赤鬼と雷獣と
ボルシチが食べたい。
じっくりと煮込まれた野菜に牛肉、そしてトッピングのサワークリームのアクセントが脳裏によみがえり、口の中によだれが湧き上がった。
このミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフというミニマムボディを構成する細胞の全てが、母の手料理を渇望している。兄上や姉上たちにとっては高級なステーキとかキャビアが慣れた味なのかもしれないが、軟禁状態だったミカエル君にいつも手料理を振舞ってくれた母さんの味こそが、俺にとっての”慣れた味”なのだ。ボルシチにチキンキリウ、それからドラニキ。料理は愛情とはよく言ったものである。
今度アレーサに寄ったらお願いしようかな、と思いつつ、曲がり角をカッティング・パイでクリアリング。じわじわと曲がり角の向こう側を確認していくが、ドタドタとこっちに走ってくる足音が聞こえたので、やっぱりやらなきゃダメかと腹を括りながらドットサイトのレティクル越しに見えた人影の頭に5.56mm弾を叩き込んだ。
BRN-180から放たれた一発の弾丸が、いとも容易くノヴォシア兵の命を刈り取った。眉間を撃ち抜かれたノヴォシア兵は、まるで足元に躓いたかのようによろめくとそのまま床に倒れ込み、眉間の風穴から赤ワインみたいな血を流しながら動かなくなる。
実際に人を銃で撃った経験のある身から言わせてもらうと、撃たれた相手というのはアクション映画の悪役みたいに分かりやすくぶっ倒れるものではない。なんというか、”いきなり転んだ”ような倒れ方をするのだ。
だから慣れないうちは、いまいち手にかけたという実感が湧いてこない(そんなもん湧いて来なくていいのだが)。
《ミカエル君、急いで逃げた方がいい。東部区画の塹壕が完全に破られた。今に倭国兵が雪崩れ込んでくるよ》
「……了解」
とにかく、早く逃げた方が良さそうだ。さもないと母さんのボルシチにありつく前に、俺がボルシチの材料にされてしまう。
『Эй, Гриши здесь нет!(おい、グリシャがいないぞ!)』
『Этот парень!.. Он же всё-таки был шпионом Элейны!(あの野郎……やっぱりイライナのスパイだったのか!)』
『Найди его и убей!(見つけ出して殺せ!)』
「いやぁ、本当に危ないところに来てくれました」
下の階から聴こえてくるノヴォシア語のやり取りを聞き流し、グリシャと名乗っていたキートは何とも言えない笑みを浮かべながら俺の後をついてくる。
「ちょうど疑われてましてね」
「そりゃあ良かった」
階段を駆け上がってくる音。
後ろからだ―――視線を向けた頃にはサプレッサー付きのヴェープル12モロトを構えたリーファが、フォアグリップを左手でしっかりと握りながら銃口を後ろの階段へと向け、駆け上がってきたノヴォシア兵の頭を吹き飛ばしていた。
散弾ではない……12ゲージのスラグ弾だ。
大口径であるが故に破壊力は大きいが、空気抵抗が大きいため近距離で真価を発揮するスラグ弾。そんなものの直撃を受けて無事でいられる筈もなく、ヘッドショットされたノヴォシア兵は上顎から上をふっ飛ばされ、肉のついた歯や眼球、無数の肉片をぶちまけながら床に転がる事となった。
『Михаил!(ミハイル!)』
いきなり先頭の仲間を殺されて驚く後続のノヴォシア兵。飛び出すべきか、様子を見るべきかと思考回路を働かせている頃だろうが、リーファは彼らにそんな猶予すら与えない。
カツーン、と石畳の上を転がる手榴弾の硬質な音。室内戦では一番聴きたくないそれは、敵にとっての死刑宣告と言っても過言ではあるまい。
ズン、と重々しい爆音が後方で炸裂し、俺たちの追撃を試みていた歩兵の一団を完膚なきまでに吹き飛ばす。
『Эй, что это был за звук?(おい、今の音は何だ?)』
『Может ли быть, что самураи уже вторглись так далеко...?!(まさかサムライ共がもうここまで……!?)』
さて、今の爆発でノヴォシア兵が集まってくる筈だ。
案の定、こっちに向かって走ってくる足音が複数確認できる。ちょっとここで待て、とキートにジェスチャーで伝えて停止させるや、リーファに後方の警戒を任せ片膝をついた。
通路の奥、曲がり角から飛び出してきた敵兵の眉間をBRN-180で撃ち抜く。5.56mm弾の贈り物を受け取ってしまった敵兵は一瞬にして天に召され、突然の仲間の死に驚くノヴォシア兵のこめかみにも5.56mm弾をプレゼント。1秒足らずで2名の敵兵が帰らぬ人となる。
『Там враг!(敵だ!)』
叫ぶなり、ボルトアクション小銃で撃ち返してくるノヴォシア兵。狙いも何もつけず、ただ撃ち返したと言ったところか。狙いは滅茶苦茶で脅威でもないが、相手を威嚇する意味はあるのだろう。
セレクターレバーを弾き、セミオートからフルオートに。
本来、BRN-180はセミオートである。が、俺のBRN-180はM4A1のロアレシーバーを組み込んだキメラモデルとなっているのでフルオート射撃の機能はそのまま生きているのだ。
シュパパパパ、とこの時代の基準の歩兵銃では考えられない弾幕に、明らかに応戦している敵兵たちが狼狽するのが分かった。閉鎖空間でのフルオート射撃ほど恐ろしいものは無いだろう。あわよくばこれで逃げ去ってくれればいいのだが……。
まあそう上手く行かないよね、と心の中で落胆しつつ左足で床をタップ。直後、曲がり角の向こう側の床が一斉に隆起するなり、隠れていた兵士たちを1人残さず串刺しにした。
シュアファイア製の60発入りマガジンを取り外し、通常のSTANAGマガジンと交換。使い果たした60発入りマガジンをダンプポーチに収め、さあ行くぞとキートを先導する。
その時だった―――頭の奥から背骨にかけて冷たい感触が走ったのは。
ハクビシンは食物連鎖において割と下位に位置する動物である。天敵は狼に虎、猛禽類にヘビと多岐に渡る。必然的に”食われる側”に立たされるわけだから、それに伴って危機察知能力もまた研ぎ澄まされるというわけだ。
そんな感覚が俺にも反映されているのだろう。言葉で伝えるのももどかしく、気がつけばキートの胸を思い切り突き飛ばしていた。
何を、と彼が抗議の声を上げる暇もない。ドガァンッ、と唐突に後方の壁が弾け飛んだかと思いきや、補強用の鉄筋が埋まったコンクリート片が周囲に飛び散り、濃密な火薬の臭いを纏いながら紺色の軍服を身に纏った兵士たちが通路へ雪崩れ込んできた。
中には着剣した小銃に旭日旗を巻きつけた兵士もいる。
―――倭国兵だ!
軍刀を手にした下士官らしき兵士と、目が合う。
「観念しろ、ノヴォシア兵め!」
やはりそうだ―――この世界の倭国語は、前世の世界の日本語とそう変わらない。おかげで範三と初めて遭遇した際にコミュニケーションに困らなかったのは記憶に新しい。
「待て、撃つな。俺はイライナ公国リュハンシク州領主のミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ公爵。姉上を通じて倭国幕府に正式に通達が―――」
「問答無用ッ!!」
何だコイツ宇宙人か???
会話のキャッチボールどころか会話のドッジボールが始まった件について。
いきなり斬りかかってきた下士官の軍刀を剣槍で受け止めつつ、胸元のホルスターからスタームルガーMkⅣを引き抜いて、下士官の首筋にサプレッサーを押し付けて撃った。
パス、と麻酔弾のダーツ型の針が首筋に突き刺さり、彼の血液中にパヴェルお手製の麻酔薬が注入される。濃度を増すと麻酔作用のあるイライナハーブに加え、ジギタリスも調合したパヴェル特性の麻酔薬―――それも即効性のあるレベルの濃度のものを注入されたのだから倭国兵もたまったものではあるまい。
まるで徹夜明けのブラック企業勤めの社畜の如く、ふらりと身体を揺らして倒れ込む下士官。床に落ちた軍刀が向こうへと転がっていった。
「伍長!」
「貴様、よくも!」
「……話を聞いてはくれないか」
「きえぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!!」
猿叫、という薩摩式剣術特有の叫び声を上げながら、軍刀を手にした兵士が真正面から突っ込んでくる。
接近戦に付き合うつもりなど毛頭ない。踏み込んだ分の間合いを確保する感覚でバックステップ、そのままスタームルガーMkⅣの引き金を引き、2人目の倭国兵を眠らせる。
「貴様ァ!」
銃剣付きの小銃から放たれるライフル弾。
近距離だからというのもあるだろうが、狙いは正確だった。そのまま真っ直ぐに飛んでいれば俺のこめかみをぶち抜いて、これまでにあらゆる知識を詰め込んだ脳味噌をコンクリートの壁にぶちまけるくらいの武功は打ち立てていたに違いない。
しかしそうならないからこそ、現実とはままならぬものとも言える。
「……ぇ」
放ったはずの弾丸。
それが俺のこめかみに命中するよりも手前でぴたりと停止し―――その場に浮遊していれば、そういうリアクションも返ってくるであろうというものだ。
スタームルガーで麻酔弾を撃ち込んでやろうと思ったが、リーファが駆け出した気配を察知してやめた。どうやらその予感は正しかったようで、1秒もしないうちに俺を撃とうとした倭国兵の左の頬に、助走をつけたリーファの右ストレートがめり込んでいた。
「ホァタァ!!」
「しじみっ」
グギャ、という何かが折れてるような音。歯と思われる白い破片を撒き散らしながら錐揉み回転していった倭国兵は天井に当たって床にバウンド、そのままゴロゴロと床を転がって壁に激突しようやく止まった。
「……生きてる?」
「加減はしたネ」
「嘘つけアレ殺せる威力だぞ」
「お母さん言ってたヨ。”戦と料理は火力が命”って」
「オイ加減はどこいった加減は」
生きてるよな、と一応脈を確認。大丈夫、生きてる。前歯3本くらい折れてるけど。
うわぁ、と後ろでドン引きするキート。悪いがこれが血盟旅団の平常運転なのだ。いつもこんなノリで毎日を送っていたので、もう何が起きても驚かないからねミカエル君は。
「……あっそうだ逃げないと」
「行くヨ」
「あっハイ」
倭国兵がぶち抜いた穴から外に出た。
外は地獄絵図だった。遥か向こうに見える塹壕線は確かに倭国軍に食い破られており、要塞へ肉薄する一団と左右へ別れて突破口を拡張せんとする一団に分かれ、ノヴォシア軍側の戦力を蹂躙している。
それに触発されたのか、両翼を固めるジョンファとコーリアの軍勢も前進を開始。疎らではあるが塹壕を突破して、要塞へと着実に接近しているようだ。
いずれにせよ、長居は出来ない。
「こっちだ、早く」
姿勢を低くしながらキートを先導。幸い、接近中の倭国兵たちは要塞の制圧に夢中で俺たちに気付いていない。
それに加えてこの雨とステルススーツだ。足音を完全に消してくれるこれのおかげで、倭国兵たちにも気配を察知されにくくなっている。
屈んだまま要塞の東部から南部へ。
この勾配を登りきれば、もう少しでフルトン回収装置が見えてくるはずだ。後は装置にセットしてある端末を訓練通りに操作してバルーンを膨らませれば俺たちの勝ちである。
全身の毛が怖気立つようだった。
半ば反射的にイリヤーの時計を使って時間停止を発動。リーファとキートの服の襟を掴んでぐいっと後ろに引っ張り、可能な限り後方へと下がらせる。
時間停止の効果時間が過ぎると同時に―――そのまま走っていれば俺たちの身体があったであろう地面を、側面から飛んできた斬撃が深々と抉り飛ばす。
いや、これは斬撃なんてものではない。
”衝撃波”だ。
微かに熱を孕んだそれの余波を浴びながら片手で頭を守りつつ、キートを庇うように前に立つ。
頭の中では何が起こったのか、今の攻撃の正体は何か―――浮かんでくる疑問に、しかし1つの明確な答えが突きつけられつつあった。
「―――逃げ支度とは、感心しないな」
泥を踏み締める足音。
雨の中、濛々と立ち昇る湯気―――融鉄のように赫く燃えた大太刀の刀身に触れた雨粒が、じゅう、と瞬時に蒸発していく。
此方を睨む紅い瞳に返り血まみれの顔と髪。よく見ると頭髪から露出している狼のケモミミは右側が半ばほどから千切れていて、右腕が収まっているべき袖は中身がなく、戦場から運ばれてくる風に弄ばれひらひらと踊っている。
筋骨隆々の肉体はまさしくヒグマの如しで、狼の獣人なのだろうが熊っぽさが勝るような、そんな印象だ。
「……奉天の赤鬼、か」
なんだ、この男は。
身体中の毛穴から汗が噴き出したようだった。
これまでヤバい奴は何人も見てきた。国1つを喰らった最強の団長に不死の暗殺者、そして首だけになってもなお暴れ回る伝説の邪竜―――どいつもこいつも化け物ぞろいで、勝てる気のしない連中ばかり。
それらの化け物をまとめて相手にしても平然としてそうな、この男は何者だ。
まるで戦国乱世の混沌全てが、あの180㎝くらいの身長の巨漢にギュギュっと詰め込まれているかのような……戦争の擬人化、とも言うべきだろうか。身体からは禍々しい赤いオーラが立ち昇り、交戦的な笑みを浮かべている口からは鋭利な牙が覗いている。
そして極めつけは、その顔だった。
「……パヴェル?」
リーファと同じ感想を抱いていた。
そう、その隻腕で隻眼の兵士……”奉天の赤鬼”の顔は、まさしくパヴェルその人だったのである。わざわざ義手を取り外し、倭国兵のコスプレをして俺たちをからかっているのではないか―――そんな気がしなくもない。あの男ならやりかねない。
が、そうではないのだろう。
となるとこの男の正体は―――この世界のパヴェル、という事だ。
元々パヴェルはこの世界の人間ではない。別の異世界に転生を果たし、そしてこの世界へと”再転生”を果たした転生者だ。もしこれらの世界が一種のパラレルワールドであるというのならば、当然この世界にもパヴェルに相当する人物が存在することになるし、それが目の前の”奉天の赤鬼”であっても不思議ではない。
にしても何たる偶然か。
よりによって見知った仲間の同位体と、こんなところで邂逅する事になるなんて。
「良い目をしている」
パヴェル―――いや、”赤鬼”はゆっくりと大太刀の切っ先をこっちに向けた。
「―――お前、強いだろ」
「……だったら何だ」
「そんなもの、決まってる」
ドン、と空気が弾けた。
何も無かった筈の目の前の空間に、身長180㎝、推定体重100㎏オーバーの質量が強引に捻じ込まれた事に、周囲の空気が狼狽し絶叫しているかのようだった。
一気に間合いを詰め、刀を振り下ろしてくる”赤鬼”。
その一撃を咄嗟に剣槍で受け止め、彼を睨む。
「―――殺し合おうぜ、心ゆくまでなァ!!!」
「……クソが」
不運すぎるにも程がある。
よりにもよって、奉天の赤鬼に目を付けられるとは。
クニャージ・リガロフ級戦艦
全長
・350m
基準排水量
・102000t
武装
・60口径44㎝4連装砲×5(前部甲板に第一、第二砲塔を背負い式に配置。第二砲塔と艦橋の間に第三砲塔を艦首向きに配置)
・60口径15.5㎝3連装砲×6
・40口径12.7㎝4連装高角砲×8
・25mm4連装機関砲×16
・12.7mm連装機銃×20
同型艦
・クニャージ・リガロフ(1番艦。イライナ語で【リガロフ公爵】の意)
・アナスタシア(2番艦)
・ジノヴィ(3番艦)
・エカテリーナ(4番艦)
・マカール(5番艦)
・ミカエル(6番艦)
イライナ公国海軍が国家の威信をかけて建造した、同国初の国産超弩級戦艦。建造の際はシャーロット博士より提供されたテンプル騎士団の『ジャック・ド・モレー級戦艦』を参考とし、対ノヴォシアを睨み大火力と圧倒的防御力を盛り込んだ海上の要塞として仕上げられた。原型となったジャック・ド・モレー級と比較すると航続距離、速度に劣るが防御力と攻撃力では優れており、海外に攻め込む事を考慮しないイライナ海軍の要求に合わせた形となる。
1番艦『クニャージ・リガロフ』は1938年に進水。それから1年おきに姉妹艦が続々と就役したが、一時期予算の関係から5番艦『マカール』を最後に6番艦『ミカエル』の建造を白紙化する案が浮上。しかしそれが国民の知れるところとなるや、「イライナの大英雄の名を冠した艦を建造中止にするとは何事か」と国民の声が上がり、建造のための募金活動まで始まる騒ぎになったという。
こうして国民に支えられつつ無事に就役した6番艦ミカエルはその後の度重なるイライナ侵攻やアルミヤ戦争で活躍。特にアルミヤ戦争ではノヴォシアによる侵略の報を受け母港アレーサより単独で出撃、押し寄せるノヴォシア艦隊を満身創痍になりながらも単独で迎え撃ち、黒海艦隊の到着まで持ちこたえた事から同国海軍の武勲艦とされている。
現在はかつての母港アレーサにて記念艦として動態保存されている。
余談ではあるが、同盟国となった倭国の戦艦『大和』がアレーサとアルミヤ半島に寄港した際、大和とミカエルの2隻が夕日を背に並ぶ姿を収めた写真が残されている。




