雪原の遥か彼方より
残骸シャーロット「すみませんでした」
ブチギレギーナ「素直でよろしい」
かつて、ノヴォシアはイライナを併合した。
戦端を一方的に開いたのはノヴォシアであった。東方の大モーゴル帝国の支配から解き放たれて100年、キリウ大公による統治も安定しこれから独自の歴史を築いていこうと新たなスタートを切り、それが軌道に乗り始めた時の事だった。
『モーゴル帝国に奪われた領土回復と、イライナの分離主義者を駆逐する』―――そんな大義名分を掲げ、ノヴォシア帝国騎士団の大部隊が東部リュハンシク州に雪崩れ込み、烈火の如くイライナ全土を制圧し強引な併合を宣言したというのは、全てのイライナ人の脳裏に屈辱の歴史として刻まれている。
イライナ独立と帝国への叛乱を抑え込むため、ノヴォシアはあの手この手で同化政策を推し進めた。
イライナ語の廃止と標準ノヴォシア語学習の義務化、イライナ公国軍の軍歌の歌唱、歌詞の閲覧の禁止。イライナ人たちのアイデンティティーを徹底して否定しつつも、重工業化の促進のための投資やインフラ整備などの飴も与えた。
しかし屈辱に燃えるイライナ人たちは、祖先の記憶を脈々と受け継いでいたのだ。
そして今では平然とイライナ語を話し、イライナの裏を歌い、ついには帝国最高議会をあからさまに無視して自分たちの議会を意思決定機関と位置付け、勝手に領主を選任する暴挙にまで出たのである。
イライナ独立問題を巡る一連の話題は、全て皇帝カリーナにとっては頭痛の種だった。
「……」
溜息をつきながらティーカップを口へと運ぶ。
ウルファ産の最高グレードのハチミツを配合し、甘く仕上げたノヴォシアスタイルの紅茶。平民では口にする事すらできぬ贅沢な一杯でも、しかし今の皇帝カリーナの心の靄を晴らすには至らない。
(なんと面倒な)
執務室の壁にあるノヴォシアの地図―――その西部に位置するイライナの部分に視線を向けた。
ノヴォシアとイライナ、2つの地域の接合点にリュハンシク州は存在する。リュハンシクはノヴォシアとイライナを結ぶ交易の玄関口であり、そして同時に侵攻する際には必ず押さえなければならない要衝だ。あそこを制圧できればイライナ国内に葉脈の如く伸びる鉄道網をほぼそのまま流用することができ、侵略戦争において優位に立つことができるのである。
そのリュハンシクに―――よりにもよって、新たな領主としてミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフという最大の脅威が就任するとは何の冗談か。
彼女の活躍は聞いている。テンプル騎士団の攻撃を幾度も退け、ついにはあの団長セシリアとの戦いにすらも勝利してしまった正真正銘の危険因子。よもや没落貴族の庶子として生まれた忌み子が、帝国の統治の基盤を揺るがす危険因子になろうとは一体誰が想像できただろうか。
はぁ、と息を吐いた。
既に帝国最高議会に名を連ねる一部の大貴族たちからは『迅速にイライナを侵略すべし』という声が挙がっている。これ以上イライナを、そしてイライナ人を束ねるリガロフ家の増長を防ぐためにもここで『分離主義者の駆逐』を名目に侵攻し、皇帝によるイライナ統治を確固たるものとしてしまえ、というのである。
だがしかし、今ここで軍を動かす事は憚られる。
もう一つの悩みの種―――帝国内部で活動を活発化させている、ヴラジーミル・レーニン率いる共産主義者の存在である。
もし帝国がイライナ鎮圧のために軍を動かせば、無防備になった横腹へ共産主義者が食らい付いてくるのは必定。そうなればただでさえ疲弊著しい帝国は、イライナと共産主義者、国内外に抱えた2つの敵勢力との二正面作戦を余儀なくされてしまう。
経済はボロボロで、食料自給率も落ち込み失業率は急増した帝国。テンプル騎士団には『病人』とまで揶揄されている帝国に、イライナと共産主義者を同時に相手にする体力はない。
無論、共産主義者を先に鎮圧しようものならばイライナはここぞとばかりに独立を宣言するだろう。今の彼女らにはキリウ大公の血脈に連なるノンナという少女が居る。世界に対し、独立の正当性を主張するには十分すぎる。そうなってしまえば独立という大義のために立ち上がるイライナと、それを武力で抑え込もうとするノヴォシアという構図が世界に向けて発信されてしまうというわけだ。
独立を試みる正義と、鎮圧を試みる悪。もちろん帝国は後者となってしまう。
仮に二正面作戦を成し遂げる軍事力があったとしても、だ。
ここに来て、アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァという女の嫌らしい性格が表れてくる。
イライナ侵攻の際、必ず最初に攻め落とさなければならないリュハンシク州、州都リュハンシク。
マズコフ・ラ・ドヌーから出撃するであろう軍隊の前に立ちはだかるように聳え立つリュハンシク城、その城主として君臨するのが、あのミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフなのである。
イライナ救国の大英雄、イリヤーを祖先に持ち、自身も祖先と並ぶ偉業を打ち立てた”現役の英雄”。そして雷獣の異名付き冒険者でもある。その知名度は相当なもので、イライナ国内だけでなく、ノヴォシアや諸外国にもその名が知れ渡っているほどだ。
ついにはテンプル騎士団まで退けた英雄の子孫がリュハンシクを守っている事は、既に騎士団の将兵に知れ渡っている。指揮官たちの話では、前線で戦うであろう兵士たちの士気は既に著しく低下しており、リュハンシクを攻めよと命じれば脱走する兵士が続出する可能性は高いという。
当然だ―――誰も好き好んで、歴史に名を残した英雄の子孫が守る要衝に攻め込もうとする兵卒などいない。
あそこに住まうのは矮小な害獣などではない。
縄張りへ侵入した外敵を喰らう、飢えたる猛獣である。
「……ラスプーチン」
「お傍に」
音もなく、唐突に部屋の中に生じた男の気配。
停滞した執務室の中に空気の流れが微かに生まれるや、どこからともなく現れた長身痩躯の男―――祈祷僧ラスプーチンが、皇帝カリーナの顔を覗き込みながらにっこりと笑みを浮かべた。
「転生者とやらの首尾はどうか」
「ダメみたいですね」
さらりと言うラスプーチンに、皇帝カリーナは顔をしかめる。
「全滅です。話になりません」
「なんだと?」
「ミカエルの手下……というか、我々を裏切ったシャーロットに殺されるか、ミカエルの説得に応じてしまい寝返るか。今のところ2つに1つです」
「貴様、話が違うではないか」
当初の話では、人知を超えた能力―――ラスプーチンが言うところによると”チート能力”と呼ばれる力を持った転生者たちであれば、ミカエルの討伐は容易いものである、という事だった。
元より転生者は身寄りのない者たちだ。ノヴォシアの正規軍ではなく、あくまでも正体不明の武装集団として処理できるから、政治的にも帝国の関与が疑われた場合は白を切ることができる。
悪く言えば鉄砲玉、トカゲの尻尾だ。
強く、それでいて使い捨てられる兵隊である―――それがラスプーチンの謳っていた転生者の利点であった筈だ。
それが全く役に立たないとはどういう事か。
「陛下、こればかりは計算外でございます」
「なに?」
「ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフはもはや単なる害獣ではない……最大の脅威として見るべきです。我々の団長ですら、あの庶子を止められなかった」
「どうすればいいのだ……これ以上、どうすれば……」
「ご安心を、次の計画が既に動いています」
その言葉と共に―――ラスプーチンは、口元を三日月のように歪ませた。
1889年 11月4日 17:29
イライナ地方 リュハンシク州 州都リュハンシク
リュハンシク城
なんと便利なものか、とつくづく思う。
現在の気温は-29℃。ウシャンカをかぶり、手袋を三重にし、何枚も重ね着してもなお身体が凍り付くかのような寒さの中、リュハンシク城の城壁外周では炎が迸っている。
ソ連製火炎放射器”LPO-50”を装備し、背中に燃料と酸素の入ったタンクを背負った機械の兵士―――戦闘人形たちの隊列だ。彼らが一斉に行う火炎放射によって降り積もった雪は瞬く間に溶け、雪の下に埋もれた凍てついた地面が顔を出している。
こうして雪を排除するのは通行の障害になる以外にも、スノーワームの温床となるのを防ぐ意味合いもあるのだ。
とはいえこれが毎日、降雪量によっては一日に数回となればかなりの重労働となる。かといって一度でも怠れば積雪の重みに耐えきれず家屋が倒壊したり、そうでなくとも雪に紛れ込んだスノーワームが繁殖して大事になるため、除雪作業は最優先で行わなければならない。
それは軍事拠点であるリュハンシク城も例外ではない。リュハンシクを守るべき城塞がスノーワームによって全滅しました、なんて事になったら笑い話が歴史に残ってしまう。
「PXG-2202」
「はい、大佐」
傍らにいた戦闘人形の個体識別番号を呼ぶと、隣で火炎放射器搭載型のドローンを操縦して除雪作業を行っていたオペレーターが声に応じた。
テンプル騎士団が運用していた戦闘人形は”黒騎士”とも呼ばれ、非人間的な形状から相手を威圧する心理的効果を期待したものであると推察されるが、こちらで運用される戦闘人形はまた求められる性能が違ってくる。
領土防衛の戦力、守備隊の中核として運用する都合上、非戦闘員と接する事も多い。そこで徒に領民を威圧するような事は避けたい、というのがミカの本音だろう。
だからそれを避けるため、リュハンシク城の地下工廠で大量生産されている戦闘人形たちは徹底して人間に近い姿でロールアウトしている。内部構造はテンプル騎士団式のものと変わらないが、表面に人間の表皮を模したシリコン製の人工皮膚をかぶせる事で人間に近い姿を獲得しており、本当に注意深く見てみなければそれが人工的なものであると見抜くのは難しい。
まあそれでも、近場で見れば見分けはつくのだが。
「除雪作業の進捗、今のところどのくらいだ?」
「進捗は76.3%といったところです」
「もう一息だな」
「はい」
受け答えはしっかりとしている。
だが、どうも機械的なところが見られる。特に”命令された事しかしない”、”予めインプットした命令しか実行できない”という点がそう思える要因だろう。人間のように『自発的に考え行動する』というのが、まだこの機械の兵士たちには難しいらしい(まあそれも普通の人間にもなかなか難しいところであるのだが)。
風向きが変わった。
一瞬だけ混じる血の臭い―――錯覚か、と思いつつ腰に提げた双眼鏡を覗き込んだ。左手でダイヤルを回し、暗視モードとサーマルモードからマジックモード(魔力を可視化する第三のモードだ)に切り替え雪原の向こうを凝視する。
―――何かが来る。
サーマルに切り替えた途端、俺は息を呑んだ。
そこには大小さまざまな熱源が、うっすらとではあるが映っていたのである。
人間ではない―――人間にしちゃあ大き過ぎる。
この世界のどこに身長3mオーバーの人間がいるというのか。あのセロですら2m強だったのだ、それ以上大きいとなったらいよいよデカ女という領域を踏み越え、化け物の領域に片足を突っ込んでいると自覚するべきだ。
オーク……小さい方はゴブリンだろうか。
「作業班を下がらせろ。全員に戦闘配置を伝達、射程に入り次第発砲を許可する」
「しかし領主様の命令なしに戦闘行動は―――」
「責任は俺が取る、やれ」
「了解しました」
「それと武器庫から俺のAKを」
「はっ」
参ったね……。
よりにもよってミカが会議で不在の間に、魔物の大群が大挙して押し寄せてくるとは……!
同時刻
州都リュハンシク市内 州立議事堂
《―――本法案は満場一致で可決となりました》
議事堂を埋め尽くす拍手の大喝采。
法案の審議で賛成票を投じてくれた貴族たちに手を振り、頭を下げ、全力で感謝の意を表する。
この州議会で議論されていたのは、以前から姉上に根回ししていた”義務教育制度に関する法案”。イライナ国内の識字率の低さを克服し、より祖国を高みへと導く嚆矢として期待されていたようで、満場一致での可決となった。
まあ、最も反対派の意見もしっかり聞いたうえで法案に盛り込んだので、彼らも納得してくれた点が大きかったかもしれない。
当初は『最低限の読み書きと計算、一般常識さえ身に付けばよい』という意見が大多数を占め2年課程が主流となっていたが、識字率が高いうえに学力も相応であればより困難な仕事を割り当てる事も可能となり、軍での教育課程の短縮によるコストカットも期待できるという点を強くアピール。更に教育専門家の意見も反映した結果、奇しくも日本と同じく6年課程という事になった。
今のところは初等教育のみだが、将来的には中等教育や高等教育も充実させていきたいところである。俺が生きているうちにこの国はどこまで上り詰めるのか、今からが楽しみだ。
さて、議論の過程で貴族用の学校と平民用の学校を分けるか統合するかでも揉めたのだが、ここは分ける事で一応の決着を見た。一緒にしたらしたで身分から来る差別やトラブルが続出するのは目に見えていたからだ。
ただし将来的にはこの枠組みも撤廃しようとは思っている。まあ、その頃には貴族も形だけの存在となり今のような身分制度もなくなっているのが前提であるが。
他には施行後1年毎にデータを基にして法案の見直しを図る、という付帯決議もおまけとして付けておいたので、まあ毎年この法案の議論が繰り返される事になる……まあ、多くの意見を盛り込んでより良いものにしていけたらなと思うし、こっちの世界の人に義務教育の大切さを知ってもらう良い機会になったと思う。
今後、リュハンシクでの実施状況を見てこの取り組みがイライナ全土へ波及していく事だろう。そうなればもうこっちのもの、識字率も右肩上がりで上がっていくはずだ。
予算を大目に割り振ってくれた姉上には感謝を申し上げたい。
進行役の貴族に呼ばれ、議事堂の壇上へと上がった。拍手で出迎えてくれる貴族たちに手を挙げて応じながら、マイクの前に立……とうとしたが身長が足りないので、クラリスが踏み台を持ってきてくれた。
ありがと、と小声で礼を言ってからマイクの前に立ち一礼。賛成票を投じてくれた貴族たちに感謝の意を述べる。
「えー、この義務教育法案に賛成票を投じてくれた紳士淑女の皆様、この場を借りてお礼申し上げます。ご存じの通り、イライナでは識字率の低さが各界で頭痛の種となっております。成長し、立派な働き手となった若者でも、自分の名前すら書けないという者は決して珍しくはないのです。簡単な読み書きや計算、それだけではなく国家の在り方、世界の在り方も義務教育を通して学び、より高い解像度と広い視野で世界を俯瞰し、ゆくゆくは―――」
スピーチの途中で、駆け寄ってきたシェリルが俺に耳打ちした。
議場の貴族たちに小さなざわめきが立つ。いったい何事か―――そんな声が聴こえたが、俺にしたってシェリルからの報告は寝耳に水だ。こんな事、誰が想像しただろうか。
後方でスマホを取り出し、アプリを起動するシェリル。彼女のスマホから光が溢れたかと思いきや、議場の頭上、多くの貴族たちから見える位置に立体映像が投影され―――リュハンシク城の城壁へと押し寄せてくる魔物たちの姿がこれ見よがしに映し出される。
貴族たちは息を呑んだ。
それはまさに災禍の津波―――見えるだけでもオーク80体以上、ゴブリンに至っては数えるのも億劫になるレベルの数でリュハンシク城へと押し寄せている。
「な、なんだあの数は」
「ノヴォシア側からだ……一体何が?」
「帝国め、魔物をけしかけてきたか!」
「静粛に」
唐突な報告にざわめき、あるいは帝国への怨嗟の声を漏らす貴族たちを制する。
映像が切り替わった。
城壁の上で武装した兵士たちが、魔物たちに銃撃を加えている。機関銃やアサルトライフルが火を吹き、迫撃砲による砲撃までもが始まった。
そして城壁の内側では、戦車部隊の出撃準備が始まりつつある。
武装ドローンも離陸し、反撃が始まろうとしているところだった。
勝利を確信しつつ、俺は貴族たちに告げる。
「―――我らの祖国を侵させはしない!」
ブチギレギーナ「 次 は 貴 女 で す 」
ガクブルシェリル「ヒッ」
レギーナ被害者一同「 我 々 は 貴 女 で す 」




