マカール少尉の大勝負
平民には平民の苦労があるように、貴族には貴族の苦労というものがある。
彼らの立場はよく知っている。ミカエルほどではないが、俺もよく屋敷の外に出ては平民たちがどんな生活を送っているのか目にしてきたし、憲兵になってからもそういう現場に踏み込む機会が何度も訪れたものだから、現実がどんなものなのかは把握しているつもりだ。
低賃金に疫病の蔓延、明日を生きるための金すら手に入らない貧民たち。ボロボロのカビの生えたパンを齧り、泥水を啜って生きる彼らのためにも何とかしてやりたいものだと思うが、それができる権力者はといったら権力闘争や自らの力に溺れるばかりで動こうともしない。彼らの目線が下に向けられることは、きっとないのだろう。
その現実を目にする度に憤りを覚える。
そんな過酷な毎日を送り何とか生きている平民たちに申し訳なく思う一方で、貴族として生きる事にストレスも感じつつある。
いや、そりゃあ暮らし自体は贅沢な方だとは思う。給料は高いし食事にも困らないし、その気になれば実家の権力を使って気に入らない部下の首を比喩表現的にも物理的にも撥ね飛ばす事は出来る。やらないけど。マカール君は優しい男なのだ、紳士なのだよ。その辺ご理解のほどをよろしくお願いします。
ただ貴族ならではの苦労もある。
上に立つ者としての責任はドチャクソ重い。ダンベルみたいな重さがある。何かあればすぐに俺に責任が来るし、部下の失態も俺の責任。現場に向かった際には部下を守らなければならないし、上から通達された任務もしっかりと達成しなければならない。
そうじゃなくてもリガロフ家の当主はまあ、あんな人なのでその……うるさいのだ、色々と。やれ早く出世しろだの大貴族と結婚しろだの、とにかくうるさい。最近ではだいぶ大人しくなったけど、ミカの奴がやらかした(と思われる)リガロフ家強盗事件の直後なんかはもう酷かった。ミカエルを早く捕まえろと1時間に1回、酷い時なんか毎秒連絡を寄越す始末。え、どうやって毎秒連絡してくるのかって? シャラップ、マカール君は極度のストレスでそう感じてたんです。胃に穴が開くかと思いました。
というわけでまあ、貴族には主に権力とか責任がらみの苦労があるのだ。貴族だからって言って楽で豪華な生活をしていると思わないでいただきたい……少なくともマカール君はこの通りです。
オイ誰だ今「出世コース外れたんじゃね?」って言った奴。聴こえたぞ、マカール君の耳は地獄耳なんだよ分かったかコラ。
とはいえ、ミカエルがプレゼントしてくれた手柄のおかげで俺も昇進し今は憲兵隊の少尉、実働部隊の指揮を預かる立場に落ち着いた。兄上や姉上たちには出遅れたが、ここから巻き返しだ……とはいっても、冬場はそんなに現場での仕事はない。あったとしても火炎放射器を担いで除雪作業の手伝いをしたり、うっかり人里に紛れ込んだ魔物の討伐や撃退くらいのもの。大半はデスクワークで、部隊に割り当てられる予算のチェックだったり訓練の視察だったり、新人の教育だったりと大忙しだ。
基本的にノヴォシア人の冬はオフシーズン。というか、冬はマジで備えをしていないと死ねる。こんな時だろうとホイホイ外に出て行って仕事しているのは冒険者くらいのものである。アイツらおかしい、頭おかしい。なんでこんな-10℃とか当たり前に叩き出す冬に外出て行くのおかしいでしょ。
こういう時は温かい紅茶にジャムでも入れて楽しむに限る。マカール君は紅茶派だ。コーヒーは泥水……とまでは言わないが、僕は紅茶の方が好きです。
というわけで、ジャムをこれでもかというほどダバーッと入れ、それに砂糖をドバーッと入れた糖分EXの紅茶を口へと運び、雪の降り積もった窓の外を眺めながら一息入れる。ストレスが溜まる仕事だから、これくらいの不摂生は許されるはずだ。
口の中にいつまでもねっとりと残るしつこい甘み。これがたまらなく愛おしい……と束の間の休息を謳歌していると、副官のナターシャが黒電話をトレイの上に乗せて部屋に入ってきた。
「隊長、お電話です」
「誰からだ?」
「その、隊長の弟を名乗っております。ミカエル、と」
「!」
ミカエル?
受話器を受け取り、左手でティーカップを持ちながら右耳に受話器を押し当てた。
「マカールだ」
『もしもし、ミカエルです。お久しぶりですね兄上』
「久しいな。今どこだ?」
『ザリンツィクです』
「ザリンツィク……ずいぶん遠くに行ったな」
『ええ、ここはすごい。冬場でも工場が動いてて、熱気が常に感じられる。けれども時折キリウが懐かしくなりますよ』
「ははっ、らしくないな。リップサービスか? キリウにまともな思い出なんてないだろうに」
実際そうだろうな、とは思う。俺たち姉弟ですらそうだった。幼少の頃から両親、特に父親からの過剰な期待は凄まじく、我ながらあの圧力の中でよく心が折れなかったなと思う。兄上や姉上たちのように才能がなかった身としては猶更か。
俺ですらそうなのだ、最初から”居ない者”扱いされ、家族から疎まれていたミカエルにとってキリウは故郷というよりは”監獄”という言葉が似合う。けれどもアイツはもう自由だ、キリウに戻って来たい、実家が懐かしい……なんて感情を抱く事は、未来永劫ないだろう。
「で、俺に連絡を寄越したって事は……」
少なくともお兄ちゃんが恋しくて電話しました、なんて事ではないだろう。ミカエルの奴がそんな可愛げのある奴じゃないって事くらいは理解している。そりゃあ腹違いとはいえ血を分けた弟、兄弟としての情くらいは持ち合わせているし、アイツも話してみると礼儀正しい良い奴だが、その裏には何というか……どす黒い、とまではいかないが狂気じみたものを感じる。
いや、違う。他者にどれだけ圧力をかけられても決してブレる事のない芯、きっとそれを”信念”と呼ぶのだろう。
『―――ええ、兄上。デカい”ヤマ”に興味はありませんかな?』
「……詳しく」
悪いが席を外してくれ、とナターシャに目配せすると、彼女は黒電話の乗ったトレイをデスクの上に静かに置き、ぺこりと一礼してから執務室を出ていった。
誰も居なくなったキリウ憲兵隊本部の一室。盗み聞きされる恐れの無くなった空間で、ミカエルは淡々と、しかし衝撃的な内容を話し始める。
『最近、ザリンツィクで流行している疫病の件はご存じですかな?』
「赤化病だったか。感染すると身体中の毛細血管から出血して身体が赤く染まっていくっていう……」
『ええ、それです。その特効薬はちゃんと出回っているのですが、それを高額で転売する輩が居ましてね』
高額転売……確かに悪質な行為だが、さあザリンツィクに行って摘発祭りだ、とはいかない。当たり前だが憲兵隊にも管轄の地域があり、原則として管轄外の地域で活動するにはその地域を担当している憲兵隊に届け出て認可を受ける必要がある。
憲兵隊の入隊試験対策テキスト、その一番最初に書いてある基本中の基本である。どんな馬鹿な新人でもこれくらいは知っている。
そのくらいミカエルも知っている筈だ……というか、コイツは法の抜け穴を熟知している。そんな奴だからこそ、この程度の話で俺が動くとは思っていない筈だ。じゃあ何でこんな話を持ち掛けた? その意図はなんだ……?
「それで」
『赤化病の発生源、公式には工場からの廃棄物という事になっていますが……これには裏があります』
「おいおい、まさかとは思うが陰謀論に目覚めたわけじゃないだろうな? ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフともあろう者が……」
陰謀論者が好きそうなネタだ。頭の中身がスッカスカの、知能を全部母親の子宮に置き去りにしてきたような連中に限ってこういうネタに飛びつく。
が、ミカエルの声音に変化はなかった。暖房の効いた部屋の中にいるというのに、思わずゾッとしてしまうような事実を、彼は淡々と告げる。
『―――赤化病、あれはザリンツィクの大貴族が意図的に放った疫病です』
「―――」
頭の中が真っ白になった。
天井でぐるぐると回るファンの、微かな駆動音。耳を澄ましてやっと聞き取れるかどうか、普段では気にならないような小さな音がはっきりと聞こえてしまうほどの静寂の中、フリーズした頭の中がやっと再び回り始める。
今何と言った? 大貴族が?
「馬鹿な……いくら大貴族とはいえ、そんな事許されるはずが……」
『ええ、私もそう信じたかった。しかし帝国の腐敗はいよいよ深刻なレベルに達しつつあるようです。皇帝を頂点とした帝国も崩壊が近いようですな』
「待て、待て……もしそれが事実だったとして、何のためにそんな事を?」
『ノヴォシアの過酷な冬、それを乗り切るための食料がザリンツィクでは不足する恐れがある……という分析が今年の夏の段階から指摘されていました。そこで貴族たちは考えたのでしょう、”人口の口減らしが必要である”と』
堕ちるところまで堕ちたか、という憤りが噴き上がった。いくら貴族であっても、やっていい事と悪い事くらいはある。権力があるからと、下で苦しむ者たちを虐げて良い理由にはならない。むしろ貴族とは、その権力を以て彼らを守り、導く立場にある。それこそが貴族としての在り方、富めるが故の義務の原則だ。
それを、冬を乗り切るための口減らしに意図的に疫病を蔓延させるなど……正気の沙汰じゃない。
まるで悪魔だ。事実だとしたら、それを決行した大貴族たちには人の心が無い。権力とはそういうものなのか。ヒトとしての心すら奪っていくものなのか。人口の口減らし、その中で選定の結果”減らしても良い”と切り捨てられるのは、間違いなく低所得の労働者、そしてスラムに住む貧民たちだ。
「しかし……証拠はあるのか?」
『仲間がこの情報を得ました。とはいえ、手元にまだ証拠はありません』
「さすがに今の段階で憲兵は動かせんぞ」
『ええ、ですから証拠を何とかして入手しそちらに送ります』
「……ミカ、わかってるとは思うが相手は大貴族だ。管轄外の地域の大貴族を裁くとなれば、俺の……少尉の権限じゃあとても―――」
と、そこまで思い至ったところで、身内に強力な味方がいる事を思い出す。
確かに憲兵では権限にも限度がある。管轄外の大貴族を摘発するとなればその届け出は首都まで送付しなければならないが、その過程で圧力はかかるだろうし、下手をすれば俺も失脚に追い込まれかねない。大貴族にはそれだけの力がある。
だが―――そういう圧力を一切受け付けない、帝国の”法の番人”たちであれば?
「―――まさか」
『そのまさかです、兄上。長男を頼りましょう』
法務省。
憲兵隊の上位存在であり、遥かに強力な―――大貴族ですら摘発できるだけの強力な権限を持った、帝国の”法の番人”たち。
俺の兄、ジノヴィ・ステファノヴィッチ・リガロフはそこにいる。法務官補佐から法務官へ昇進、そこから実働部隊たる”執行部”へと進んだ男。長女アナスタシアと並ぶリガロフ家の至宝に協力を要請する事になるとは。
『証拠を入手したらそちらに送ります。兄上はそれを自分の調査という事にして、法務省へ提出してください』
「……なぜ俺を挟む? 法務省に直接問い合わせればいいじゃないか」
『兄上の手柄になりますし、実家を出た庶子の言葉より実績のあるやり手の弟の言葉を信じるでしょう。第一、私と兄上は一度も言葉を交わした事がない。下手をすれば、兄上は私の声すら聞いたことがない筈です』
それは確かにそうだ……姉弟の中で、ミカエルとちゃんと話した事があるのは俺と、次女のエカテリーナ姉さんだけ。長女アナスタシアと長男ジノヴィは完全に雲の上の存在で、下手をすればミカエルの声どころか顔すら知らない可能性だってある。
そんなほぼ赤の他人のミカエルが末っ子を名乗って問い合わせても、法務省は相手にしないだろう。それよりも法務省の下位組織に所属していて、実績もある俺の方が色々と融通は利く筈だ。
なるほど、そういう事か。
「……分かった、成果があったら連絡する。ただしミカエル、お前が”証拠の入手”にしくじったら俺も首が飛ぶ。お前に掛かってるんだからな」
『ええ、お任せを。誓って兄上の名に泥を塗るようなことは致しません』
「……気をつけてな」
『ええ、では』
ガチャ、と受話器を置き、息を吐いた。
やれやれ、ミカエルの奴め……久しぶりに声を聞けたと思いきや、なんとでっかいヤマを持ってきた事か。確かに大貴族の不正を摘発できればこっちは大手柄、上手くいけば部下と一緒にスピード昇進間違いなしだ。
しかし失敗すれば―――大貴族に濡れ衣を着せようとした不届き者だ。どんな処罰が下されるか、考えたくもない。
ああやだやだ、頼むよミカちゃん。
一発逆転の可能性があるギャンブルに、手持ちのチップを全部賭けたような心境だ。こりゃあしばらく安眠は出来そうにないなと思いながら、黒電話の受話器を再び手に取りダイヤルを回す。
無論、番号は法務省のものだ。
『―――はい、キリウ法務省』
「キリウ憲兵隊のマカール・ステファノヴィッチ・リガロフ少尉であります。申し訳ありませんが、兄上を……ジノヴィ・ステファノヴィッチ・リガロフを出してはもらえませんか」




