擬態
暗い、暗い、闇だけがそこにあった。
自分が今、どんな体勢なのかも分からない闇の中。まるで身体が溶け、闇と一体化してしまったかのよう。
けれどもそれが決して自由を得たわけではない、という事はすぐに分かった。脳が機能を取り戻し、意識が鮮明になっていくにつれて、両腕が動かない事と、手首が何かでぎっちりと押さえつけられている感覚がしっかりと感じられるようになったからだ。
「っ……ここは?」
暗闇に目が慣れてきたのか、うっすらとではあるけれど闇の中が見通せるようになり始める。暖房もなく冷たい空間。壁際にはいったい中に何が入っているのかも分からぬ木箱が乱雑に積み上げられていて、ここの主の余裕の無さを暗示しているようだった。木箱を整理している暇すらない―――余裕を失ってしまうほど追い詰められているように、私には思えた。
コツ、コツ、と迫ってくる足音。音の聞こえてくる方を振り向くと、そこにはクマのような体格の男性が立っていた。がっちりとした体格に見えてしまうのは、おそらく身に纏う衣服のせいだろう。ノヴォシアの厳しい冬を乗り切るため、コートも必然的に分厚い生地のものにならざるを得ない。だから冬服になった途端に随分とボリュームが増すわけだけど、仮にそれを身に着けていなかったとしても、がっちりとした体格であることに変わりはないだろう。
戦うために鍛え上げられた男性の身体だ。
暗闇から姿を現したのは、騎士団で正式採用されている冬季用のコートに身を包んだボリス司令官だった。暗いせいではっきりとした表情は見えないけれど、目が合った途端にぞくりとしてしまうような何かがそこには宿っていた。
怒気を発しているだとか、殺気を纏っているとか、そういうわけではない。”虚無”だ。何もない。ヒトとして纏う何かが―――こんな表現で合っているかは分からないけれど、まるで魂が抜けているかのような、そんな感じがする。
そう、ヒトのような雰囲気がないのだ。作り物、とでも言うべきだろうか。どれだけ精巧に作られていても人形が人間になる事が無いように、暗闇の中からこちらを見据えるボリス司令官にもそのような雰囲気が感じられる。精巧で、限りなくヒトに近くて、されどヒトではないかのような、そんな無機質な感じが漂っている。
何の表情も浮かべないボリス司令官。しかし、私が更にぞくりとしたのはそんな無機質な雰囲気を放つ彼だけが原因ではなかった。
彼よりもだいぶ軽い足音と共に、もう一つの人影が現れる。
原因は、その”もう一つの人影”だった。
「……え?」
―――私だった。
このアルカンバヤ村にあるエレナ教会で、避難してきた人々に英霊エレナの教えを説く黒い修道服に身を包んだ金髪のシスター。
そう、私―――イルゼ・シュタイナーだった。
「どう……して……?」
ボリス司令官と同じく、作り物のような無表情でゆっくりと傍らにやって来る”もう1人の私”。
まったく意味が分からなかった。ここに居るもう1人の私は一体なんなのか。そもそも私はどうして捕らわれているのか。ここはどこなのか?
「ボリス司令、どういうことです?」
「……シスター・イルゼ、今までご苦労だった」
ゾッとするほど表情のこもっていない、無機質な声。ヒトの声にある温かみの感じられない、まるで機械が人間の声を真似しているかのような声音が頭の中を凍り付かせる。
ボリス司令官の手が、そっと腰に伸びた。腰の鞘に収まっているサーベル―――シャシュカの柄を掴み、それを鞘の中から引き抜く。
暗闇の中、闇色に染まった刀身が鈍い色を放った。
「これでもう、君は用済みだ」
「わけが分かりません……司令、冗談はやめてください!」
制止を試みながら両腕に力を込めるけれど、私の手首を縛っている縄は外れそうになかった。両手だけではなく、両足も縛られているようで、立って逃げる事も許されない。こうして足掻きながら床の上に寝転がり、迫りくる危機を受け入れる事しか私にはできなかった。
ぎらりと鈍い光を放つシャシュカの刀身が迫る。どれだけやめて、と言ってもボリス司令官は止まらない。
どうして。
いったい、どうして私が殺されなければならないのか。
司令官に恨みを買ったとか、そういう覚えはない。私はこの村で、ずっとできる事を続けてきた。それだけなのだ。
なのに、どうして。
「どうして……どうして……?」
コツ、コツ、と迫る足音。
ああ、もう駄目だ―――どうして殺されなければならないのか、その理由も知ることなく私は死ぬというのか。
魔物と戦って死ぬというのであれば、まだ受け入れようもある。それが運命だというのなら仕方がない、と諦める事も出来よう。けれども仲間だと思っていた筈の彼に、何の前触れもなくこんな理不尽な最期を迫られれば、納得など出来ようはずもない。
神よ、私に死ねと仰るのですか?
ここが私の死に場所なのですか?
今まで抱いていた信仰心に疑問を抱きそうになった、次の瞬間だった。
バンッ、と扉を蹴破る音が部屋の中に響き、外の光が僅かに差し込んだ。やがて真っ白な、月明かりにしてはあまりにも眩しすぎる光が闇を切り裂き、こちらへと向けられる。
誰かが助けに来てくれた―――それを理解できたのは、闇の中に”彼女”の声が響いてからだった。
「―――シスター・イルゼ!!」
いつからだろうか、雪が大嫌いになったのは。
小さい頃ははしゃいでいたものだ。これで雪合戦ができるだの、かまくらを作れるだの、ソリで遊べるだのと喜んでいたあの頃を思い出す。雪が降り始めるのは、転生前の幼少期ミカエル君にとってはイベントにも等しい事だった。
それが社会人になってから―――というより中学校に上がって自転車通学をするようになってから、冬はクソだと痛感するようになった。自転車はスリップするので使用禁止だと、ふざけんな。こちとら学校から家までなんぼ離れてると思ってるのか。都会と違って地方の通学は距離があるから大変なんだぞコラ。わかってんのかコラ。
そういう事もあって雪は嫌いだったが、今ばかりは積雪に感謝したい一心だった。外に降り積もった雪、それに刻まれた足跡がシスター・イルゼの”行き先”を教えてくれたのだ。
アルカンバヤ村の中にある倉庫。前までは食料や日用品の保管庫に使っていたそうだが、今では倉庫内の備蓄を使い果たし、何もない空間と化しているそれ。シスター・イルゼを連れ去った犯人の行き先はそこだった。
MP17のフォアグリップ前方に搭載したライトが、容赦なく闇の中を照らし出す。
暗闇の中に潜んでいたのは手足を縛られているシスター・イルゼと、片手にシャシュカを持ち今まさに彼女を殺さんとしているボリス司令官、そして―――いや、コレ見間違いとかでなければ、もう1人のシスター・イルゼ。
これはどういうことか?
生き別れの双子の姉or妹なのか、それともそっくりさんか。
「シスター・イルゼ!」
「ミカエルさん……!?」
「……」
ゆっくりと、ボリス司令官がこっちを振り向く。シャシュカを握る右手……ではなく、空いている左手が腰のピストルが収まるホルスターへ伸びたのを見て、俺は咄嗟にMP17の引き金を引いた。
ズダンッ、とピストルカービンのスライドが後退、9mmパラベラム弾の灼熱の薬莢が踊る。キンッ、と軽い金属音が去り行く銃声の中でアクセントと化し、残響と共に消えていった。
銃弾が穿ったのはボリス司令……ではなく、その爪先数センチ先の床だった。我ながら狙ってこんな事が出来るようになっているのは驚きだが、これも多分ストックで銃をしっかり固定できている恩恵だろう。普通の拳銃じゃあこんな芸当はまだ俺にはできない。
サプレッサーを外し、代わりにコンペンセイターを装着していたのも正解だった。きっと今の銃声を聞きつけ、クラリスやモニカも駆けつけてくれるはずだ。
「―――次は当てます。武器を捨てて床に伏せてください、司令」
味方を撃たせるな―――その思いを込めながら銃口を向け、ボリス司令官に告げる。正直言って未だに人を殺す覚悟は出来ていないが、足を撃つなりして無力化して取り押さえればいい、という考えでいる。
緊張で心臓がバクバクと高鳴る中、やっぱりあれは見間違えじゃなかったのではないか、という確信が芽吹きつつあった。あの日の夜、麻袋を担いで出て行ったボリス司令官らしき人影。そしてスノーワームの餌にされた麻袋の中身もまた、ボリス司令官。
ケガした時に見えた質感の違う血、麻袋の中身、そして今目の前にいる、シスター・イルゼを殺そうとしているボリス司令官。やっぱり見間違いじゃない。あの時から全て繋がっていたのだ。
銃を向けられているというのに、全く動じる気配の無いボリス司令官。百戦錬磨の騎士だからこの程度の脅しには動じない―――というわけでは、ないらしい。
意に介していないというより、感情の無い機械に話しかけているような、そんな感じがした。どれだけパソコンやスマホに向かって脅しても、人間のように感情のこもった返事が返ってくるわけではない。
それと同じだ。異質なのだ。
脅しを意に介さず、ボリス司令官はピストルのグリップを掴んだ。80口径のイライナ・マスケット、それを切り詰めたフリントロック式ピストルがホルスターから完全に顔を出すよりも先に、赦せ、という祈りを込めて引き金を引く。
ダンッ、と9mm弾が駆け抜け、狙い通りに―――ドットサイトのレティクルの向こうにある、ボリス司令官の左足を正確に撃ち抜いた。
膝の付け根の部分だ。空手をやっていた経験談から言わせてもらうと、ローキックを貰うとなかなか効く部位でもある。
がくん、とボリス司令官の体勢が崩れ、傷口から例の半透明の紅い液体―――安っぽい塗料を思わせる、人間の血とは質感の違う液体が溢れ出た。
警告を無視したからだ―――お前が悪いのだ、と思いながら唇を噛み締めるが、レティクルの向こうでは更に信じられない光景が始まりつつあった。
足を撃たれ、普通の人間であればその痛みに悶絶して動けなくなるというのに―――被弾したボリス司令官は表情を全く崩さず、ピストルの銃口を床に縛られているシスター・イルゼの方へと向けようとしていたのだ。
「!?」
転生前に見たSF映画のサイボーグ、あるいはロボットを思い起こさせた。機械には痛みがない。感情がない。自我がない。殺されるという恐怖がない。だから人間では絶対にやらないような事も真顔でやってのける。頭の中のメモリに記憶された、プログラムの導きによって。
もう一発喰らいたいのか、と銃口を向ける。同時にイリヤーの時計に時間停止を命じ、制止した世界の中で狙いを定める。
が、どこに?
足は撃った。次は腕か? 腕を撃ったところで止まるのか? 殺さなければイルゼは助からないのではないか?
そんな疑念が溢れ、答えを鈍らせる。そうしている間にせっかくの時間停止が切れてしまい、世界が再び思い出したかのように動き出す。
しまった―――最後のチャンスを逃してしまった。
ヒュンッ、と頭の脇を一発の弾丸が掠める。編集をミスった動画でも見ているかのように、ほんのわずかに遅れた銃声が聞こえたと思った頃には、その一発の弾丸―――7.62×51mmNATO弾はピストルを握るボリス司令官の肘を直撃、そこから先を盛大に捥ぎ取ってみせた。
バギンッ、とまるで金属が破断するかのような硬質な音。ごとんっ、と床の上に落ちた腕の断面からは例の紅い血が溢れるが、そこから覗く断面にあったのは、人間には絶対に持ち得ぬ者ばかりだった。
骨は真っ黒で、金属のような質感を放っている。一緒に腕の中に詰まっているのは肉ではなく、化学繊維を思わせる質感のものだった。人工筋肉なのだろうか? 他にもケーブルのようなゴムの被覆に覆われた銅線も覗いている。
ロボット……?
「ご主人様、お覚悟を」
後ろからやってきたのは、G3A3を構え、いつもよりも鋭い視線を向けるクラリス。モニカも駆けつけてくれたようで、腰だめに構えたHK21Eの銃口をボリス司令へと向けている。
「”あれ”はヒトではないようです」
「らしいな」
なるほど、分かってきたぞ。
あまり考えたくないし知りたくもなかったが―――あの時、麻袋に詰め込まれ、スノーワームの餌にされたボリス司令官が”本物の”ボリス司令官だったのだ。そして今目の前にいるボリス司令官は、彼に擬態した”偽物”。そういう事だろう。
ならば彼の傍らに控えているシスター・イルゼらしきもう1人の人物の存在にも説明がつく。今から本物のシスター・イルゼを殺し、彼女に成り代わるところだったに違いない。
いずれにせよ―――ヒトではなく、そんなことをするような相手ならば、こっちも手加減をする必要はないらしい。
徹底的にやらせてもらおう。




