倭国海海戦
ミカエル「子供たちは疎開させる事にしたよ」
パヴェル「そーかい」
デスミカエル君「 死 ね 」
1894年、5月。
極東へと派遣したノヴォシア極東遠征軍の戦況は、悪化の一途を辿っていた。
ジョンファ軍による犠牲を厭わない連日の猛攻と、コーリア半島方面から進撃を続ける倭国・コーリア連合軍。
予想以上の抵抗によりノヴォシア軍の戦力は損耗を続け、加えて本土からの補給も先細りが始まっており、遼東半島にまで進出した極東遠征軍は極東3国軍により包囲、殲滅されてしまうのも時間の問題であった。
この状況を打開するため、ノヴォシア帝室はバルチック艦隊の派遣を決定。
北海、大西洋を大きく迂回する形で倭国海へと向かうバルチック艦隊。
この動きを早期に察知したイーランド国家情報局からの情報提供を受けた倭国、江戸幕府は海軍戦力を結集。コーリア、ジョンファからの海軍戦力も艦隊へと組み込んだ”連合艦隊”を編成し、押し寄せるバルチック艦隊へと決戦を挑む。
のちに【倭国海海戦】と呼ばれる海戦が、幕を開けようとしていた。
極東諸国、列強諸国ニ勝利ノ試シ無シ
祖国ノ興廃、此ノ一戦ニ在リ
諸君、今此処ニ新タナ歴史ヲ刻ムベシ
1894年 5月1日 午前10時12分
倭国海 対馬沖
濛々と立ち昇る黒煙は、さながら海から天へと昇る黒龍の如しだった。
押し寄せる波濤を衝角で強引に押し退けながら突き進む幕府海軍主力艦隊。その艦首に燦然と輝くのは、江戸幕府の象徴たる葵の紋。
この日のために、倭国は準備を進めてきた。
高い金を払ってイーランドから戦艦を購入し、それを運用する海軍士官や水兵たちの訓練に力を入れてきた。水兵たちが皆口をそろえて『一日が48時間ある』とまで表現し、比喩表現でも何でもなく文字通り血反吐を吐く思いで猛訓練をこなしてきた彼らは、その努力の成果もあって今や極東随一の海軍へと成長を遂げていた。
全ては押し寄せる大国の魔の手を打ち払うため。
それだけではない。
北海、大西洋を経由し極東へと向かうバルチック艦隊に対し、既にイーランドやイライナが手を回して各国に通達を出し、ノヴォシア艦隊への石炭の補給の禁止や寄港の禁止・制限を設けさせている。
つまり今のバルチック艦隊は、辛うじて調達できたなけなしの劣悪な石炭でよろよろになりながら極東へと向かっているのである。
寄港も厳しく制限、あるいは禁止され、乗員たちも疲労困憊であろう。いずれにせよベストコンディションとは言い難い。
それに対しこちらは幕府海軍の全戦力を投入している。二度に渡る仁川沖海戦に参戦、いずれの海戦でもノヴォシア艦隊と砲火を交えこれを撃滅した武勲艦でもある戦艦『常陸』を戦力に加え、旗艦『三笠』率いる連合艦隊は戦力にさらに厚みを増しているのだ。
更にジョンファ帝国海軍からは戦艦『遼寧』、『山東』、『上海』、『北京』の4隻、コーリア帝国海軍からは戦艦『仁川』、そして仁川沖海戦にも参加した装甲艦『武揚』の2隻が戦力として派遣されている。
文字通り極東3国の連合艦隊が、総力を以てノヴォシア艦隊を迎え撃つ構図だ。
旗艦三笠からの発光信号もあり、水兵たちの士気は最高潮に達している。
だがしかし―――三笠の発令所に立つ艦隊司令”東郷平八郎”の目には、いつにも増した厳しいものがあった。
既に双眼鏡を覗けば、鈍色の大海と灰色の空の向こうにも、濛々と立ち昇る龍の如き黒煙が見える。
イーランド国家情報局からの情報によれば、バルチック艦隊の戦力は戦艦18隻、巡洋艦25隻、駆逐艦16隻。これはイーランドだけではなく、イライナからの情報とも一致するため間違いはないだろう。
それに対する倭国・ジョンファ・コーリア連合艦隊の戦力は戦艦36隻、巡洋艦、装甲艦合わせて48隻、駆逐艦20隻。
数の上では連合艦隊が優位に立つが、東郷司令が憂慮しているのはバルチック艦隊の中核を成す”ボロジノ級戦艦”の存在、そして何より艦隊旗艦『インペラトリッツァ・カリーナ』の存在である。
ノヴォシア帝国が、国家の威信をかけて建造した準ド級戦艦。時は経ちやや旧式化する兆しがあると言えども、その性能は幕府海軍が保有する戦艦の多くを上回り、船体も、主砲の口径もそれらを上回る強力なものだ。
数の上で優位に立っていると言えども、実際に彼女らと互角以上の殴り合いを演じる事が出来るのは、実質的には同数程度と見積もる事が出来るだろう。
「……天照は間に合わなかったか」
「は、残念ながら」
イーランドのペンドルトン・インダストリーに追加発注していた戦艦”天照”が海戦に間に合わないのは、大きな戦力ダウンといえた。
倭国の旧い神話に登場する、太陽神の名を冠した大型戦艦。既に艤装を終え、大西洋から大急ぎで倭国へ回航中との事ではあるが、この様子では後世に残るであろう一世一代の大海戦に間に合いそうもない。
「速河殿には悪い事をしたな」
「こればかりは仕方がありませぬ。万事思い通りにはいかぬもの……」
「敵艦隊接近!」
波に揺られる戦艦三笠の甲板、大きな双眼鏡を手にした見張り員が声を裏返らせながら報告した。
「ノヴォシア艦隊、複縦陣で我が艦隊に接近中! 先頭の艦は戦艦”オリョール”並びに戦艦”オスリャービャ”と推定!」
「戦闘旗掲揚! 全艦戦闘配置!」
「総員戦闘配置!」
「敵艦隊との距離、9000!」
三笠の甲板上が一気に騒がしくなる。戦闘配置を告げる警鐘がせわしなく鳴り響き、水兵たちが揺れる甲板の上を走って配置へとついていった。
事前に、幕府は偽情報をノヴォシア側へと流していた。
幕府海軍は倭国海ではなく、仁川沖に戦力を結集させている、と。
よもやその遥か手前、対馬沖の戦力を終結させ万全の体制を敷いているなど、ノヴォシア艦隊からすればまさに寝耳に水であったのだろう―――複縦陣の先頭を征く戦艦オリョールとオスリャービャの甲板の上では、乗員たちが大いに慌てている様子が双眼鏡越しに見て取れる。
「艦長、距離8000で取り舵だ」
「え」
いよいよ海戦が始まるというところで、厳しい表情を見せていた三笠の艦長は、東郷司令からの一声に目を丸くした。
取り舵―――左方向へと大きく進路を変更せよ、というのである。
てっきりこのままノヴォシア艦隊と真っ向からぶつかり合うか、あるいはすれ違いざまに砲火を交える反航戦の形をとると思っていた艦長は、想定外の命令に思わずそんな声を漏らしてしまう。
「閣下……危険です、それでは敵艦隊の真正面に横腹を晒す事になります」
「左様、それで良い」
声音を変えることなく、東郷司令はさらりと言う。
「この一戦、勝つにはそれしかない。艦長、取り舵だ。後続艦も続くよう厳命せよ」
「……はっ、進路変更します―――とぉぉぉぉりかぁぁぁぁぁぁじ、一杯!!」
「とーりかーじ、一杯!!」
復唱の声が続く中、発令所に立つ将校たちは不安そうな表情を浮かべた。
今ここで進路を変更し、敵艦隊の前に立ち塞がるような格好となれば、進撃してくるノヴォシア艦隊に対し横腹を晒す事となる―――敵艦隊の進路を塞ぐという意図があるのかもしれないが、しかし敵には攻撃力に優れたボロジノ級と、ノヴォシア最大の火力を持つ戦艦インペラトリッツァ・カリーナが含まれているのだ。
生半可な戦艦ではたちどころに撃ち負けてしまう強敵―――下手をすれば、その火力の前に陣形を前後に分断されかねない。
東郷閣下は何を思ってこのような作戦を命じられたのか。
将校たちの不安をよそに、陣形の先頭を突き進む三笠が進路を左に変更し始めた。荒れる倭国海の波をかぶり、艦首が水浸しになっていく。
後続の戦艦『敷島』、『富士』、『朝日』にも信号旗と発光信号で変針する旨は伝えられている。やはり突然の進路変更に困惑している様子が見受けられたが、しかし艦隊旗艦がそうするならば従わざるを得ない。三笠の進路変更に遅れる形で、後続艦も進路を変更。倭国海の波濤を浴びながらも重々しく左へ舵を切っていく。
「敵艦発砲、敵艦発砲!」
観測員の悲鳴じみた声を聴かずとも、バルチック艦隊の先頭を征く何隻かの戦艦から砲火が放たれた瞬間ははっきりと見えた。
回頭を続ける戦艦三笠の周辺に、突如として巨大な水柱が屹立する。
ノヴォシア艦隊の30㎝砲による先制攻撃だ。幸い命中こそしなかったが、しかし数発はゾッとするほどの至近距離に落下している。
偶然か、それとも列強国海軍の練度の高さゆえか。
あれだけの距離でこれほどまでの命中精度を持っているのだ―――いずれにせよ、真正面からの殴り合いでは分が悪い。
「左90度回頭完了!」
「右砲戦用意! 目標敵戦艦、距離7000―――」
「いや待て」
ドン、と水柱が屹立する中、腕を組み仁王立ちする東郷司令は艦長の命令を静かに遮った。
「距離5000まで引きつけろ」
「しかし閣下……!」
「ここで撃ち返すようでは敵に”焦っている”と受け取られかねん。確実に命中弾が見込める距離5000までは攻撃を厳禁する」
「……はっ」
ゆっくりと、前部甲板と後部甲板に搭載された30.5㎝連装砲の砲塔が旋回を開始。その砲口の先にノヴォシア艦隊を睨むも、しかし発砲を厳禁されているが故に火を噴く気配はない。
早く撃たせろという砲手たちの声が、東郷にははっきりと聴こえたような気がした。
「敷島、富士、朝日、回頭完了」
「常陸、相模、回頭完了」
「遼寧、山東、上海、北京、回頭完了」
「距離5300……5200……5100……」
そしてついに―――その時が訪れる。
「―――距離5000!!」
「撃ち方始めぇ!!」
「撃ちーかたー始め!!」
甲板上に警報音が響くや、三笠に搭載された30.5㎝砲が火を噴いた。
イーランドに本拠を置くペンドルトン・インダストリーの設計した30.5㎝砲―――艦隊総旗艦に搭載されたそれが、初めて実戦で火を噴いた瞬間だった。
装薬の炸裂で押し出された砲弾が、降り注ぐ水飛沫の合間を潜り抜けて飛んでいく。
今まで一方的に撃たれるばかりだった倭国艦隊からの最初の一撃は、次弾装填のため主砲の仰角を下げていた戦艦『オリョール』の前部甲板へと食らいつくや、甲板を撃ち抜いて内部で炸裂し派手な爆炎を吹き上げるという華々しい戦果を挙げた。
三笠に後れを取ってはならぬと、後続の敷島、富士、朝日、そしてジョンファから派遣されていた遼寧、山東、上海、北京も砲撃を開始。特に直接国土を蹂躙されているジョンファ艦隊の砲撃は、その復讐心もあってか特に熾烈であり、首都北京の名を冠した戦艦北京の砲撃はあろう事か倭国艦隊に先んじて再装填を終え次弾を放つほどだった。
オスリャービャにも立て続けに砲弾が命中。ノヴォシア艦隊の2隻がたちまち火達磨になるや、戦況は一変した。
有史以来、列強国に蹂躙されるばかりであった極東諸国の艦隊が、列強国の艦隊に猛然と牙を剥いたのである。
「Попадание в броненосец "Орел"! Возникает пожар!(戦艦オリョール被弾、火災発生!)」
「Броненосец «Ослябя» тонет!(オスリャービャが沈みます!)」
バルチック艦隊旗艦”インペラトリッツァ・カリーナ”の艦橋で、艦隊司令”セルゲイ・ヴルジノフ”提督は次々に挙がってくる悪い報告に目を血走らせていた。
これはいったい何の冗談か。
敵艦隊は反航戦の素振りを見せながら、しかし突然になって大回頭。進撃するバルチック艦隊の正面に横腹を晒し立ち塞がる格好で戦いを挑んできたのである。
なんと非常識な作戦であろうか。
目の前で横腹を晒せば、先頭の2隻から猛攻を受けるのは必定である。そのまま火力を集中させ陣形を前後に分断してやってもいいだろう―――いずれにせよ、自殺行為に等しいものとヴルジノフ提督は見ていた。
しかし、実際はどうか。
向かい風に波が高いという事もあり、オスリャービャとオリョールは至近弾こそあるものの、なかなか命中弾を出す事が出来ずにいる。そうしている間にも彼我の距離が縮まってしまい、倭国艦隊からの反撃で瞬く間に2隻を失う事となった。
皇帝陛下に何と言えばいいのか。
「Адмирал, такими темпами...!(提督、このままでは……!)」
「Ах, что ты делаешь...сосредоточь свою огневую мощь!(ええい……何をしている、火力を集中させろ!)」
「Однако, адмирал, при нынешнем построении два ведущих корабля мешают мне, и я не могу прицелиться!(しかし提督、今の陣形では先頭の2隻が邪魔で狙えません!)」
悲鳴じみた報告に、ヴルジノフ提督は倭国艦隊の目論見を理解し唇を噛み締めた。
これが倭国艦隊の―――東郷平八郎提督の狙いだったのだ。
ノヴォシア艦隊の前方に立ち塞がれば、横腹を晒す事になるものの倭国艦隊は前部甲板と後部甲板に津際された主砲全てを動員し砲撃する事が可能となる。
それに対し、ノヴォシア艦隊は前部甲板の主砲でしか応戦できない。
倭国の戦艦1隻が、一時的にとはいえノヴォシアの戦艦2隻分の火力を持つ事となるのだ。
それだけではない―――複縦陣という陣形が災いし、実際に敵艦隊と砲火を交える事が出来るのは先頭の2隻のみとなる。
それに対し敵艦隊は、回頭したほぼすべての艦が先頭の2隻を集中攻撃できる状態にある。
この調子で先頭に立った艦を各個撃破しつつ、後続艦への戦闘への戦果を許さない―――実に一方的な攻撃が可能となる構図が、今ここに完成してしまったというわけだ。
「Это то, к чему ты стремишься, Того!!(これが狙いか、トーゴー!!)」
ヴルジノフ提督は吼えた。
皇帝陛下からお預かりした艦隊をここで擦り減らすなど、あってはならない事だ。
「提督、敵艦隊後方より発光信号!」
む、と東郷提督は見張り員の方を見るなり、水平線の彼方を双眼鏡で凝視した。
灰色に染まる水平線の向こうにぽつりと1つ、濛々と立ち昇る龍の如き黒煙が見える。見張り員の言う”発光信号”を発しているのは紛れもなく、その黒煙を吹き上げる艦からだった。
双眼鏡の向こうに映る威容を認めるなり、東郷提督は口元に笑みを浮かべる。
前部甲板や船体側面に、親の仇の如くびっしりと並べられた30.5㎝連装砲の山。
ペイロードが許す限り主砲を積み込み、装甲を削り、火力と速度に特化したイーランド製の最新鋭戦闘艦―――西の果てのかの国に発注していた新造戦艦が、満を持してこの戦場へとやってきたのである。
戦艦『天照』―――太陽神の名を冠した戦艦が、海戦中の海域へと殴り込みをかけんとしていた。
【我突撃ス、我突撃ス。御照覧アレ】
まさか今になって日本海海戦っぽい何かを書くことになるとは思いませんでした(真顔)




