悪魔の目にも……
レギーナ「ねえミカ? ウチの管理局に来た冒険者の子があなたのえっちなイラストが描かれた薄い本を持ってたんだけどあれ何?」
ミカエル「なんて?」
すうすうと、小さな寝息が聞こえてくる。
最愛の妻に似た、しかし生まれ落ちてまだ3年とも経たぬ小さな生命。闇のような黒髪と、その中から伸びるまだまだ未成熟なキメラの角は、紛れもなく自分たちの仔である証だった。
自分たちの遺伝子を受け継いだ仔。自分たちの未来。
いっぱい走って、いっぱい笑って、いっぱい遊んで疲れたのだろう。まだ3時だというのにソファの上に横になって、そのまま母親のハミングに包まれて眠ってしまった愛娘にそっと毛布をかけてあげると、小さな手が俺の手を握った。
本能的な行動なのか、それとも単なる偶然か。
もう既に血も通わず、人肌の温もりも感じられなくなった機械の腕。こんなにも冷たく人間らしさのかけらもない手を、”シズル”と命名された愛娘はぎゅっと握ったまま、放してくれる様子もなく眠り続ける。
参ったな、とソファに腰かけて愛娘の頭を撫でていると、妻のサクヤが紅茶を持ってきてくれた。
やはりシズルはお母さんに似たのだろう。髪の色も、目つきもお母さんにそっくりだ。いや、むしろそれでよかったのかもしれない。こんな人相の悪い父親に似てしまったら、それこそ学校で友達が出来なかったりとか、あまり好ましくない要素が山盛りだ。
『あら、シズルったら』
『参ったなこりゃ、放してくれそうにない』
『ふふふっ。パパのことが大好きなのよ、この子』
そう言いながら隣に腰を下ろし、紅茶を飲み始めるサクヤ。
以前はどこか冷徹で、仕事以外に興味のない淡々とした女というイメージのあった彼女も、今となっては既に1人の母親だ。愛娘を見つめる翡翠色の瞳は、これから成長していくであろう小さな命を見守る慈愛に満ちている。
この子に待っているのは、きっと希望と可能性に満ちた未来だ。生みの親としては、我が子にはそうであってほしいと願う他ない。だからこそ身体を張れるし、頑張ろうと思える。
もちろん最愛の妻のためにも、だ。
『ほら、あなた最近家になかなか帰って来ないじゃない?』
『ああ……それは仕方ないよ、任務で……』
この前は北方諸国ノーンウェイへ、その前は新たな支部の視察と兵士の教練のためにジャングオへ。それ以外にもたくさん、それこそ公式記録に残せないような汚れ仕事もこなしていたから、なかなか家に帰ってくる時間がなかった。
それも仕方のない事だ―――もう1人の妻がテンプル騎士団団長として権力を固め始めたのは最近の話。息の掛かった議員を使ってテンプル騎士団の権力強化に必要な法案を次々に通し、腹心である俺を使って反対派や左翼系のメディア関係者を脅迫、それでも従わない者は適切に処理してきた。今朝も2ブロック先の工業用水路にメディア関係者の遺体が浮かんでいたそうだ……最近この手の事故が多いので気を付けたいものである。特に夜道には。
そこまでして権力強化に躍起になるのも無理はない。忌むべき敵、『ナチス・ヴァルツ第三帝国』が再軍備宣言を発令、急激に軍備拡張を始めたためである。
せっかく第一次世界大戦が終わり、束の間の平穏を謳歌していたというのに……国際情勢は今、”戦後”というよりは”戦前”と例えるべき状態に突入しつつある。
民主主義国家として皆の意見を聞いていたのでは埒が明かない、というのがセシリアの判断だった。ナチスの総統に就任した”勇者”と呼ばれる転生者を―――俺たちから全てを奪った復讐すべき敵を今度こそ討ち果たすためにも、万全の状態で挑む必要があった。
だからセシリアは言っていた―――『大義のためならば血の河を渡る覚悟はある』と。
世界情勢がそんな状態なのだ。こうして家に戻り、愛娘の遊び相手になったり、遊園地に連れて行ったり、愛娘が幼稚園に行っている間に妻と一緒にソファに座って安物のスナック菓子をパクつきながら一昔前の映画を見たり……そんなゆったりした時間を過ごせるだけ、幸運なのである。
そっと左手を彼女の肩に回して、サクヤを抱き寄せた。
ちょっとびっくりする素振りを見せながらも、サクヤは俺の導くがままに身体を預けてくる。花の香りにも似た甘い匂いが、ふわりと部屋の中を舞った。
『ねえ、あなた』
『ん』
『私ね、今とっても幸せなの。素敵な旦那さんも出来たし、この子も生めたし』
『それはよかった』
『ちょっと前までこんな事考えられなかったわ。本当にあなたのおかげよ。ありがとう』
『はははっ、俺も幸せだよサクヤ。こっちこそありがとう』
『うん。これからもずっと、この子の父親でいてあげてね……』
これからの話をされると、いつも胸が締め付けられる気分になる。
俺の命は、そう長くはない―――きっとこの子が、シズルが大人になるその日を前に、俺はこの世を去るだろう。
分かっているのだ―――身体の強引な機械化と、本来適合する事のないキメラの細胞の強制移植。元々ボロボロだった身体は既に悲鳴を上げていて、限界へと至るタイムリミットは刻一刻と迫っている。
こうして最愛の妻や愛娘と、一緒に過ごしていられるのはいつまでだろうか―――そんな死だけが待つ未来を思い浮かべながら、今日も俺は嘘をつく。
愛してるよ、ずっと一緒に居ようね……いつか置き去りにしてしまうであろう女に、泣かせてしまうであろう最愛の妻に、今日も嘘をつく。
それがたまらなく辛くて、けれども今日を思い切り生きようと、残った短い命を燃やし尽くそうと奮起するものだ。
俺は今を生きているのだから。
顔を赤らめ、そっと唇を近づけてくるサクヤ。彼女の求めに応じて、俺は妻の唇を奪った。
最愛の女の温もりは、日曜日の日差しの中へと溶けていった。
「……そう、か」
ウォッカの酒瓶を呷り、息を吐きながら目を閉じた。
―――覚悟はしていた。
サクヤも―――彼女もハヤカワ家の血脈に名を連ねる1人の女であり、戦士だ。復讐のために戦に身を投じたからには、いつかは命の炎が消える瞬間がやってくると……そう思っていた。
愛娘をテロで失い、心を壊してしまったサクヤの人生が、安らかなものであったとは考え難い。ましてや必ず帰ると約束した夫まで戦死という形で失ったとあっては、向こうの世界に残してしまったサクヤがどんな心境で最期を遂げたのか―――想像するだけで胸が張り裂けそうになる。
サクヤの死―――シェリルは全てを話してくれた。
俺に機械の身体をくれた科学者、テンプル騎士団の誇る『フィオナ博士』の叛逆。
いつの間にか機械人間にすり替えられ、最終的にセシリアの手で最期を迎えたサクヤ。
祖国クレイデリアに押し寄せる無数の無人兵器。
市民の盾になり、次々に戦死していくテンプル騎士団の兵士たち。
シェリルの口から語られた戦死者の中には、知った名がいくつもあった―――特戦軍創設の立役者で最高司令官だったウラル上級大将、長年一緒に戦ってきたホムンクルス兵の相棒ジェイコブ、俺の持てる技術の全てを教え込んだ部下のキール。
ウラルは俺が最期の戦いに出撃した直後、戦場を離脱する戦艦ネイリンゲンの機関室で、原子炉からの放射能漏れを防ぐべく命を懸けて修理し、機関室から戻って来なかった。
ジェイコブは無人兵器の群れとの戦いで、陣頭指揮を執りつつ味方を鼓舞して戦い、最期は部下を庇って戦死。
キールは市民が退避する時間を稼ぐため、そして自分の息子を守るために無人兵器の群れに戦いを挑み、最期は自爆するという壮絶な最期を遂げた。
みんな、俺の知っている奴らばかりだった。
ある時は気に入らない上司だと思いつつもなんだかんだ親父のように慕っていたウラル。
苦楽を共にし、同じく家庭を持った父親として上手くやっていた親友のジェイコブ。
訓練兵の頃から面倒を見ていて、ついには俺たちと肩を並べて戦うまでに至ったキール。
どいつもこいつも―――大馬鹿野郎だ。
何でそんなに死にたがるのかね……俺も人の事は言えないが、みんなそうだ。戦場に魅入られ過ぎている。死に見初められ過ぎている。
サクヤもそうだ―――辛い過去を乗り越え、やっと掴み取った幸せを奪われて……なぜ、いつもそうなのだろうか。奪われて、奪われて、それでもめげずに立ち上がって、必死に戦った。それなのにまだ俺たちから、全てを奪おうとするのか。
そんな残酷な運命が、俺は許せない。
「……サクヤは、苦しんで死んだのか」
「……同志団長の話では、”笑いながら死んでいった”と」
「―――そうか」
ウォッカの酒瓶の中身を一気に飲み干し、口元を強引に拭い去った。
笑いながら、か。
きっとそれは、彼女なりのささやかな復讐だったのだろう。
残酷な運命を幾度にもわたって強いた現実への、せめてもの一矢。
自分は絶望しながら死んでなどやらない、救われたような笑みと共に死んでやるという強かな意思を、その話からは感じ取っていた。
無論、思い残す事はあっただろう。悔しかった筈だ、辛かった筈だ。愛娘を失い、心を壊され、夫も戦死した上に実は自分は本物のサクヤではなく、機械人間にすり替えられた偽物だった―――彼女があまりにも可哀想じゃあないか。
瞼が震え、じわりと目元に熱い雫が浮かんだのが分かった。けれども俺が戦死した頃にはまだガキだったような連中の前で、涙を流すのは自分のプライドが許さない。息を吐き、呼吸を整え、何とか堪えながら頭を掻いて誤魔化す。
ミカも言っていたが、やはり別れというのは辛いものだ―――再会の見込みがない死別ともなれば猶更で、だからこそヒトは強く在ろうとするのだろう。自分も死んだ後、向こうに行ってから胸を張れるように。どうだ、俺はあそこまでやったぞ、生き抜いてやったぞと先立った連中に言ってやるために。
「……もう一つ、聞きたい」
「なんです」
「……お前たちの団長、セシリア。彼女に何があった?」
「それは……」
もう一つの本題だ。
セシリア―――サクヤの妹で、彼女と同時に結ばれた最愛の妻。
彼女は全ての兵士の苦難を知っている。テンプル騎士団が祖国を失い、最も苦しかった時期を経験している。兵士と共に泥水を啜り、その辺の草を食べ、毎晩のように悪夢にうなされる毎日を乗り越えてきた女だ。常人ならば発狂しているような日々を経験しているからこそ、そんな地獄を兵士たちと共に歩んできたからこそ、彼女は戦場で戦う兵士たちを何よりも重んじる。
たとえ兵卒の1人であろうと見捨てず、同志たちの死を悼み涙を流すような、一見すると冷徹な独裁者でありながらも慈愛に満ちた指導者、それが俺の知るセシリア・ハヤカワという女である。
どうあっても、信じられずにいる―――兵士の命を重んじる彼女が、兵卒ですら見捨てないような女が、友軍諸共敵を殲滅せよとトチ狂ったような命令を下すはずがないと。
”魔王”とまで呼ばれた彼女でも、しかしその一線を踏み越えるような事はなかった。
けれどもつい最近戦ったテンプル騎士団は、その一線を軽々と踏み越えた。
―――あれは何者だ?
偽物なのか、それとも彼女の考えを根本から変えてしまうような”何か”があったのか。
「……フィオナ博士の叛逆の後、同志団長は手足を失ってしまい、自宅で療養中の筈でした」
「組織に対する指示は全て、副団長代理だった同志シルヴィアが団長からの命令を中継する形で出していたと聞いています」
セシリアが手足を失った、という話を聞いた瞬間に、頭の中にある風景がフラッシュバックした。
対消滅爆弾を満載した人工衛星を地上に落下させ、自分諸共フィオナ博士をこの世から消滅させようとしたセシリア。死に急ごうとする彼女を背負い、爆発の及ばぬ遠くまで歩いて連れていく―――そんな奇妙な夢を見た事が、一度だけある。
もしかしてあれは夢ではなかったのではないか―――そんな事を考えている間にも、シェリルは言葉を紡いでいく。
「その辺りからです、組織が急激に軍縮へと動き始めたのは」
「……軍縮?」
軍拡ではなく?
「はい、軍縮です」
「ボクもおかしいと思いました。あれだけ軍拡を推し進めていた人がいきなり……」
「しかし同志ボグダンにスカウトされ、連れて行かれた先に待っていたのは紛れもなく同志団長だったんです」
「……セシリアは手足を失って自宅療養中ではなかったか」
「そう聞いていました。ですがそこに居た同志団長は間違いなく五体満足で、以前に見た時と何も変わらないお姿だったんです」
……一体何があった?
セシリアには再生能力がある。が、手足を失い再生できなくなったという事は、おそらく能力の”上限”に達したという事だろう。そうなってしまうまで、文字通り力を使い果たしてしまうほど苛酷な戦いだったという事だ。
戦いで傷つき、二度と武器も手にできぬ身体になり、自宅で療養中だったセシリア。しかし何があったのか、五体満足で姿を現し、再び武器を手に取り異世界で戦い始めた―――その真意は何だ?
「すみません、私たちが知っているのはここまでです」
「……わかった。話してくれてありがとう」
今夜はゆっくり休めよ、と言い残して、俺は2人の部屋を去った。
勢いのままにウォッカを呷ったせいなのだろう、いつもより酒の酔いが回るのが早かった。廊下を歩く足元は覚束かず、何度か窓に肩をぶつけ、階段から転がり落ちそうになりながらも1階の自室へ。
椅子に座り、テーブルの下からウォッカの酒瓶を3つくらい引っ張り出す。
コルク栓を開けるなり、酒瓶を思い切り煽った。喉を、食堂を、胸を焼く高濃度のアルコールの感触。視界がぼんやりと歪み、頬を熱い雫が零れ落ち、ウォッカの味にしょっぱいアクセントが混じり込む。
それでも酒を飲むのだけは止められなかった。身体が渇望しているかのように、空になった酒瓶をゆかに転がして2本目のコルク栓を強引に開ける。
シェリルの話を聞いて、けれども現実を受け止め切れていない自分が居た。
覚悟はしていた―――けれどもいざ妻が死んだと、仲間たちが死んでいったと言われると、その現実をなかなか直視できない。それを認め、本当の事なのだ、もう仲間たちや妻はこの世に居ないのだという事実を呑み下してしまったらどうにかなってしまいそうで、だから本能的にアルコールに逃げるという選択肢を選んでいた。
ふと、視界の端に家族で撮った写真が過る。
生まれたばかりのシズルを抱き上げる俺と、病室のベッドで横になりながら温和な笑みを浮かべるサクヤ。そしてそんな俺たちを微笑んで見守るセシリア。
もう二度と戻らぬ、幸せだった日々。
バラバラに引き裂かれ、もう再会すら叶わぬ家族たち。
引き出しの中からショットグラスを引っ張り出し、その中にウォッカをなみなみと注いで、静かに写真立ての前に置いた。
サクヤもセシリアも酒に弱かっただろうけれど、今の俺にできる事はこの程度が精一杯だった。
その日の夜、久しぶりに泣いた。
声を押し殺しながら、酒瓶片手に泣いた。
涙なんて、とっくに枯れたものと思っていた。
けれども―――機械の身体になっても、涙は止まらなかった。
悪魔の目にも涙




