迫る大会戦
天照「あの、私浦賀まで回航される予定なのになんで敵艦隊に単独で突入させられてるんです?」
鋼の断末魔。
ギギギ、と装甲板の軋む音に足元から響いてくる爆発の振動、視界を埋め尽くす炎と黒煙。
周囲では呻き声や悲鳴が上がり、足元の床は真っ赤な血糊でぬるりと湿っていた。地獄と化した艦橋の中、五体満足で立っている艦橋要員はそう多くは無い―――ヴルジノフ提督は本当に運が良かったのだ。
肩に破片をいくつか喰らっただけで済んだのだから。
「Что, черт возьми, происходит...?(何が、何が起きた……?)」
まるで棍棒で内側から乱打されているような鈍痛を訴え続ける頭を押さえながら、血塗れになったヴルジノフ提督は血走った眼を周囲へと向けた。
艦橋の窓という窓は割れ、壁には大きな穴が穿たれて、鈍色に荒れ狂う倭国海の威容が覗いている。その穴から視線をそのまま落としてみると、前部甲板は艦橋以上の地獄と化していた。
前部甲板に並ぶ2基の砲塔は吹き飛び、抉られて内部構造を曇天にさらけ出し、甲板の上には無数の金属片とバラバラになった人間だったものが転がる。押し寄せる白濁した波が甲板に押し寄せては、数分前までは確かに生きていた水兵たちの人体だったものを洗い流し、対馬沖へと攫っていった。
ドン、と水柱が屹立する。
ぎょろりと視線を向けると、そこには艦首左舷へと傾斜しつつ炎上する戦艦インペラトリッツァ・カリーナを尻目に、先ほど単独でバルチック艦隊の艦列へ無謀にも飛び込んできた敵艦が砲火を発し、旗艦の仇を討たんと副砲を射かける戦艦『クニャージ・スヴォ―ロフ』のどてっ腹に主砲6基12門の近距離射撃を敢行。巨人の一撃にも等しい斉射をもろに浴びたクニャージ・スヴォーロフが火達磨になり、そのまま艦隊から落伍していった。
「Не может быть, чтобы что-то столь глупое произошло...!(こんなバカな事があってたまるか……!)」
たった1隻の戦艦が、大艦隊の複縦陣を堂々と突破していくなど。
様々な悪条件が重なったなど、ヴルジノフ提督を擁護する事も出来よう。しかしそんな事をされて名誉を回復されたところで後の祭りであり、この海戦での敗北がノヴォシア帝国に一体どれだけの影響を与えるのかを考えれば、彼の名誉など安いものだ。
間違いなく、セルゲイ・ヴルジノフという提督の名は愚将として後世まで語り継がれる事になるであろう。
軍事力で劣る極東の蛮族に負けた愚か者として。
「Адмирал...(提督……)」
観測員に肩を借りながら、破片を浴び血まみれになった機関長が、手首から先が千切れた右手で敬礼しながら死にかけの顔で報告した。
「Машинное отделение полностью разрушено, электроснабжение отключено... перспектив восстановления нет. Затопление продолжается. Вероятно, это предел для этого корабля...…(機関室全滅、動力喪失……復旧の見込みはありません。浸水も続いています。この艦はここが限界でしょう……)」
「……Понял. Спасибо за сообщение(……そうか、分かった。報告ありがとう)」
全てを悟るなり、ヴルジノフ提督は穏やかな顔になった。
いつもは血に飢えた大熊のような体格もあり、その鋭い眼光から「熊親父」などと乗員たちから呼ばれていたヴルジノフ提督。艦の上では決して見せる事の無かった穏やかな表情に、若い観測員はただならぬ物を感じた。
「Вам всем необходимо немедленно покинуть этот корабль и сесть на другой корабль с командой, которая спасается бегством(諸君らは直ちに退艦。生き残った乗員たちと共に、他の艦に移乗したまえ)」
「…Что собирается делать адмирал?(……提督はどうなさるおつもりです?)」
機関長に問われるなり、ヴルジノフ提督は口元に笑みを浮かべながら、その大きな手を機関長の肩に手を置いた。
「Даме нужен эскорт. Я обо всем позабочусь, чтобы вы, ребята, благополучно вернулись в свою страну и дали своим семьям душевное спокойствие(貴婦人にはエスコート役が必要だ。それは私が務めるから、君たちは無事に国に戻って家族を安心させてあげなさい)」
沈む運命となった旗艦に乗り込んだ提督の、最後の大仕事。
隣で戦死した艦長と副長に代わり、それをやり遂げなければならない。
さあ行け、と言うと、機関長と観測員は目に涙を浮かべながら艦橋を去っていった。
発令所の中、まだ機能を維持している伝声管の蓋を開けるなり、まだ艦内に残っているであろう乗員たちに最期の命令を発する。
「Все, все, покиньте корабль. Покиньте корабль немедленно(総員退艦、総員退艦。直ちに艦を離れよ)」
総員退艦、繰り返す、総員退艦……。
沈みゆくインペラトリッツァ・カリーナの傾斜した甲板の上では、水兵たちが次々に海へと飛び込んでいるところだった。脱出用のボートどころか、波間を漂う甲板の切れ端や角材にしがみつく事が出来ればいい方で、殆どはそのまま海に飛び込んでは、懸命に泳いで艦から離れていく。
無事に退艦していく水兵たちを敬礼で見送りながら、ヴルジノフ提督はぽつりと口にした。
「Я приношу извинения Его Величеству Императору за мою смерть(死して皇帝陛下にお詫びを)」
爆沈するインペラトリッツァ・カリーナの爆炎を背に受け、周囲に無数の水柱を屹立させながら、副砲による砲撃で黒煙をたなびかせた天照が離脱してくる。
後部甲板の主砲で敵艦隊に応射を返しながらも離脱する天照の甲板上では、水兵たちが連合艦隊に向かって大きく手を振っていた。
「たわけ、まだ戦は終わっちょらんじゃろうが」
砲術長が相変わらず荒い口調で言うが、その口元には無事に戻ってきた大馬鹿野郎共を褒め称えるかのような、心地の良さそうな笑みが浮かんでいた。
いずれにせよ、これで勝敗は決した。
丁字戦法でバルチック艦隊の頭を押さえ、損害を蓄積させていたところにトドメと言わんばかりの敵艦隊中央突破による分断である。既に東郷提督が命じるよりも早く、戦艦『遼寧』率いるジョンファ艦隊と、戦艦『仁川』、装甲艦『武揚』で構成されたコーリア艦隊が左右に展開して、分断された敵前衛艦隊を半包囲しつつある。
熾烈な砲撃に晒されたバルチック艦隊に、もはや逃げ場など無かった。
無数の砲弾が降り注ぎ、反撃することもままならない。そのうえ旗艦インペラトリッツァ・カリーナ爆沈の情報はただでさえ士気の低かったノヴォシア艦隊を動揺させるには十分に過ぎ、中には戦闘を放棄して離脱に転じる艦さえ現れ始めた。
徹底抗戦するべく果敢に砲火を射かける艦と、逃走するべく回頭する艦同士が衝突する姿すら見受けられ、もはやバルチック艦隊に組織的な抵抗が出来るだけの統率は無かったのである。
―――勝敗は決した。
応戦の意思がある艦はあらかた沈み、残るは蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく残存艦艇のみ。
甲板のいたるところで万歳、と叫ぶ水兵たちの大合唱を聞きながら、東郷提督は口元に笑みを浮かべるのだった。
「Sorry for being such a pain, Lieutenant Colonel Baker(すまなかったなベイカー中佐、俺のわがままに付き合わせてしまって)」
「You're absolutely right(全くですよ)」
浦賀へ向かう天照の甲板に接舷したコーリア海軍の戦艦『仁川』へ移乗しようと歩みを進めた足を止め、後ろを振り向くなり力也は申し訳なさそうな言葉とは裏腹に楽しい時間を過ごした子供のような笑みを浮かべた。
「How many times have I thought I was going to die because of the Colonel?(大佐のおかげで生きた心地がしませんでしたよ、本当に)」
「I'm really sorry about that. Well, I'm sure you'll be able to relax a little once you arrive in Uraga. There's plenty of delicious food, including sushi and tempura. You should definitely enjoy it(それは本当に申し訳ない。まあ、浦賀に到着すれば少しは羽を伸ばせるだろう。寿司にてんぷら、美味い物はたくさんある。ぜひ堪能すると良い)」
「Raw fish? It's certainly a culture that doesn't exist in our country. It might be worth a try(生魚ですか。確かに、我が国には無い文化ですね。試してみる価値はあるかもしれません)」
「See you later(それじゃあ、達者で)」
「Yes, Colonel. And please be careful yourself(ええ。大佐もお気をつけて)」
互いに敬礼を交わすなり、力也は甲板からかけられた渡し板を踏み締めて天照の左舷に接舷する戦艦『仁川』へと移乗した。
当初の予定は浦賀まで新造戦艦『天照』を回航することであったが―――予定が変わったのだ。
チョソン半島の付け根、ノヴォシアの支配地域となっている奉天で大規模な会戦が始まろうとしている、というのである。
反対側からはジョンファ軍が、半島側からはコーリア、倭国連合軍が北進し、南側と西側からノヴォシア軍の兵站中継地点となっている奉天を叩く作戦だ。成功すればノヴォシア本土から、建造中の旅順要塞への補給を断つ事が出来、後に控える要塞攻略戦のハードルが一気に下がるという寸法である。
それだけではない。
搦め手として、江戸幕府は蝦夷を前哨基地とした”北方攻勢”を検討しているという。ノヴォシアの戦力が奉天や旅順に集中しているこの機に乗じ、守りが手薄になっている樺太を制圧、手中に収めようという胎だというのだ。
実に、幕府の将軍と老中たちは狡猾である。
虎視眈々と獲物を狙う獣の如し、とはよく言ったものだ。
力也に下った命令は、そのまま半島へ帰還するコーリア艦隊に移乗、半島から進撃する幕府陸軍第4師団と合流し奉天を目指しこれを撃滅。然る後に旅順を攻め落とすべし、という苛酷極まりないものである。
しかも上様からの直接の命令とあれば逆らうわけにもいかない。幕府の将軍が右と言えば右、左と言えば左なのだ。たとえ馬にしか見えぬ獣でも、将軍が鹿だと言えば鹿なのである。
通訳の兵士と共に仁川に移乗するなり、艦長らしき中年の男性が敬礼で出迎えてくれた。
「함장의 금입니다. 전함 「인천」에 오신 것을 환영합니다」
「なんと?」
「艦長の金大佐です。戦艦仁川へようこそ、と」
「お出迎え感謝いたします。速河です、仁川までお世話になります」
そう言うや、副官は流暢なチョソン語で艦長に力也の言葉を伝えた。
笑みを浮かべながら右手を差し出す金艦長だったが、しかし力也の右腕が無い事に気付くや申し訳なさそうにその手を引っ込めた。
気にしないでください、と視線で訴え、副長の案内で船室へ。
仁川に到着すれば、そこから先は強行軍だ。
そしてその後に控えているのは奉天会戦―――間違いなく、地獄と評するに値する激戦となろう。
やはり海の戦いよりも陸の戦いだ。
船室の椅子に腰を下ろすなり、力也の眼光は鋭くなっていった。
早く―――早く、戦いたい。
死を強く意識するような血戦を。
地獄のような乱世を。
状況が変わった。
チェストリグのポーチにSTANAGマガジンを次々に押し込み、BRN-180を背負い、グロック17Lをホルスターに収めて剣槍を手にしながら武器庫を出ると、既に武器庫の向こうにはシェリルの乗るハンヴィーが待っていた。
助手席に乗り込むのを認めるや、シェリルはアクセルを踏んでハンヴィーを走らせ始める。
これから極東での特殊作戦となるが―――少々、面倒なことになるかもしれない。
倭国海での大海戦で倭国は想像よりも早くバルチック艦隊に勝利。海からの救援を潰されたノヴォシア軍は劣勢に立たされ、旅順とノヴォシア本土を結ぶ要衝である奉天には南西から極東連合軍が押し寄せつつある。
2方向からの挟撃に耐え抜くだけの強靭さは、今のノヴォシアには無い。
会戦が始まれば補給線は完全に断たれるだろう―――その後は旅順要塞である。
「間に合いますかね」
「そう願うしかないよ」
半ば神頼みになりそうな作戦を前に、俺はそう言うしかなかった。
作戦内容は旅順要塞で孤立しているイライナ国家諜報局の工作員を救出する事。それも倭国、ジョンファ、コーリア3ヵ国軍の大攻勢の最中に、である。
とんでもない任務を宛がうものだ―――姉上からの過去最大級の無茶振りに帰りたくなりながらも、しかし腹を括る。
やるしかない。
前に進まなければ、待っているのは死か隷属の未来のみである。




