ノンナの想い
列車は現在、ラガトフを通過中―――そんなアナウンスがスピーカーから聴こえてきた。
車窓にちらつくのはラガトフの夜景だ。どう、と一瞬その美しい風景が、列車の揺れと共に何かに遮られる。下り方面の線路を通過していった別の列車だ。やたらと車内の照明がギラギラしていたので、多分貴族向けの特急列車だったのだろう。
再び車窓の向こうに映った夜景を、どこか遠い目で見つめるノンナ。そんな彼女を心配する俺の視線に気付いたのだろう、ノンナはこっちを振り向くや笑みを浮かべたが、俺には分かる。あの笑みは作り笑いだ―――自分の混乱を、そして本心を覆い隠そうとする笑み。仲間を心配させまいとする健気さに、痛々しさすら覚えた。
「ノンナ」
「なあに、お兄ちゃん」
「……お前、本当にこれでいいのか」
彼女の本心がどうなのかは分からない。けれども、今の妹が―――ノンナが、突きつけられた事実を受け入れられているとは到底思えなかった。
確かにノンナは芯が強くてしっかりした子だ。俺が守らなきゃ、しっかりしなきゃと思う事はあったけれど、結果として逆に彼女に守られてしまった事もあったと思う。
けれども、そんな彼女でもいきなりパヴェルから告げられた事実を受け止められているとは言い難い。
だからつい、踏み込んだ質問をしてしまった。お前はそれでいいのか、このままでいいのか、と。
するとノンナは首を縦に振った。
「言ったでしょ? お城に住めるし、お姫様になれるって。正直ね、ちょっと憧れてたの。綺麗なドレスを着て、騎士を何人も従えたお姫様に」
「嘘だ」
「え」
―――何年、彼女と一緒にいたと思う?
14年―――ノンナのこれまでの人生の分だけ、俺は彼女と一緒にいた。冬のスラムに捨てられていた彼女を拾い、安い日雇い賃金で高価な粉ミルクを買い、あるいは盗みを働いて、食事を我慢するような苦難の中で彼女を何とか育てた。
この小さな命の灯火を吹き消すような事をしてはならないと、この子だけは死なせてはならないと、何故かそう強く思ったからだ。
ミルクが離乳食になって、二本の足で立って歩けるようになった姿も、同じ言葉を喋れるようになった時の事もよく覚えている。最初に発した言葉は「にーにー」だったか―――当時は俺も幼かったから、何言ってるんだろうなこの子はと思って笑ってたけれど、今思うと感慨深い。
血の繋がりはなくとも、家族と言えるほどの固い絆で結ばれている―――だから分かるのだ、俺には。
嘘をついている時、ノンナはあんな風にケモミミの内側が赤くなるのだ。
俺も人の事は言えないけれど、ノンナは嘘をつくのが巧いタイプではない。どうしてもどこかで顔や態度に出てしまい、鋭い奴には見抜かれてしまうような単純さがある。
今のノンナのケモミミは、うっすらと桜色に染まりつつあった。
「ノンナ……正直になれ、なんて俺は言わない。自分がやりたい通りにすればいい」
「お兄ちゃん……?」
「でもな……一緒に育った兄ちゃんの前でだけは、本心を話してほしい。本当はどう思ってるのか、お前の想いを聞かせてほしい。そうじゃなきゃ俺……お姫様になったお前に、どんな顔で会いに行けばいいのか分からなくなっちゃうよ」
本心からキリウ大公として国を治める存在になりたいというのなら、俺は止めはしない。むしろ彼女を守る騎士として、これからも変わらず妹を守る存在であり続けたいと思うし、綺麗なドレス姿の妹を微笑みながら見守りたいと思う。
けれどもそれが、本心を押し殺したうえでの決断だったならばどうすればいいのだろうか。
彼女に合わせて作り笑顔を浮かべておけばいいのだろうか。俺もまた本心を殺して、騎士の真似事をすればいいのだろうか。
できない事はない、やれと言うのであればやってやる。だが、そんな事をいつまでも続けていればきっと―――いつの日か、自分の本心が分からなくなってしまう。本音と建前の境界線が曖昧になって、自分の意思がどこかに溶けてなくなってしまうのではないかという恐怖がそこにはある。
だから本心を教えてほしい。
それは自分の心が望んでいる事なのか、それとも偽りか。
ノンナは少しだけ目を瞑ると、口元に浮かべていた作り笑いをやめた。
「―――本当はね、もっとみんなと旅をしたかった」
「……そう、か」
「うん。だって楽しかったもん、皆でご飯食べたり訓練したり、色んなところに行ったり……まあ、時々危ない事もあったけど、でも今じゃあそれすらも立派な思い出だもの」
「じゃあ、お前はどうしたい?」
旅を続けたい、キリウ大公になんかなりたくない―――もしそうノンナが願うのであれば、俺は兄としてベストを尽くすつもりでいる。
場合によっては、『ノンナを連れて逃げる』という選択肢も真面目に検討しているところだ。当然、そんな事をすれば一緒に旅をしてきた血盟旅団の皆を裏切る事になってしまうし、本当に最悪の場合は―――ミカ姉とも一戦交えることになるかもしれない。
そんな事はしたくない。仲間たちと戦うなんて、そんな事だけは絶対に。
けれどもノンナを、彼女の心を守るためだったら俺は―――そんな悲壮な決意を見透かしてか、ノンナは首を横に振った。
「でも継ぐわ、私。キリウ大公を」
「……だってそれは」
お前の本心じゃないじゃあないか―――そんな言葉を発する前に、ノンナは首を縦に振る。
「そう、私の本心じゃない。でもね、お兄ちゃん。ここで私のわがままを優先してしまったら、まだ赤ん坊だった私を命懸けで逃がしてくれたお母さんの期待と願いを裏切る事になる」
ハッとした。
元より、ノンナに他の選択肢など無かったのだと。
彼女はキリウ大公の子孫、血族最後の生き残り―――追手から逃れるため、ノンナの母親は一縷の望みを託してまだ幼かった彼女をザリンツィクのスラムに隠し、追手に捕らえられた。
あの時―――今思えばあの時、赤子だったノンナを覆っていた毛布の仕立てがやけに上質だったのも納得がいく。
文字通り彼女は、一族と母親の犠牲の上に生かされている命。
ノンナが本心で何を望んでいようと、最初からそんなものは関係ない。
ここで自分の都合を優先するという事は、彼女を生かし、イライナ再興を遥か未来に託して抑圧の下に死んでいったキリウ大公の血族たちを裏切り、その犠牲を踏み躙る事になる。
死んでいった一族の願いに背を向け、果たして自由を謳歌することはできるのか―――まともな神経を持っている人間なら、そんな事など到底できっこない。
「だから私、キリウ大公になる。キリウ大公になって、死んでいった皆の遺志を継ぐ」
「呪いだよ、こんなの」
「呪いでも何でもいい」
きっぱりとノンナは言い切った。
そこで俺は気付いた―――今のノンナの目つきは、いつもの歳相応の少女のそれではないということに。
真っ直ぐだった。目の前に立ち塞がる全てのものを射抜いて、望むものだけを見据えるような、恐ろしいほどに真っ直ぐな目をしていた。
ああ、あの目―――覚えがある。腹を括り、覚悟を決め、迷いを全て棄てた人間だけができる目。今思えばミカ姉も、強敵との戦いに赴く時はこんな目をしていたと今になって思い出す。
やっと実感した。
ノンナも、子供から大人に成長しようとしているのだ、と。
本心を押し殺し、使命を全うせんとする大人に。
もう、我儘を言う歳でもないのかもしれない。
いつまでも子供なのは俺の方だったか―――そう思うとちょっとだけ笑えてきた。
「お母さんやみんなの犠牲に背を背けてまで、私は自由を求めはしない。そんな残酷な事、私にはできない。だから……」
「……そうか、うん」
ぽん、と妹の頭の上にそっと手を置いた。
「お兄ちゃん?」
「立派だよ、お前……俺なんかよりもずっと大人だ」
「……」
「けれど、ね。そんなに急いで大人にならなくたっていい。それに大人だって、たまには我儘を言っても良いんだ。俺はノンナの選択を尊重するけれど、たまには自分の本心を剥き出しにしても良いんじゃないかな」
あまり急いで大人になっても、きっと良い事なんて無いだろうから。
静かに妹の頭を撫でていると、ノンナは車窓から差し込む月明かりを浴びながら、やっと本当の笑みを浮かべた。
「うん、ありがとうお兄ちゃん。私、お兄ちゃんの言葉忘れないから」
「ああ」
未来の事は、誰にも分からない。
けれども、もしキリウ大公になったとしても、決して自分の本心を見失わないでほしい。
自分の本音を声高に叫ぶことができるうちは、きっと自分が自分で在り続けていられるという証拠なのだから。
日の光が去り、次の夜がやってくる。
ヴォルガ川の威容は遥か後方。そろそろマズコフ・ラ・ドヌーの街が見えてくる頃だろうか―――そこを越えていけばもうイライナに辿り着く。
旅の終着点は近い。さすがにテンプル騎士団の連中も、イライナ地方までは追ってこない筈だ。
火砲車にあるヤタハーン砲塔のハッチを開け、身を乗り出した。砲手用ハッチには防盾とセットでブローニングM2重機関銃が据え付けられており、防盾の切り欠き越しには星空が見えた。暗黒の海原に広がる光の世界―――しかしそれは決して手の届かぬ場所にあって、遥か昔から人類を見下ろし続けている。
ヒトの手が、あの光に届く日はやってくるのだろうか。そんな事を考えながら外の警戒を終え、砲塔内に引っ込みながらハッチを閉じた。
「なあシャーロット」
《なんだい》
火砲車には120mm滑腔砲を搭載したヤタハーン(※ウクライナのオプロート戦車の輸出仕様、トルコ向け)砲塔が2基、自動装填装置込みで搭載されている。アングルとしてはそれぞれ前後に砲塔を向けた状態で背中合わせに搭載されており、それぞれ砲手1名で運用することが可能となっている。
機関車側の砲塔を第一砲塔、最後尾車両側の砲塔を第二砲塔と呼称していた。
警戒任務のローテーションで第一砲塔に割り当てられたのは俺で、第二砲塔にはシャーロットがいる。何だか最近この2人で組むことが多いのだが気のせいだろうか。
第二砲塔の制御室と繋がっている伝声管に向かって、前から思っていた事を告げた。
「お前、さ……もしかしてだけど例の思考を読む能力、封印してたりする?」
《どうしてそう思うのさ》
「いや、前に戦ってた時に思い切り思考してたんだけど反応が無かったからおかしいなって」
前々から思っていた事だ。
シャーロットには相手の思考を読む能力がある。どうやらそれはONとOFFの切り替えができないようで、周囲の人間の思考は絶えずシャーロットの頭の中へと送信されてしまう仕組みになっているようだった。おかげで彼女はいらない情報、聞きたくもない他人の本音を構わず受信してしまう状態となっており、かなーり苦労したらしい。
確かにそうだ、SNSとかでそういう感じの経験をした事はある―――聞きたくもない話題、遠ざけたい話題が自分のSNSに表示されるだけでストレスになったものだ。一応はミュート設定とかできたからそれほど苦ではなかったけれど、シャーロットの場合はSNSと違ってブロックもミュートもできない。
その苦痛、推し量るには察するに余りある。
まあ、それを逆手に取って彼女の思考を攪乱したりとこっちもやりたい放題だったのだが。
《―――ああ、枷にしかならないから捨てた……というか、遮蔽したよ》
「遮蔽?」
《色々と自分の脳を実験台に使ってね、やっとONとOFFの切り替えができるようになったというわけさ》
「自分の脳を実験台に? だいぶイカれてるな」
《クックックッ、折れた腕で人を殴ってくるキミに言われても説得力がないねェ》
「それは耳が痛い話だ」
はっはっは、と笑いながら、しかし違和感に気付いた。
先ほどまで頭上に広がっていた星空―――その中に一ヵ所だけ、歪んで見える場所があったのである。
目の錯覚だろうか。まるでブラックホールが周囲の光すら捻じ曲げているかのように、星空の一角に奇妙な歪みが生じていて……。
次の瞬間、その歪んだ星空の一角を中心点に、空間が裂けた。
まるで傷口を押し広げるように広がった、血のように紅い空間の裂け目。それを押し退けるようにしながら、真っ赤な異次元空間から漆黒の舳先が突き出てくる。
バチバチと紅いスパークを纏いながら姿を現したのは、さながら空を泳ぐ巨大なクジラのようなフォルムをした巨大な飛行物体―――あの時戦った、テンプル騎士団の空中戦艦だった。
目測で全長500mにも達する巨大飛行物体が、何も無い空間から出現する―――物理法則を鼻で笑うかの如き超常現象に圧倒されながらも、俺は無線機に向かって叫んでいた。
「て、敵襲! 敵艦直上!!」




