決別の時
ミカエル「ハクビシンって臆病な性格なんだよね」
シェリル「↑どの辺が???」
モニカ「ゾンビズメイに真っ向から戦いを挑んだ人に言われても説得力無いわよ」
ミカエル「ぴえ」
※ハクビシンは基本的に臆病で大人しい性格ですが、外敵に対しては非常に攻撃的になります。特に野生の個体は非常に危険なので、可愛いからと言って近づかないよう注意しましょう。ミカエル君との約束だ!
小皿に乗ったジャムの塊をスプーンで掬い取り、ティーカップの中へと放り込んで優しくかき混ぜる。
湯気を発する熱々の紅茶の中でジャムが解けていく様を見下ろしながら、アナスタシアは口元に小さな笑みを浮かべた。
彼女の推進するイライナ独立計画は順調に進んでいる―――イライナ国内から政敵を排除する事にも成功、他の貴族たちとの協力体制も構築したし、海外からの支援も取りつけた。今のところ計画に綻びは無く、盤石の態勢を敷いていると言っても過言ではない。
が、現状とは常に変化するものだ。いつまでも胡坐をかいて油断していれば、そのうち大きなどんでん返しを目にする事になる。
そうならないためにも常に最新の情報へとアップデートし、変化する国際情勢を注視して然るべきだ。国の舵取りをするとは、つまりそういう意味だろう。
「ヴォロディミル」
「はい」
傍らに立つ副官―――そして夫でもあるヴォロディミルに声を掛け、スプーンを小皿の上に置いた。
「午後の予定は何だったか」
「14時からルカ君の訓練がありますね。それと16時からはノンナ様のバレエのレッスン、18時からはイリノフ家主催の晩餐会が」
「ん、ありがとう」
アナスタシアの1日はとにかく多忙極まりない。
軍事、経済、貴族間の連携構築―――あらゆる分野に影響を及ぼしている以上、彼女が管理しなければならないリソースは兎にも角にも膨大だ。1日が48時間あっても足りはしないのだが、今日はまだそれほど忙しくない方だろう。
のちのキリウ大公となるノンナの教育に、護衛官を目指すルカの訓練もアナスタシアの仕事だ。ノンナにはイライナ公国の顔として諸外国に誇れる象徴となってもらうため、そしてルカにはそんな彼女の守り手として1日でも早く一人前になってもらう必要がある。
「そういえば、ベリアノフ家は”例の法案”の賛成に回ったか?」
「……例の法案?」
「貴族の結婚に関するアレだ」
「ああ、賛成に回って下さったそうです。根強い交渉が功を奏しましたね」
「……そうだな」
ティーカップを白い指で持ち上げ、僅かに口に含んだ。
ジャムの風味と甘酸っぱさが、イーランドから輸入した高級茶葉(原産地は”バーラト王国”だそうである)と程よくマッチし、そこにウルファ産の高級ハチミツまでブレンドされた最高の一杯。適度な甘さと茶葉の渋みが、疲れ果てた体の隅々にまで行き渡るような感覚を覚えておきながら、しかしアナスタシアの心は晴れない。
きっと疲れているのだろうな、と思いつつ、アナスタシアは机の引き出しの鍵を開けた。
「ヴォロディミル」
「なんです」
「―――貴様、誰か」
信頼する副官や、最愛の夫に向けるとは思えないほど冷たい、それこそシベリウスの猛吹雪ですら春のそよ風に感じてしまうほどゾッとする声。
その一言に、ヴォロディミルの動きが止まった。
「……いきなり何を言い出すのです?」
「副官の優秀さならこの私が一番よく知っている。質問には意を汲んで的確に答え、指示された仕事は着実にこなす。私が副官に求めるのはそう言った”当たり前の事を当たり前に実行する”スキルだ」
引き出しの中から小型リボルバー拳銃を取り出して、アナスタシアは紅い瞳をヴォロディミルへ……夫の姿をした”何者か”へと向けた。
「分かるか、大根役者。愛しの夫は私の質問に質問を返すような事は決してしない。それに―――」
カチ、と小型拳銃の撃鉄を親指で起こし、シリンダーを撃発位置まで回転させながら、アナスタシアは言い放つ。
「―――私の夫はな、2人きりの時に限って私を”ハニー”と呼ぶのだ」
「―――」
その一言に、ヴォロディミルは―――夫の姿をした何者かは目を見開いた。
リサーチが不足していた。アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァはどこまでも厳格で冷徹な女傑であり、いくら愛しているとはいえ夫と2人きりの場所に限りそのような呼び方をするなど、そんな事分かる筈がない。
秘密とは、それを共有する人物が増えれば増えるほど漏れやすくなるというのが道理だ。しかし密室で、2人だけの空間で、互いに愛を誓い合った生涯の伴侶と交わした秘密であればその限りではない。
しくじった―――そう判断した夫の姿をした暗殺者が袖の中に仕込んだ投げナイフを投擲しようとするよりも先に、小型リボルバーが火を吹いた。
黒色火薬で撃ち出された1発の11mm弾が、今まさにナイフを投げ放とうとしていた暗殺者の眉間をこれ以上ないほど正確に撃ち抜く。富裕層の婦人が暴漢などから身を護る事を目的として設計された小型リボルバーとはいえ、その威力は軍用のそれと比較して大差ない。
大柄な獣人男性を一撃で絶命に追いやる程、その一撃は獰猛であり過ぎた。
美しいバラには、往々にして鋭い棘があるものである。
(……まあ、嘘なんだが)
鎌をかけただけでこれだ―――相手の程度が知れるというものである。
眉間を撃ち抜かれてどさりと倒れる暗殺者。その銃声を聞きつけたのか、どたどたという足音と共にドアが乱暴に開けられ、向こうから執事やメイドたちを引き連れた本物のヴォロディミルが顔を出した。
しかし彼は声を張り上げる事など無く、冷静に部屋の中に倒れ伏す自分に瓜二つの死体と、そんな部屋の中で悠然と紅茶を啜る妻の姿、そして机の上の小型リボルバーを見て何が起きたのかを察する。
「……お怪我は?」
「ない」
だろうな、とヴォロディミルは思う。
あまり声を大きくして言えぬ事だが、アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァという女は現時点で7回、帝国の放った暗殺者に命を狙われている。
そしてその全てを事前に察知した上で、護衛もつけず自力で返り討ちにしている―――彼女はそういう女だ。命を狙われていると知るや護衛もつけず、相手の殺意を真っ向から粉砕してしまうような、豪快極まりない女である。
決して”他人に守られる”ような女ではない。むしろ、アナスタシアという強すぎる女にヴォロディミルたちが守られるように思えてならず、認識が幾度もバグりそうになる。
だからこそ、そんなにも強い上に大志を抱いているからこそ、彼女に惹かれ皆がこうしてその背中を追っているわけであるのだが。
「すまないが死体の片付けを。それが住んだら使用人各員は現状の職務を直ちに中止、宿舎に戻り自室で待機するように。事態が落ち着くまで一切の外出を禁ずる」
「警備兵はいかがいたします?」
「警備兵もだ。無用な犠牲は出したくない」
「了解しました」
一礼し命令を承服するや、アイコンタクトで執事に死体を片付けるよう命じるヴォロディミル。黒い手袋をはめた数名の執事たちが死体を担ぎ上げ、同じく手袋をした数名のメイドたちが室内の血痕の掃除を始める。
空になったティーカップを傍らに置き、アナスタシアは腕を組んだ。
―――これで暗殺されかけるのは8回目。
犯人が誰なのかは、もう分かっている。
「……戦闘人形の巡回を増やしましょうか」
「いや、アレは高い。不必要に財布を圧迫したくはない」
「では」
「―――”客人”は私がもてなそう。ルカとノンナ様には午後の予定は全てキャンセルである旨を伝えて、お前も下がれ」
「……分かりました」
最愛の夫だ。
教会で愛を誓い合い、唇を奪わせたただ1人の男だ。
そんな男を、こんなつまらぬ事で巻き込みたくない。
死体の片付けを終えた使用人たちが誰も居なくなり、再び部屋に2人きりになるヴォロディミルとアナスタシア。
誰もいない事を確認してから、ヴォロディミルは口を開く。
「……アナ」
おそらくこの屋敷に……いや、世界にただ1人だけだろう。
アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァという女を”アナ”という愛称で呼ぶことができる男は。
普通の男にそんな呼び方をされればすかさず右の拳が飛ぶアナスタシアだが、しかしこの男―――ヴォロディミルだけは別だ。
「くれぐれも無理だけはしないように」
「フッ……分かってるよ」
妻と口づけを交わし、ヴォロディミルも部屋を後にした。
本来、侵入者の迎撃は警備兵たちの仕事だ。屋敷で雇っている警備兵は冒険者上がりの者や騎士団を退団、アナスタシアがヘッドハンティングしてきた腕利きの兵士ばかりである。
そんな彼らだからこそ、こんな事で損害を出したくない。
冷淡な女帝のように思える彼女の振る舞いにも、慈愛があった。
使用人や警備兵たちを巻き込みたくない、失いたくないという慈愛が。
なんだこりゃ、という言葉を、ネロは辛うじて呑み込んだ。
”教祖様”の自室、かつては下水道内のメンテナンス作業を行う業者たちの休憩室だった場所は、しかし今となっては血の臭いに塗れた惨劇の現場となっている。
床の上に倒れ伏すのは3名の暗殺者と、幹部のマリク。いずれも鋭い刃物のようなもので喉を大きく切り裂かれており、満足な抵抗も出来ずに事切れた事が窺い知れる。
下水の悪臭を相殺するために炊かれていたお香の香りも、しかしそれよりはるかに濃密な血の臭いに侵されて、巨釜から立ち昇る煙も、そしてその発生源たる火のついた香木も、もはや何の意味も成しておらず、単なるオブジェと化している。
「……!」
そしてその部屋の中央。
敷布と無数のロウソクが立てられたその上に胡坐をかく形で瞑想していた筈の人物もまた、彼らと同じ運命を辿った事が分かる。
小柄で、一見すると少女のようにも思えてしまうほど中性的な容姿の人物―――されどそれが”可憐”などという言葉とは程遠い位置にある事は、その身に纏う貫禄と威圧感が証明している。
喉を切り裂かれ、物言わぬ死体となったとしてもだ。
「教祖様!」
瞑想するような体勢で絶命している”教祖様”―――ハサン・サッバーフに駆け寄るや、ネロはその小さく儚い身体を大きく揺すった。
身体はまだ微かに温もりを宿していたが、しかし常人のそれと比較すれば十分に冷たい。数分前までは生きていたという証拠も、しかし今まさに消えようとしている。
誰がやったのかは考えるまでも無かった。
―――大佐だ。
この暗殺教団において、教祖たるハサン・サッバーフに次ぐ実力者。実働部隊の中では最も手強く、他を圧倒する力を持っていながら、それでいて教団とは常に距離を取り続けた男。
どこかからふらりと現れ、前任のナンバー2を瞬殺して今の地位に落ち着いた異邦人―――そのような出自であるから、教団内でも彼を危険因子と見做す事は珍しくなかった。
あくまでも正体不明の敵、テンプル騎士団の情報を得るために、世界各地に諜報の網を張り巡らせていた暗殺教団に接近したに過ぎない。暗殺教団と大佐の関係は、情報を提供する見返りに資金調達を行うという、教団の理念が極めて希薄なビジネスライクな関係でしかなかったのである。
だからいずれこうなるであろう事は分かっていた。
何度も言った事だ、とネロは胸中で悪態をついた。
あの男、大佐は危険であると。
あの男は教団に利益をもたらしはするが、しかし利用価値がなくなったと見るや教団を離れるであろう、と。
もっと早い段階で手を打つべきではなかったか―――後手に回ってしまった対応を非難しつつも教祖たるハサン・サッバーフの身体を支えていたネロは、ハサンの小さな身体が再び脈打つのを確かに感じた。
ドクン、と脈打つ心臓―――死の瞬間から静止した時間が再び動き出す。
動き出した心臓が身体中に熱い血を送り出し始めるや、ハサンの身体に変化が生じた。
大きく切り裂かれた喉元の傷―――それがまるで時間を巻き戻しているかのように蠢き、凄まじい速さで塞がり始めたのである。裂けた肉が繋がり合い、血管が再結合して、その表面を肌が覆い尽くしていく。
ぎょろり、と翡翠色の瞳が見開かれた。
死者の魂が、あるべき場所からこの世へ連れ戻された瞬間だった。
(これが……700年生きた本当の”不老不死”……!)
ネロもハサンの身体再生を見るのは初めてだった。
ハサン・サッバーフ―――生年月日、出身地などは一切不明。
分かっている事はこの暗殺教団を立ち上げた暗殺者である事、歴史の転換点においてその裏に彼の暗躍があった事。
そして少なくとも、現時点で700年は生きている事。
「そうか……」
起き上がるや、床に血反吐を吐き捨てニヤリと笑うハサン。
スナネコの愛嬌のある姿からは想像もつかない獰猛な笑みを浮かべる教祖に、ネロは恐怖を抱く。
暗殺教団の700年にわたる永い歴史の中、教祖に反旗を翻したのはただ1人。
パヴェル・タクヤノヴィッチ・リキノフ―――速河力也という異邦人だけだ。
「それがお前の答えなんだな、大佐」
元より飼い慣らせる相手ではなかった。
いずれこうなる運命であった事は、最初から決まっていたのだ。




