生贄
「さて、それじゃあ対価を頂こうかしら?」
すっ、とソファから立ち上がるサキュバス。気のせいか、その黄金の瞳が獲物を喰らおうとする大蛇のように思えて、それを真っ直ぐに見上げながら息を呑む。
悪魔とは常に対価を要求してくるものだ―――それは常に過大なもので、悪魔に助力を乞うた人間を破滅に導くきっかけとなる。例えば母親に対し「その子を寄越せ」と言ってきたり、陸上選手から足を奪ったり……いずれも悪魔の助力で願いを叶えても、その後に支払う対価で破滅へと至る。
だから教会の多くは悪魔召喚を禁忌としているのだ。
そしてそれは悪魔よりも上位の存在、人間界においても平然と生活できるほど強い身体を持つ魔族も例外ではない。このサキュバスだってそうだ―――人間の欲望を糧として今まで生きてきた長寿の魔族、その生涯で一体どれだけの人間を喰らってきたというのか。
だが、約束は約束だ。
「俺にできる事ならば」
「あら、意外と肝が据わってるのね?」
俺の目の前で屈み、目線を合わせつつ顎を指先でそっとなぞるサキュバス。胸の谷間を見せつけているように見えるのは気のせい……じゃないよねコレ。サキュバスだからそういうものなのかもしれない。
「ご主人様……っ!」
「ミカエルさん、いけません!」
クラリスとイルゼが止めようとするが、俺は2人を手で制する。
相手が魔族だからといって、約束を反故にしていい筈もない。
「……要求は」
「そうねぇ」
ぺた、と俺の頬に手を置きながら、サキュバスは口元に笑みを浮かべた。
「キミみたいな可愛い子を彼女たちの目の前でペロリ……っていうのも乙だけど」
「……だけど?」
フッ、と小さく笑うサキュバス。
あれ、これって流れ的にあれじゃないのか。ミカエル君が襲われるパターンじゃないのかこれ。
どうやら違うらしい。固唾を呑みながら彼女の言葉を待っていると、先ほどまで強者の如き余裕の笑みを浮かべていたサキュバスは一転、両目にうっすらと涙を浮かべながらそのまま俺のほっぺたをむにむにし始めた。
「あのね、あのね、男紹介してくれない!?」
「―――What?」
ん、聞き間違いかな?
アレだ、ミカエル君けっこう銃声聞いたりしてるからそれで張力に異常を来したのかもしれない。定期的な健康診断では良好な結果を出してるんだけどなぁおかしいなぁ(ちなみにパヴェル主導で行われている定期健康診断では健康ど真ん中を行く結果となっている)。
そうかそうか、ミカエル君もついに耳が遠くなったか。あるいはちゃんと言葉が聞こえなくなってしまったかと変な事を考えている間にも、サキュバスさんの必死な訴えは続く。
「うぐ、ぐすっ……同期のサキュバスたちみんな結婚しちゃって……っ! あたしだけ行き遅れって……ぐすっ」
「待って、ちょ、タンマタンマ。え、何? 結婚? 男? 話が見えてこないんだけどちょいちょい鼻水、ああ鼻水が! 鼻水が!!」
「だってあたしサキュバスでしょ? 寿命長いし男なんて食料でしかないし、結婚なんかしなくても適当に男漁ってるだけで生きていけるんだからしなくていいじゃんって余裕かましてたの……そしたら何、周りの皆いつの間にか結婚しぢゃっでぇ゛」
「鼻水! 分かったから鼻水が! スライムの如しッ!」
「ぐすっ、ママにも最近【エレノア、そろそろ男みつけたら?】とか【孫まだかな~?】って煽られてっ……あだじやっど月がらがえ゛っでぎだのに゛ごのじうぢぃ゛」
「クラリィィィィィィス!! ティィィィィィィッシュ!!!」
「ご主人様こちらに!!」
ちょっと待って何この大量の鼻水。鼻腔にスライムでも飼ってるのかこの女は。
大粒の涙をぼろぼろ零し、鼻の穴からはスライムみたいな鼻水を召喚して泣き始めるサキュバス(というかこの人”エレノア”って名前あったんだ……)。とりあえずティッシュを渡すと、彼女はそれで鼻をかみ始めた。
かむ勢いが凄いのか鼻水の粘度がヤバいのか、なんか『ドパァンッ!』ってすごい音が……音響さんSE間違ってない?
「ぐすっ、ぐすっ……やだよぉ、独り身やだよぉ……」
「わ、わかったわかった、分かったから泣かないで。ね?」
「ぐすっ、それにぃ、今思ったけど隣に自分専用のオスが居てくれた方が男漁るよりコスパいいじゃないのぉ……!」
やっぱコイツサキュバスだわコレ。
なんやねんこの色欲まみれの思考回路。どこかのでっかいメイドとどっこいどっこいだわホントにもう……オイコラ、お前の事だぞクラリス。視線を逸らすなクラリス。聞いてんのかクラリス?
にしても男か……うーん。
パヴェルは既婚者だしルカはなぁ……ノンナが悲しみそうだよなぁ……範三は頑固だし全力で嫌がりそうだ(というか剣術以外はからっきしだぞ範三は)。
それに仲間を生贄にするのも気が引ける……さてどうしたものか。
「あのぉ、ちなみに好みのタイプとかこういう人が良い的な条件ってあります?」
「ぐすっ……金髪でぇ」
「うん」
「瞳は蒼くてぇ」
「うん」
「長身のイケメンでぇ」
「うん」
「なおかつ実家が太いと助かります」
「高望みし過ぎで草ァ!」
ちょっ、フィルター分厚過ぎない?
まず長身のイケメンまではまあ、許そう。
実家が太いという条件が選択肢をかなーり狭めている。実家が太いという事は企業の経営者とか貴族の家系の男性が対象になるわけだが、だいたいそういう富裕層の息子って結婚相手が親の話し合いでもう既に決まっていたりするので、実家が太い長身のイケメンでフリーな奴ってそんなに居ないのでは?
うーん絶望的。
普通なら高望みし過ぎだって現実突きつけてやるところだけど、情報教えてもらったしなぁ……こっちも誠意見せないとなぁ……。
うーん、実家が太くて長身のイケメンで金髪で瞳が蒼くてフリーな美男子、どこかに都合よく転がっていn
「―――ァ゜!!」
瞬間、ミカエル君の脳裏に電流が走った。
「ご主人様?」
「ええと……ミカエルさん?」
―――いるわ。
エレノアの出した条件前部に当てはまり、尚且つフリーのちょっと残念なイケメンが。
まだ泣いてるサキュバスの手を握ると、俺は笑みを浮かべながら告げた。
「大丈夫、居る」
「え、何が?」
「条件通りのイケメン!」
「マジで!?」
サキュバス―――エレノアの顔に笑みが咲き乱れた。
同時刻
イライナ地方 キリウ
「はぁ」
ぱたん、と小説を閉じ、椅子に背中を預けた。
姉上から借りた恋愛小説……なかなか面白かった。特に主人公の少女から婚約相手を奪っていった悪役令嬢と、その悪役令嬢に誑かされ主人公を裏切った男に天誅が下るシーンは濁流の如きカタルシスで、読み終えた後は思わずガッツポーズしてしまうほど。特に前半の婚約破棄からの主人公の転落ぶりがとにかく酷くて、その落差がカタルシスの大きさに寄与しているのだろう。よく考えられた話である。
にしても、だ。
全てに決着をつけた主人公は自分を拾ってくれた公爵家の息子と結ばれ幸せになりました―――そんなきっとストロベリー味の甘いラブストーリーのように、現実は甘くない。
まずウチでは最初にエカテリーナがゴールインした。
毎晩隣の部屋からエカテリーナの声とロイドの助けを求める声、それから苦しそうなベッドの軋む音が聞こえてきて「うふふ、俺ももうじき伯父さんだなぁ」なんて呑気に考えていたものだ(※エカテリーナが毎晩クッソ激しいので彼女の部屋だけ特別に特注の防音壁で囲ってある筈なのになんでフツーに声や音が聞こえてくるんだろうか)。
そして我らが姉上だが、どうやら副官のヴォロディミルに気があるらしい。最近では公務が終わった後や休日によく会ってはイライナ独立のための作戦会議以外にも色々と親密な話をしているのだそうだ。
ヴォロディミルはイライナ出身の優秀な騎士だ。平民出身で兵卒からの叩き上げ、周囲の差別をものともせず実力と堅実な立ち回りで今の地位まで上り詰め、姉上の使命で副官に任命されたと聞いている。とにかく堅実で言われた事はそつなくこなし、自分の仕える相手の長所短所を見極め短所を補うべく補佐に徹するような、理想的な副官だ。
そんな人が義理の兄になるのであれば俺も文句はない。
そしてマカールだが、以前から副官のナターシャに気があったようで、最近ではあのお見合い強要レーズンBBAと無気力☆贅肉ジジイが出ていって結婚相手に口出しされなくなったのを良い事に関係を進展させているようだ。
本人の申告ではつい一昨日童貞を卒業してきたらしい。マカール? マカール君?
お兄ちゃんを差し置いてそれはないだろう、俺もまだ童貞……未経験なのだ。
まあ、何が言いたいかというとだ。
……今のリガロフ家で行き遅れの気配が見えているのはこのジノヴィただ1人である。
ミカエルがいるじゃないかって? アイツは周りにハーレム作ってるだろアレ。クラリスを筆頭にこないだ見た時も5人くらい女が居たぞ。お姉さんに甘やかされながら滅茶苦茶吸われてたんだぞアイツ。クソッ、なんて羨ましい……。
「はぁ……」
今の俺の副官は男である。
女性との付き合いもない。いや、部署内ではモテる方らしいのだが女性とどう接していいのかいまいちわからんから冷たい態度を取ってしまいがちだ。学問や魔術が良くできてもこういうところの不器用さだけは何とかしたい。
何かいい手はないか。イメチェンするとか?
あーでもないこーでもないと頭を悩ませていると、コンコン、と部屋をノックする音が聞こえてきた。
「なんだ」
『ジノヴィ様、お電話でございます』
「誰からだ」
『ミカエル様からです』
「!!!!」
バッ、と椅子から飛び上がった。
そのまま部屋のドアを開けるやメイドがびっくりするほどの勢いで部屋を飛び出し、廊下に出て電話機の備え付けられている部屋へ。
広間に飛び出すとちょうど受話器をマカールが取っていたところで、ミカと何やら楽しそうに話をしているところだった。
「 退 け ! 俺 は お 兄 ち ゃ ん だ ぞ ! ! 」
「いや俺も兄ですが!?」
半ばひったくるような勢いで受話器を受け取り、耳に押し当てる。
「ミカ? ミカか!?」
『え、あ……あぁ、兄上。お久しぶりです』
あぁ間違いない、ミカの声だ。アイツ今ノヴォシアの方まで行ってるから気軽に会いに行けなくてな……不定期的に届く手紙と電話が数少ない癒しだ。
「どうしたミカ、お兄ちゃんに用事なんて珍しいな???」
『あぁ、はい。実はその、兄上にですね―――お見合いの話が』
「ヴ゛ォ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!」
『あ、兄上!?』
お見合い―――聞きたくない言葉、唐突にフラッシュバックする苦難の日々。
やめろ、やめてくれ。お見合いだなんて言わないでくれ。それだけであのレーズンババアの顔が、声が、あのねっとりした喋り方がフラッシュバックするのだ。
絶世の美女なんて言っておきながらいざ会いに行ってみたら全然違う人でしたなんて事も一度や二度ではない。お見合いという行為がメンタルを削る行為を意味するようになったのはいつの事か、もう忘れてしまったよ。
発作を起こしカーペットの上をゴロゴロする俺。マカールが大慌てで受話器をひったくり、ミカを怒鳴りつける。
「お前なんて事を! 兄上はな、あのレーズンババアのせいで”お見合い”って言葉がトラウマになってるんだ! 聞いただけで発作が……」
『えぇ何ソレ……』
「い、いい……いいのだマカール」
「しっ、しかし兄上……古傷が!」
「男には……痛みに耐えねばならん時もある」
『何スかこのノリ』
「それでミカ……お見合グフッ……お見ガフッ、お、おみ、お、お゛」
『あー無理すんな無理すんな! 無理しないでください馬鹿兄貴!』
「ア゛……ミカの罵倒……イイ……」
『えーと、実はですね、旅先で知り合った銀髪の美女が居るんですが、是非兄上に一度お会いしたいと』
「え、マジで?」
銀髪の美女?
あのレーズンババアの信用ならん情報ほどクソなものはないが、しかし最愛の我が妹の眼に狂いはないのだろう。ミカが美女って言ってるんだから美女だ、そうに決まってる。
なんだろ、これは期待できそうだ。
『一応ですが、写真撮りましたのでそちらに手紙と一緒に送りました。ぜひご確認を』
「う、うむ。兄想いの妹を持ってお兄ちゃんは嬉しいぞ」
『……は、はぁ』
ん、なんか不服そうだなミカの奴……どうしたんだろうか。
『とりあえず、こちらからの用件は以上です』
「ありがとう。ミカ、また何かあったら遠慮なく連絡してくれよ」
『ええ、それでは』
ガチャ、と電話を切られる音がした。
そっと受話器を置き、息を吐く。
「マカールよ」
「はい兄上」
「俺―――春が来たかもしれません」
「もうじき冬ですけどね」
直後、マカールの顔面に拳がめり込んだ。
後日、絶世の美女の写真がミカから送られてきて小躍りする事になるのだが、それはまた別の話。
というわけでサキュバスさんの本名判明しました。
サキュバスさんあらため「エレノア」です。よろしくお願いします。




