赤鬼襲来
力也「誰だお前は」
パヴェル「……熊です」
「……分かった」
短い返事を返し、スマホの画面をタップしてからベッドの上に転がり込んだ。
ふわりと柔らかいベッドのシーツに背中が沈み込むが、そんなものでこの悲しみを受け止めきれるものか。表情には出さないつもりではあったが身体は言う事を聞いてくれず、気付けば荒れ狂う感情のままにスマホをベッドの上に放り投げていた。
―――アンドレイが死んだ。
覚悟はしていた事だ。イライナが独立戦争を始めれば、ノヴォシアはリュハンシク州を守っている(という事になっている)俺をあの手この手で排除しようとするはずだ。国内にいるかつての学友を、対イライナの先鋒として動員するであろう事は、あの冷徹極まりないクソッタレ陛下であれば十分に打ってくる手であると思っていたし、そうなるであろうと覚悟も決めていた。
そしてそんな重荷を、ルシフェルに背負わせてしまう事も。
覚悟はしていた。していたつもりだった。
どんな絶望も、悲しみも、後悔も、荒れ狂う負の感情を真正面から受け止めて飲み下すつもりではあった。
しかし実際にそうなったと、現実を突きつけられればこのざまだ。
「……弱いな、俺は」
涙をこらえ、声を震わせながら絞り出すと、特殊作戦用のステルススーツに着替えようとしていたリーファが俺のスマホを拾い上げ、傍らにそっと置いてから、ベッドに横になる俺の上に覆いかぶさるようにして顔を覗き込んできた。
満月のように丸くて、黒いリーファの瞳。
いつもは元気の擬人化と言っても過言ではない彼女の瞳。その真っ黒な瞳の中に映っているのは、大人らしく、領主らしく振舞おうと抗っておきながら、しかし押し寄せる喪失感にみっともなく涙を流す1人の矮小な獣だった。
なんと無様な姿か。
これが大英雄イリヤーの子孫の姿か。
これが雷獣のミカエルの姿か。
「……分かり切ってたことだ、こうなるなんて」
「……」
花の香りにも似た柔らかな匂いと、確かな温もり。
リーファが無言で抱きしめてくれているのだと分かった途端に、縋るように彼女の背中に手を回していた。
「弱くなんかないヨ」
「……」
「為他人流淚並不代表軟弱(他人のために流した涙は弱さなんかじゃない)」
「ああ……ありがとう、リーファ」
正直、まだ信じられない。
アンドレイが戦死したという情報が。
誤報であってほしい、何かの間違いであってほしい。
そんな限りなく低い確率に望みを抱く一方で、実際に彼の遺体を見たらまた泣き崩れるんだろうなという確信があった。
―――この落とし前は、必ず。
1894年 5月7日
ジョンファ帝国 遼東半島
旅順要塞
「なんちゅう要塞じゃ」
双眼鏡で向こうの要塞を見ていた薩摩の兵士が、勇猛果敢で死を恐れぬ薩摩兵とは思えぬ口調でそう呟いたのが風に乗って聴こえてきた。
しかし他の血気盛んな兵士たちの誰もが、そんな彼を「臆病者」と詰る事はない。それだけ、これから突撃をかける事となる旅順要塞の威容は倭国兵たちにとって強大な存在と映っていたからだ。
幾重にも張り巡らされた塹壕に鉄条網、そしてそれらに据え付けられた機関銃と迫撃砲。野良猫や鼠どころか、蟻1匹通り抜ける隙すら見つけられぬ鉄壁の布陣に、その要塞の威容を目にした多くの将兵が息を呑む。
旅順要塞―――ノヴォシア軍が、極東地域の占領を確固たるものとするために構築しようとしていた、極東における最大規模の大要塞。
未だ未完成であり、確かに塹壕が中途半端なところで途切れていたり、奥の方には重機類が放置されていたりと、その守りが万全ではない事が窺える。
だが、しかし。
それでもなお、多くの倭国軍将兵は覚悟した。
果たしてこの要塞を陥落させるのに、いったい何人の犠牲が出るのかと。
「……」
大陸の風は、まだ少し肌寒い。
火薬と鉄の臭いを運んでくる北風に吹かれながら、倭国兵の1人として戦地にやってきた速河力也は懐から取り出した家族の写真をじっと見つめていた。生まれたばかりの愛娘『ラウラ』と息子『タクヤ』を抱き上げる、妻のエリスとエミリアの写った写真。
血飛沫舞う戦場に恋焦がれる一方で、しかし愛おしい家族の元に帰りたいという思いも確かにあった。早く帰って妻と子を抱きしめたい。最愛の家族と平穏な一時を過ごしたい。
そう感じる度に、心の中に住まう赤鬼が嗤うのだ―――『お前は弱くなった』と。『悪鬼羅刹の如きお前は何処へ行った』と。
生涯を戦に捧げるか、それとも父として生きる道を選ぶか。
そろそろどちらかを選んでも良いのではないか。そう自問自答する彼の聴覚に爆音が響いてきたのは、それからすぐの事だった。
「味方の砲撃じゃ」
倭国から輸送してきた榴弾砲780門、コーリア帝国が国家の威信をかけて派遣した砲兵隊の榴弾砲340門、そして復讐に燃えるジョンファが動員した砲兵隊の榴弾砲1080門。
それに加え、奉天会戦でノヴォシアから鹵獲した榴弾砲87門を戦力として加えた臨時編成の砲兵隊による全力砲撃が、ついに旅順要塞に牙を剥いたのだ。
カッ、と朱い閃光が大地の向こうで乱舞する。
あんなにも大量の砲弾が降り注いでいるというのに、しかしここから見ると爆竹が無数に弾けているようにしか思えない。閃光が瞬くのに一拍遅れ、ドン、と腹の奥底に響く音がやってくる。
「傾注!」
落雷の如く響いた声に、倭国兵たちの背筋が一気に伸びた。
副官を引き連れてやってきた壮年の男が、その声の主であった。
犬の獣人なのだろう。目つきは猟犬の如く―――いや、戦地で数多の敵を斬って来た猛者の如く鋭く、近くにいるだけで、あるいは視線を交わすだけで周囲の空気がずっしりと重くなるような錯覚すら覚える。
幕府軍の旧い軍服に身を包んだその男の肩には、赤地に金で『誠』と縫い付けられた特徴的な紋章があった。
兵士の誰かが言った―――『新選組だ』と。
「こりゃあ驚いた」
家族の写真を懐に仕舞い、力也も呟く。
戦地に姿を現したのは他でもない―――新選組の初代副長にして、現在では幕府陸軍の重鎮とし辣腕を振るう『土方歳三』元帥が、このような前線に顔を出すとは。
「これより我々は、あの旅順要塞を攻め落とす!」
腰に提げた軍刀を抜き払うなり、土方はその切っ先を旅順要塞へと向ける。
「今こそ大国ノヴォシアの喉笛を食い破り、遍く世界に我が日の本の武勇を示す時である! 戦国乱世を戦い抜いた武士たちの末裔よ! 我らの望んだ戦場は今、眼前にこそ在り!!」
―――ああ、そうだ。これが待ち望んだ戦だ。
ニッ、と口元に笑みを浮かべ、腰に提げた大太刀『朱桜』を引き抜く。
多くの兵士たちも着剣した銃を振り上げ、あるいは抜刀した軍刀を突き上げて、土方の声に呼応するかのように雄叫びを発した。
「武士の本懐を遂げよ―――突撃!!」
「突撃!」
「突撃じゃあ!!」
突撃喇叭に混じり、いったい誰が持ち込んだものか法螺貝の音色まで聴こえてきて、力也は思わず口元に苦笑いを浮かべてしまう。
いの一番に塹壕を飛び出し、力也は全力で走った。
機関銃の銃撃を大太刀の一振りで弾き飛ばし、立ち塞がる鉄条網を推定マッハ9の斬撃で大地諸共抉り飛ばす。早くも断熱圧縮熱に晒された大太刀がその名の通りの朱色に色を変え、立ち昇る熱気が塹壕内のノヴォシア兵に悪夢の如き現実を見せた。
【奉天の赤鬼】の噂は、既に旅順要塞にも伝わっていたのだ―――何発撃っても殺せず、返り血に塗れた隻腕のサムライが戦線を崩壊させた、と。
「突っ込め、えずがっとー場合やなかぞ!(突っ込め、ビビってる場合じゃねえぞ!)」
「土方元帥が見とるんだ、みっともにゃー戦いはできんぞ!」
「皆殺しじゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
力也が鉄条網に穿った突破口へ、戦意に燃える兵士たちが殺到してくる。
一部の兵士は早くも最前列の塹壕へと到達しつつあった。
軍刀を2本も手にした兵士が、ドスの利いた広島弁で何やら物騒な言葉を発しながら塹壕へ切り込んでいく。銃声と血飛沫、それからマズルフラッシュが荒れ狂う地獄の様相を呈した塹壕から逃げ出そうとする兵士もいたが、しかしその背中にも容赦なく小銃弾が射かけられ、背中を撃たれた兵士が崩れ落ちていく。
ぶん、と力いっぱい大太刀を投擲する力也。
断熱圧縮熱を纏いながら回転を始めたそれは、重機関銃の射手と助手の首を刎ねるや、そのまま塹壕内の補強用の角材にめり込み、その纏う熱で角材を発火させてしまう。
丸腰になった彼を討とうと、銃剣付きのボルトアクション小銃やスコップ、即席の棍棒を手に襲い掛かってくる熊のようなノヴォシア兵たち。彼らの罵声を浴びせられながらも力也は好戦的な笑みを崩さず、銃剣突撃を躱すなり敵兵の頭を掴んで、そのまま力いっぱい地面に押し倒す。
ゴギュ、と頭の骨が砕ける音。
そのまま人体の頭を握り潰し、返り血を浴びながら視線を上げた。
口から煙のような吐息を発し、左目に紅い光を宿す力也。
そんな彼に果敢に挑むノヴォシア兵たちであったが、しかし末路は他の兵士と同じだった。
スコップを叩きつける前に顔面に左ストレートを受けて頭の骨を砕かれ、棍棒を振るう前に強烈な上段回し蹴りで首を刎ねられ、次々に無残な骸を戦場に晒していく。
丸腰のまま、力也も塹壕へと踏み込んだ。
拳銃で応戦してくる兵士を蹴り殺し、ナイフを手に襲い掛かってくる若いノヴォシア兵の顔面を裏拳で砕き、腹に銃剣を突き立ててきた兵士の両肩を掴んで引き寄せ、そのまま首筋に喰い付き肉を食いちぎる。
腹に深々と突き刺さった銃剣を強引に引き抜き、先ほど投擲した大太刀を角材から抜き去りながら、その勢いのままに刀を振るい塹壕内の兵士7名をまとめて吹き飛ばす。
まるで嵐のようだった。
ヒトの姿をした、嵐の具現。
どれだけ果敢に挑んでも、どれだけ火力を集中させても、その全てをあざ笑うかのように圧倒的な力で迫ってくる武力の化身。
まるで戦争の狂気が、速河力也という人型の”器”を得たかのような暴れっぷりに、敵だけでなく味方でさえも彼を恐れた。
―――赤鬼じゃ。
その戦いぶりを見ていた兵士の1人が言う。
倭国各地の伝承に残る、破壊の化身たる鬼の如き戦い。
飛び交う銃弾を弾き、立ち塞がる兵士を一撃の下に両断し、塹壕を面白いほどの速度で制圧していく―――どこまでも戦を渇望する彼だからこそ出来る獰猛極まりない立ち回りは、まさに伝承に伝わる赤鬼のそれであった。
横薙ぎの一閃で兵士3名をまとめて両断し、地面に刀身を擦り付けながらのかち上げで地を這う衝撃波を放つ力也。衝撃波が鉄条網の群れを粉砕し、向こうに見える塹壕の銃座を射手もろとも木っ端微塵に吹き飛ばした。
「速河殿、ここは我らにお任せを!」
「かたじけない!」
迫ってきたノヴォシア兵を蹴り殺しながら返答するなり、力也は姿勢を低くしながら奥の塹壕目掛けて斜面を一気に駆け上がる。
―――戦だ。
―――戦だ。
―――戦だ!
4、5門の重機関銃の掃射を掻い潜り、あるいは刀で弾き飛ばしながら力也は笑っていた。
関ヶ原の戦いを最後に、倭国では大規模な戦争が繰り広げられる事はなくなった。
両親は言う―――『力也は生まれる時代を間違えたのだ』と。
彼自身もそうであると痛感していた。自分が生まれるべきは天下泰平の世ではなく、血飛沫舞う戦国乱世であるべきだった、と。
しかし今は、その燻る感覚もない。
欲していた場所が、目の前に広がっているのだから。
ドン、と空気の弾ける音と共に、重機関銃が真っ二つに割れた。じゅう、と溢れ出た冷却用の水すら瞬時に蒸発してしまうほどの熱気の中で、機銃もろとも両断された兵士たちの身体が左右にずれていく。
血飛沫を浴びながらもなお戦う彼の姿に、ノヴォシア兵が慄いた。
『赤鬼だ』、と。
《ミカ、状況は悪い方向に変化しつつある》
解放されたAn-225の機体後部ハッチ(※本来のAn-225に後部ハッチは無いが、イライナ仕様のAn-225には後部ハッチが追加されている)から眼下に広がる戦場を見下ろして、「ああ、そんなもんだと思ったよ」と言いながらミカエルはステルススーツのフードを被った。
《極東連合軍、特に倭国軍の進撃が予想以上に早い。既にノヴォシア守備隊の喪失戦力は20%に到達している》
「……ノヴォシアにはもう少し踏ん張ってもらいたいもんだが」
《それは淡い期待ってやつだ》
「そりゃあそうだ」
《……降下地点まであと1分。各自、パラシュート最終チェック》
指示に従い素早くパラシュートをチェック。各種危惧に問題がない事を確認している間に、格納庫内に積み込まれていた”フルトン回収装置”のドラッグシュートが開き、空気抵抗を受けたそれに引っ張られる形で、金属製の樽みたいなケースに収まった装置が機外へ投げ出されていった。
工作員を回収したら、あのフルトン回収装置を使って脱出することになる。訓練でも経験した空の旅だが……絶叫マシーン駄目なんだよね俺。修学旅行の時だって、みんなジェットコースターに楽しそうに乗ってる中俺だけ下でそれを見て鳥肌立たせて……あーダメダメ、陰キャ時代の記憶が。
《降下10秒前》
「それでは諸君、楽しんできたまえよ!」
ジャンプマスターとして格納庫に待機していたシャーロットが大声で叫んだ直後、パヴェルの《降下開始!》という命令が聴こえてきた。
装備を身に纏い、リーファと共に空中に身を躍らせる。途端に身体を猛烈な風と浮遊感が苛み、ジェットコースターをレベル99にしたような、膀胱の辺りがゾワッとするような感覚がやってきた。
作戦目標は工作員の回収。
随分と無茶な作戦を言い渡してくれるもんだよ、姉上……。
キリウ奇襲(1894年5月10日)
イライナ側の戦力が東部4州に集中している機に乗じ、ベラシア地方から出撃した精鋭部隊による浸透作戦でキリウの中枢部を制圧、及び宰相アナスタシアとキリウ大公ノンナ1世の暗殺を企図したノヴォシアの奇襲作戦。イライナ独立派は非常に手強く強かで、しかしその中心的人物であるアナスタシアを失えば烏合の衆と化すのは明白であった。
しかしイライナ国家諜報局『第13号機関』により作戦は筒抜けであり、キリウを目指しイライナへ足を踏み入れた精鋭部隊は突如として”事前情報に無い謎の部隊”の襲撃を受け後退。奇襲は失敗し、キリウの守りはより堅く閉ざされる事となった。
なお、この際に奇襲を迎撃したのは、ハンガリアのセロ・ウォルフラム勇敢爵が手配した『冒険者に偽装したハンガリア義勇兵』である事が、2021年の情報開示で明らかとなっている。




