法務官ジノヴィ
法務官たる者、常に冷酷であれ。
私が法務省に入った時、初めて法務官から言われた言葉がそれだった。
冷酷に、淡々と仕事をこなす事。摘発対象に対して情をかける必要はなく、粛々と法に照らし合わせ摘発せよ―――我々法務官こそが、偉大なる帝国を汚職の腐敗から守る”法の番人”なのだ、と。
それ以来、なるべく感情を表に出さぬよう努力してきた。お前は機械だ、と自分に何度も言い聞かせ、貴族を摘発してきた。脱税に違法品の密輸、密売……中には麻薬を帝国にばら撒こうとしている貴族も居て、そいつには先週全財産の没収と国外追放が言い渡されたところだ。
そういう現場にいるからこそ、帝国の腐敗は実感している。
偉大なるノヴォシア帝国の広大な版図。ノヴォシア、イライナ、ベラシアの三大地方から成り立つ広大な国土には多くの民族がひしめき合い、皇帝の統治の元日々の生活を送っている。しかし、いくら帝国議会の連中が皇帝を敬うべき存在、全知全能の偉大なる王と称しても、その支配力には限界がある。
全知全能とされている皇帝の与り知らぬところで、腐敗は着実に進んでいるのだ。
そして今、私はそれを新たに摘み取ろうとしている。
コンコン、と屋敷の玄関をノックする法務官補佐。しばらくするとメイドがゆっくりと扉を開け、我々の黒い制服を見るなり息を呑んだ。
黒を基調に、襟や袖に黄金のラインの入った制服―――その色が、我々がどこからやってきたのかを言葉よりも雄弁に物語る。法の番人、法務省。大貴族の逮捕権限を持つ憲兵の上位組織。
「ええと、どのようなご用件で……?」
「キリウ法務省より参りました。オゼロフ家には脱税及び禁止品の密輸の容疑がかかっています。これより屋敷を捜索させていただきます」
「そ、捜索……?」
「令状はこちらに」
そう言いながら、法務官補佐が手に持った令状を半ば突きつけるようにメイドに見せつけた。帝国の国章である双頭の竜を背景に、法務省長官の直筆の署名と捜索の理由が列挙されている。
何人たりとも、これを拒む事は出来ない。唯一法務省の捜索を拒めるのは絶対的権限を持つ皇帝のみ。
メイドが気圧されている隙に、私は法務官補佐たちに目配せした。頷いた彼らは屋敷の中へと入り込み、そのままこの屋敷の当主―――イサーク・キーロヴィッチ・オゼロフの書斎へと向かう。
付き合いの長い補佐に護衛されながら、私も屋敷の中へと足を踏み入れた。屋敷の中を掃除中だったメイドたちがこちらを見て凍り付く。ざわつく声すら聞こえない。こんなに広大な屋敷の中を掃除するとなれば大変な手間だろう……それに見合う対価も支払われているのか気になるところだ。最低賃金は法律でしっかりと定められている。
まあそれは余罪として追及すればいいか、と思いながら階段を上っていくと、慌てて駆け寄ってきた執事に呼び止められた。
「な、なんですかあなた方は!? ここをどこだと思って―――」
「キリウ法務省です。イサーク・キーロヴィッチ・オゼロフ氏に対する脱税及び禁止品の密輸の容疑により、この屋敷を捜索します」
「何の権限があってそんな!?」
「法務省には大貴族までの逮捕権限があります。令状もあります、この捜査は拒否できませんよ」
「……っ」
「捜査を妨害するのであれば公務執行妨害になりますが、よろしいので?」
感情を込めず、淡々と語る。貴族の屋敷で何度も繰り返してきた事だ。憲兵であれば貴族の逮捕権限はなく、これで撃退できるのだが、貴族の腐敗防止を目的とする法務官は別だ。憲兵の完全な上位組織であり、権限もこちらの方が強い。
機械のように冷淡に言うと、執事は焦ったように階段を駆け上がっていった。旦那様、旦那様、と大きな声を張り上げながら、イサークのいるであろう書斎に向かって走っていく。
さてさて、どこまで黒なのかこの目で見極めるとしよう。
法務官補佐たちと共に階段を上がり、イサーク氏の書斎へ入る。中は既に捜索が始まっていて、数名の法務官補佐たちが本棚やらデスクの引き出しやら、とにかくあらゆる場所からあらゆる物を引っ張り出してはその中身を確認していた。本棚に並んでいる本の隙間から絨毯の下、壁に飾られている絵画の裏側までだ。
そんな部屋の中で、先ほど慌てて走っていった執事と共に脂汗を浮かべ、目を白黒させた小太りの中年男性が、私の方を見て歯を食いしばる。
「貴様っ、この私を誰だと思っている!?」
「イサーク・キーロヴィッチ・オゼロフ氏です」
「こんな事をして、どうなるか分かっているのだろうな!?」
「脅迫のつもりですか?」
「貴様らなど簡単に潰せるのだぞ!?」
「余罪で追及されたくなければお静かに」
第一、その程度で潰されていたら今の法務省はない。帝国の腐敗は民衆からだけでなく、貴族からも生じる。圧倒的な権力を持つが故の暴走、権力の乱用。貧しい人民だけが罪を犯すと思ったら大間違いだ。こういう貴族も罪を犯し、帝国の腐敗をより一層深刻なものにする。
それを摘み取るのが我々法務官の使命なのだ。圧倒的権力を誇る貴族や大貴族に対する抑止力として皇帝から期待されている以上、こちらにも貴族を逮捕する権限がある。
もちろん、こうした屋敷の家宅捜索も問題はない。正規の手続きを踏み、長官や裁判所からの許可を得た上でこうしている。
腕を後ろで組みながら捜索を見守っていると、本棚を調べていた法務官補佐が「法務官、これを」と呼んだ。何事か、と彼の方を見る前にイサーク氏の顔色を確認したが、まずい、とでも言いたげな、今まさに企みを暴かれる直前といったような顔だった。顎から滴り落ちんばかりの脂汗、これはクロであろう。
「何だ」
「何ですかねえこのスイッチは」
”錬金術基礎Ⅲ”と背表紙に記載された、うっすらと埃を被った分厚い教本の裏側に”それ”はあった。分厚い本が陳列されている状態では決して発見する事が出来ぬよう、巧妙に隠されたスイッチが。
これは何です、とイサーク氏に聞く愚か者は居なかった。こんなところにスイッチが隠してあるという事が何を意味するのか、考えるまでもあるまい。
スイッチを押すと、隣の本棚が重々しい音を立てながら横へとスライドしていった。その奥に現れたのは何の変哲もない木製の壁……かと思ったが、そっちの方にも変化が起こる。ゆっくりと左右にスライドし、奥にある隠し部屋が姿を現したのだ。
ご丁寧に照明までついている……電球1つが吊り下げられている程度だったが、それでも十分照らし切れるサイズの部屋だった。
補佐と一緒に部屋へ突入、中を確認する。
小さな本棚には紙の束がこれでもかというほど収納されていた。
「これは……やっぱりそうですね、経費を水増ししていたようです」
「こっちはなんだ?」
補佐が脱税の証拠を押さえている間に、私は隣の棚をチェック。引き出しの中には何かの帳簿のようなものが収まっている。
隠語らしき言葉が混じっていたが、どうやら法で規制されている違法品の密輸リストと顧客リスト、そしてそれの帳簿のようだった。模造品に密造銃、麻薬まで。ここまで来ると犯罪の見本市みたいになっていて、口元に変な笑みが浮かぶ。
これはクロだ、間違いない。
証拠を持って隠し部屋の外に戻り、イサーク氏にそれを突きつける。
「なるほど、随分と私腹を肥やしたようですな。脱税だけでは飽き足らず、模造品に密造銃の売買、麻薬の取引……一体どこからこんなものを仕入れたのやら」
「しっ、し、知らん! 私はそんなもの知らんぞ!」
「そうですか。こちらに貴方のサインがしっかりと書かれているんですがね。筆跡も同じだ」
「知らん! 記憶にないと言っているだろう! 誰かが私を陥れるために仕組んだ罠だ、きっとそうだ!!」
「……話は取調室で聞きます。ご同行願えますかな」
やれ、という合図を出すと、法務官補佐の1人が携行していた手錠を取り出した。鎖と銀の輪で構成された手錠、虜囚の証。貴族にとってそれは畏怖の対象だった。それを付けられたが最後、貴族としての誇りも地位も、あらゆる全てが地に落ちる。
補佐が手錠をしようとした次の瞬間だった。
「私に触るなっ!」
イサーク氏が腕を振り払い、補佐を払い除けた。
これだけでも立派な公務執行妨害、おまけに傷害罪でも摘発できそうなのだが、追い詰められたイサーク氏の行動は補佐たちの予想の一歩上を行っていた。振り払った腕を上着の内ポケットに突っ込んだかと思いきや、そこから小型の、通常モデルよりも遥かに小さなフリントロック式拳銃を引っ張り出したのである。
貴族や女性の護身用に販売されているモデルだ。しかし犯罪者に使われるケースも多く、規制が議会でたびたび議論されている曰く付きの拳銃である。
ああ、やってしまったな―――まさか拳銃を向けてくるとは。
やれやれ、と呆れながら、サーベルを引き抜いて応戦しようとする補佐たちを制止。一歩前に出て、左手に持った杖に魔力を流し込む。
黒く、先端部に黄金の結晶がはめ込まれた杖。リガロフ家の屋敷を出て法務省へ就職する際、父上から預かったリガロフ家の秘宝の一つ―――”イリヤーの王笏”。
魔力損失は驚異の0.9%のみというそれを振るい、出来るだけ手加減しながら魔術を発動した。
「貴様!」
イサーク氏がピストルの引き金を引こうとする。が、火薬が点火する様子も無ければ撃鉄が落ちる様子もない。それどころか、引き金に掛かった指は動いてすらいない。
それはそうだろう。でっぷりと脂肪を蓄えたその指先は、限界まで冷やされた金属製の引き金にしっかりと張り付き、もろともに表面に霜が張るほど凍り付いていたのだから。
「!?」
「確保!」
頼みのピストルが無力化されたイサーク氏に、補佐たちが一斉に襲い掛かった。ピストルを握り、凍り付いてしまったそれを振り回してなおも抵抗しようとする彼を投げ飛ばし、床に押さえつけて強引に手錠をはめ込む部下たち。カチリ、と金属音が響き、罪を犯した愚かな貴族がまた1人、虜囚へと成り果てた。
「連れていけ。罪状に殺人未遂と公務執行妨害も追加だ」
「はっ!」
「貴様、貴様っ! ジノヴィ・ステファノヴィッチ・リガロフ! この私にこんな……絶対に後悔させてやるからな!!」
なんともまあ弱々しい捨て台詞を残し、部下たちに連行されていくイサーク氏。彼を見送りながら、私はそっと溜息をついた。
「それにしても凄かったです、法務官。あんな素早く精密な魔力のコントロール、見たことありません」
「買いかぶり過ぎだよ、ニキータ。訓練次第で何とでもなる」
部下のニキータにそう言いながら、彼が持ってきてくれたコーヒーを受け取った。マグカップの中に注がれたコーヒーを見る度に、弟―――マカールの事を思い出す。確かアイツは紅茶派だった。それも砂糖やらジャムを限界まで入れる超甘党だ。
私は甘いものが嫌いだ。だからコーヒーを飲む時は砂糖もミルクも入れない。コーヒー豆の苦みとこの香りを楽しむのだ。故にそれ以外の要素は雑味でしかない。
カロリー的にもこっちのほうが良いのに、マカールの奴は何を考えているのやら。
「いえいえ、法務官には遠く及びませんよ。適性はAでしたっけ」
「ああ」
魔術の属性適性はA―――属性は氷だ。
生まれ持った才能だが、これに頼る事は殆どないし努力を怠ったことも無い。才能があるという事はすなわち強さの証明ではなく、”他者に追われる”という事でしかないからだ。目的を追い求める者と、それらに追われる者。後者の方がハードルは高くなる。
それに、他者から寄せられる期待も段違いだ。天才だから当然、才能があるから当たり前。その”当然”のラインを当たり前のように引き上げてくる連中には、時折残酷さすら覚える。
「自分もエリス教徒なんですが、法務官のようにはいかないんです。後で教えてもらえませんか?」
「構わんよ」
私が信仰しているのは”氷の精霊エリス”。英霊としての身から精霊へ昇格したという、異色の経歴を持つ精霊とされている。氷の魔術を自在に操り、存命中は”絶対零度”の異名で畏れられた女騎士だったのだそうだ。
熱いコーヒーに口を付けていると、デスクの電話が鳴った。次の仕事か、それともさっきの捜査の結果でも出たか―――目を細めながらマグカップをデスクの上に置き、電話に出る。
「はい、ジノヴィです」
『法務官、憲兵隊のマカール・ステファノヴィッチ・リガロフ少尉よりお電話です。ただいまお繋ぎします……どうぞ』
マカールから?
珍しい。たまに実家に戻った時に会う程度だ。あいつは私を雲の上の存在だと思っているようだが、出来ればそんなに距離を取らず、もっとこう……兄弟なんだからフランクに接してくれてもいいのだが。
私はそんなに冷たい男に思われているのだろうかと不安になっていると、数秒のノイズの後に懐かしい弟の声が聞こえてきた。
『兄上、マカールです』
「ああ、どうした」
緊張を含んだ深刻そうな声。只事ではない―――声音だけでそう悟り、自然とこちらも声に緊張が滲む。
『ザリンツィクで流行中の赤化病、あれの発生源は工場の廃棄物などではありません。貴族です。人口の口減らしのために意図的に疫病を―――』
「待て、ザリンツィクはお前の管轄外だろう? 誰から聞いた?」
『ミカエルです。あいつは今ザリンツィクに』
ミカエル……ミカエルってまさか、あのミカエルか。
リガロフ家の三男であり、父上とメイドの間に生まれてしまった庶子。父上が”リガロフ家の恥部”として部屋に軟禁し続けた、存在しないはずの第五の子供。
屋敷に居た頃は特に興味を持つことも無かったし、接点は何もなかった。そういえば私は、彼の―――ミカエルの声どころか顔も知らない。会ったこともない。
話によるとリガロフ家の宝物庫を襲い、イリヤーの時計と金品を強奪して旅に出たと聞いていたが……。
「で、私にどうしろと? 言っておくが、法務官にいくら貴族の逮捕権限があるからとはいえ証拠も無しでは令状も出んぞ」
『ええ、それについてはミカエルが証拠を用意すると。無論、私は憲兵です。貴族の逮捕権限はありません……ですから兄上のお力を借りたいと思い、連絡した次第です』
「なるほど、わかった……だがこの件は出来れば綿密に話し合いたい。会えるか」
『ええ、構いません。予定は空けておきますので、兄上の都合の合う日で』
「では一週間後、ザリンツィクで」
『分かりました、ザリ―――は? ザリンツィク???』
狼狽するマカールの声。最近分かった事だが、マカールはからかうとリアクションが面白い。
しかしこれは冗談ではない、本当の事だ。
「そうだ。ミカエルとも直接会って話がしたい」
『ミカエルと……ですか?』
「ああ。こういった件は直接会って綿密に話を聞いた方が良い。それに、末っ子の顔も見ておきたい」
『は、はあ……まさかミカエルを逮捕する気じゃないでしょうね』
「まさか。証拠も出そろってないのにそんな事できるか。憲兵ともあろう者が、”疑わしきは罰せず”の原則を忘れたか?」
『い、いえ、そんなことは決して』
「では決まりだ。一週間後、ザリンツィクに向かう。移動用の飛竜はこっちで手配しておくから、お前はザリンツィクのホテルを予約しておけ。一泊二日、大人二人だ」
『分かりました』
「ああ、それと」
『はい』
一つ、私は皆に誤解されている事がある。
まあ、この法務官という仕事をやっている以上、相手に情をかけてはならないと肝に銘じている。だからなのか感情の起伏が乏しく、氷のような男だの、機械だの色々と言われているのだが……本当はそんな事はない。意外と冗談とかそういうのが好きな男だという事を知って欲しい。
ミカエルに興味を抱くことも無かったが、今は別だ。父の束縛を打ち破り、自由を手にした末っ子の顔も見ておきたい。姉上が言っていたことはどうやら本当だったようだ、私は彼を過小評価していた。
そういう反省も込めて、私は言った。
「―――何か、ミカエルが喜びそうな土産をいくつか教えてはくれないか?」




