい)。
いったいこの謎の戦艦は何なのか。そしてなぜ沿岸砲に乗り上げる形で座礁していたのか。ノヴォシア海軍の記録にも存在しないこの艦はひたすら謎に包まれており、今なお研究者や陰謀論者の間で議論の的となっている。
一説によると、『旅順要塞を極秘に訪れていたミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ公爵が錬金術で生み出し敵への攻撃に使用しようとしたものである』とされているが、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ公爵はリュハンシク州でノヴォシア軍を迎え撃っているため、この説は陰謀論の域を出ない。もしそれが事実ならば、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ公爵がこの世界に2人存在することになるからである。
謎の戦艦は2025年現在もジョンファ領の旧旅順要塞跡地に現存しており、艦内見学も可能。見学料は子供20中華元、大人25中華元。




