錬金術師ミカエル
『いいかリガロフ君、錬金術というのは入り口だけは広い』
誰も居なくなった教室の一室。俺以外に生徒が居ないのを良いことに、あろう事か煙草に火をつけ缶ビールを1缶開けながら(オイオイこの教員大丈夫か?)ハインツ・ヒューベンタール先生は言った。
『魔術と違って錬金術に適正という概念はない。学ぼう、習得しようという意志さえあれば誰にでも戸口を開く。が、実際習得に至り錬金術師を名乗れる人材は一握りだ……いや、もうちょい居るか。1.5握りくらいかな』
錬金術が習得困難と言われている所以はそのあたりなのだろうな、とは思う。
先生の言った通り、錬金術には魔術のような”適正”という概念はない。物質の返還に使用する魔力を自分の身体に宿る魔力量で賄えるのであれば、たとえ適正Eの魔術の使えないような人にも習得自体は(理論上は)可能である。
ただし習得するには中学校や高校の理科の授業で習う原子記号やら物質の構造やら化学式の理解を前提として、そこから黎明期の錬金術師パラケルスス(※またの名をホーエンハイム)が遺した法則を履修、把握したうえで力を使わなければならない。
故に人は言う。
『魔術は信仰、錬金術は学問』と。
そしてその学問は困難を極め、魔術が使えないが故に錬金術に一縷の望みをかけて戸口を叩いた人間の多くを、容赦なくどん底へ叩き落すのである(もちろん血の滲むような努力をして錬金術師となった魔術適性Eの人間は一定数存在する)。
『独学とはいえ基礎的なところまではある程度できている。後は応用と、それから安定した発動へ向けた反復練習だ。理論は出来てるんだからあとは身体で覚えろ』
『はあ……』
身体で、ねぇ。
まあ、練習あるのみだ。
今までだってそうしてきたのだから。
転生した後も―――そして転生前も。
大丈夫、努力には慣れてる。
咄嗟に剣を振るい、迫りくる槍衾を払い除ける。
しかし左肩に生じた鋭い痛みが、キリルに完全回避はならなかった事を告げた。視線を向けるまでもない、唐突に生じた今の槍衾、その1つが左肩を掠め浅く切り裂いたのだ。
このまま突っ込むのは危険だと本能が察したのだろう。「ここで退くとは貴族の矜持が許さない」と声高に叫ぶ意地を封殺し、キリルは一旦後方へと飛び退いた。
視線を一瞬、左肩へと向けるキリル。やはり左肩の一部が制服諸共浅く切り裂かれていて、帝国魔術学園の制服の特徴でもある肩のケープが切り裂かれた部分から、真っ赤な地が滲んでいた。
彼にとっては貴族の尊い血―――先祖代々、優秀な魔術師を輩出してきた一族の尊い血。それがよりにもよってイライナの、大昔に帝国に併合された小国の田舎貴族の攻撃で先に血を流す事になるなど、末代まで続く屈辱ではないか。
その事実が彼を苛立たせた。逆鱗に触れるどころか逆鱗にジャコウネコパンチをかまされたような、内面を激しく焼き尽くす怒りがキリルの理性を乗っ取らんとするが、しかしそこで怒りの感情を抑え込みつつも彼はミカエルの発動した錬金術の異質さに、そしてそれをこの土壇場に繰り出してきた事に驚愕していた。
錬金術とは魔力を用いた物質構造の変化、あるいは原子情報の書き換えによる物質そのものの変質を自由に行う術だ。太古の錬金術師、パラケルススが国の王族のために鉄屑を黄金に変える手段を模索したのが発端であるとされており、習得のためには困難な学問を修める必要がある事から錬金術師を名乗れる人間はそう多くないと聞いている。
この帝国魔術学園においても、錬金術師を名乗っているのはドルツ諸国からやってきた教員のハインツ・ヒューベンタール程度のもの―――それ以外の教員でも習得を試みた者は居るというが、しかし習得には至らなかった。
それをこんな、こんなにも矮小で卑しい獣人の子が―――それも庶子が、父親の不貞の生き証人とも言える忌むべき存在が習得に至ったなど、一体何の冗談か。
罵倒の言葉が浮かんでくる一方で、しかし明確な焦りもあった。
このクラス対抗戦は、一応は魔術以外の攻撃も許されている。剣や銃器の持ち込み、使用も許されているのは魔術適性に恵まれぬ下位クラスの生徒への救済措置なのであろう。
しかし学園の長い歴史の中で、錬金術を修め対抗戦で使用してきた生徒はいない筈だ。少なくとも、キリルはそんな記録を見た事がない。
そもそも彼は、実際に発動に至った錬金術を見る事すら初めてだった。
キリル・アレクセーエヴィッチ・フェドロフという秀才にとっては、まさに未知の技術だったのである。
彼が潜在的に、そして本能的に恐れてしまったのはそこだった。
自らの与り知らぬ未知の術―――知らぬが故に、どう対応すればいいのか分からない。
今の攻撃だってそうだ。先ほど繰り出した雷属性魔術、『雷爪』と全く同じ予備動作だった。だからキリルは次に放たれるであろう雷属性の斬撃を、その合間を縫うようにして回避し距離を詰める腹積もりだった。
しかし彼を待ち受けていたのは雷の斬撃などではなく、隙間なく面で押し寄せる大槍の槍衾。騎兵を待ち受ける歩兵の方陣さながらにびっしりと生み出された大槍が、弾丸のような速度で生成され伸びてくるのだからたまったものではない。
その槍衾も今は崩れ、大きく抉られたようなクレーターを幾重にも生み出した石畳の床の上に、くず石となって転がるばかりだ。
先ほどの槍衾は足元の石畳を素材として使ったものなのだろう。両手で足元の床に触れ魔力を放射、物質そのものの変質ではなく構造変化の術式を組んで発動し、何の変哲もない床を無数の槍衾へと変化せしめたのである。
ミカエルの足元の床が抉れるように陥没しているのはそのためだ。足元の床を素材に槍衾を生成したのだから、その分の質量が消費されたのである。
錬金術とセットで付き纏うのが『質量保存の法則』だ。自由度の高い錬金術ではあるが、素材以上の質量の物体に作り変える事は決して不可能なのだ。
「どうした」
自由になった手のひらに、スパークを生じさせながらミカエルは言った。
ネコ科の動物を思わせる銀色の瞳が、挑発するようにキリルを見据える。
「よもや、怖気づいたのではあるまいな」
分かっている、これは挑発だ。
プライドの高い相手を煽り、怒らせ、最終的には自分のキルゾーンへと誘導するための手段。
今のミカエルは、自分の立場を、キリルの失態を、そして自分の発する言葉すらも武器にしている。
どれだけ理性が「これは挑発だ」と声高に叫んでも―――貴族としての、公爵家として生まれたキリルの矜持はそれを許さなかった。
ブチッ、と彼の中で何かが切れる。眉間に血管が浮き上がり、両目が充血するほどに見開かれる。
もう、迸る怒りを止める事は出来なかった。
「舐めるなよ害獣ゥ!!」
剣を構え、前に出た。
先ほどまで感じていた未知への恐怖―――錬金術という前例のない攻撃に対する慎重さは、もう彼の脳裏には微塵も残っていなかった。全てが憤怒で赤く塗りつぶされ、自らの感情を手綱で制する術もない。迸る怒りのままに攻撃を叩きつけ、破壊する。そういう意味では今のキリルは獣同然と言えた。
しかし、それこそがミカエルの思うつぼである。
突進しながら剣を振るうキリル。燃え盛る剣から炎が剥離するや、三日月形の斬撃となってミカエルへ迫った。
周囲の大気すらプラズマ化させるほどの熱を纏うそれは、しかしミカエルには届かない。
トンッ、と右脚で足元の床を軽く叩くミカエル。それに応じるかのように足元の床、その一部が大きく厚くせり上がるや、ミカエルの前に立ち塞がってキリルの斬撃を守る盾へと姿を変えたのである。
斬撃は足元を変化させたその壁に吸い込まれ、小さな爆発を起こすばかりだった。
とはいえ石畳を素材とした急造の盾である。職人が丹精込めて作り上げた戦士のための盾と比べれば、その強度は遥かに劣ると言っていいだろう。
被弾した部位を赤々と燻らせながら、石畳の盾が倒壊していく。
「!!」
その先に、ミカエルは居なかった。
完全な防御を期して発動した錬金術ではない―――攻撃を防ぎつつ、自らの移動を悟らせないための囮として今の盾を生み出したのである。
いったいどこに、と焦るキリルの右側―――濛々と立ち昇る土埃を切り裂くように、両手から蒼い電撃を迸らせるミカエルの小柄な身体が躍り出た。
「ッ!」
咄嗟にその場を飛び退く。
バヂンッ、と激しい雷光が乱舞した。
『雷撃』―――雷属性の中位の魔術。
本来は雷の槍を生成し、それを投げ放つことで相手を攻撃する中・遠距離攻撃の類である。しかしミカエルは適正に恵まれず、雷の槍を投げ放てば途端に威力が急激に減衰してしまう事から、少しでも威力を確保するためにその雷の槍を相手に直接叩き込む事としていた。
間一髪で奇襲を逃れたキリル。しかしその視界の端に、信じられないものが映り込む。
「―――!?」
そこに、銃が浮いていた。
ミカエルが先ほどから牽制に用いていたロシア製アサルトライフル、AK-19。5.56mm弾を使用する対人用の小銃が、まるで透明人間が手にしているかのようにふわりと宙に浮かび、銃口をキリルへと向けているのである。
魔術というよりは”魔法”を見ているかのようだった。
次の瞬間、ふわりと宙に浮かんでいたライフルの引き金が引かれ―――セミオートに設定されていたAK-19から、一発の5.56mm弾が放たれる。
ビッ、と左足の太腿を弾丸が掠めた。焼けつくような、それでいて切り裂かれるような痛み。理解不能な現象とも組み合わされたそれは、キリルの理性を混乱させるには十分だった。
磁力魔術の応用だ。内部に用いられている金属製パーツを磁界で操作し、自らの展開した磁界の中で浮遊させているのである。
引き金が勝手に動いたのは、引き金の先端部分に取り付けた金属製の極小サイズのアダプターによるものだ―――こんな芸当ができるようにと、ミカエル自身が事前に施しておいた小改造である。
続く第二撃を警戒しライフルを睨むキリルに、しかし今度は背後から響く空気を切り裂く音が牙を剥く。
「ッ!」
咄嗟に振り向きながら剣を振るった。ガァンッ、と重々しい金属音と共に、ミカエルが先ほどまで手にしていた剣槍が間一髪のところで弾かれ、されどキリルの頬に浅く切り傷を残していく。
掠り傷とはいえ傷を付けられた―――それも三度も。
続けて浮遊するAK-19からの二度目の射撃。炎を纏った大剣で防ぐが、その直後に反転してきた剣槍が突進してくる。
辛うじて剣槍を弾きながら、キリルはいつしか自分が防戦一方になっている事に気が付く。
(馬鹿な、この俺が……反撃すらままならないだと?)
有り得ない事である。
相手はCランクの魔術師で、自分は将来の栄光を約束されたSランクの魔術師だ。試合に出れば勝つことが当たり前、そしてそれを誰もが称賛した。
賞賛で装飾された栄光への道を歩むだけの楽な人生だった。
しかし、今はどうか。
自分たちが見下していた劣等生に、あんな矮小な害獣の攻撃を前に、手も足も出ていない。
こんな屈辱があってたまるかとミカエルを睨んだキリルであったが、床に両手をついている彼女の姿を見た途端に目を見開いた。
ぼこ、と足元の床が盛り上がった。
次の瞬間、今まさに踏み締めようとしていた床。唐突にそれが変形したかと思いきや、鋭利な剣へと姿を変えたのである。
ぎょっとするキリルだったが、しかし今更足は止められない。彼の右足は勢いのまま、剣の切っ先と化した足元の床を踏み抜いてしまい―――。
「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
迸る絶叫。
足の甲をざっくりと貫通した血まみれの剣身が、彼の右足のブーツから顔を覗かせていた。
未知の技術であるがゆえに、対処しようもない。
敗北を知らず、挫折を知らず、両親が用意した勝利が当たり前のレールを歩むだけの人生―――今までの16年間をそうやって過ごしてきたからこそ、キリルの対処能力には限界があった。
血反吐を吐く思いでの努力や強敵との死闘、そして敗北の屈辱を彼は知らないのだ。
だからこそ地力が違った。
「!」
なんとか突き刺さった足を引き抜いたキリルの目の前に、ミカエルが迫っていた。
先ほど彼女を見下すような発言をしたキリルへの仕返しなのだろう―――相手を嘲るような笑みが、その愛嬌のある顔には浮かんでいた。
「―――ざぁ~こ♪」
「お前―――」
反撃しようにも、防御しようにも、もう全てが遅かった。
魔術を発動しようとするよりも先に―――腰を入れ、肩を捻り、前進する勢いを乗せたミカエルの右の掌底が、そこにあるハクビシン特有の形状の肉球がキリルの顔面に迫っていたのである。
「―――ジャコウネコパンチぃ!!!」
「に゛ゃ゛ん゛っ゛」
濁りに濁ったクッソ汚い声を残し、後方へと吹き飛ばされるキリル。
床に何度もバウンドし、石畳の上をゴロゴロと転がった彼は、そのまま後方にある対魔力コーティングの施されたグラスドームにぶち当たると、そこに背中を強打してやっと止まった。
意識を失ったキリルの顔には、くっきりと赤く肉球の模様が浮かんでいた。
あれほどまでに歓声に包まれていた会場が、しんと静まり返っている。
観客たちは皆、唖然としていた。
Cランクの生徒がSランクの生徒を倒す―――前例のない事態に、それもフェドロフ家という大貴族の息子が、イライナのキリウからやってきた田舎貴族の庶子に打ち倒されるという、尊厳も何もあったものではない衝撃的な結末。
AKと剣槍をキャッチするや、ミカエルは審判の方を振り向いて言った。
「―――ブザーは?」
その問いかけにやっとの事で我に返った審判が、慌てて試合終了を告げるブザーを鳴らす。
それを合図に、C組とB組の生徒が座る観客席の方で歓声が上がった。
C組の生徒がS組の生徒を倒すという下剋上が、決して奇跡ではないと証明した瞬間であった。




