魔族襲来リターンズ
勉強は戦闘訓練と同じくらい重要だ。
ミカ姉から貸してもらった魔物図鑑を広げ、記載されているデータを頭に叩き込みながらそう思う。いくら腕っぷしに自身があっても、相手を知らなければ無用の長物だ。まずは自分の戦う相手をよく理解して、作戦を立て万全の状態で挑む。それこそが確実な勝利を手繰り寄せる方程式である。
というわけで今日は非番なので、空いた時間を活用してお勉強中。俺も今年で17歳になり、冒険者見習いから冒険者へ本登録される事になる。長い下積み期間(とはいっても9ヵ月くらいだけど)で得た経験と知識を生かし、独り立ちする時が近付いているのである。
その時になって困らないよう、今できる事は何でもしなければ。
ページをめくると、妖艶な姿をした魔物のイラストが掲載されていて、思わず鼻の下が伸びて目が釘付けになってしまう。
そこに記載されていたのは悪魔の一種であり、多分多くの男子の憧れであるサキュバスについてのデータだった。
露出の多い黒い服装に背中から伸びた悪魔の翼、頭から伸びる悪魔の角、背後で揺らめく悪魔の尻尾―――けれどもそれ以上に目を引くのが大きな胸に引き締まったウエスト、突き出たお尻にむっちりとした太ももだ。
そんな色欲という言葉が擬人化したような存在が蠱惑的な笑みを浮かべていれば、多くの男は目が釘付けになってしまうというものだ。
いけないいけない、集中しないと。
サキュバスは悪魔の一種、厳密には『魔族』というカテゴリに分類される。旧人類の時代よりも遥か昔からこの世界で暗躍していたサキュバスたちは、夜な夜な男性たちの前に姿を現してはその欲望を糧として生きてきた。
その誘惑と快楽には抗いがたく、多くの男性がその餌食となってきたという。
「サキュバスかぁ……」
なんか……こう、えっちだよね。
こんな胸が大きくてお尻もむっちりしたえっちなお姉さんに誘惑されたら俺……。
「あらルカ君、勉強熱心ですね」
「ぴゃいっ!?」
唐突に後ろから聞こえてきた声に驚き、ケモミミと尻尾がぴーんと雷に打たれたかのように伸びた。
慌てて教本を閉じながら後ろを振り向くと、そこには温かそうな湯気を発するマグカップを手にしたシスター・イルゼが立っている。この香りはミルク……まさか俺のために用意して来てくれたのだろうか。
「はい、どうぞ。あまり根を詰め過ぎてもいけませんよ」
「あ、はぁ……ありがと」
マグカップを受け取り、少し冷ましてから口の中に含んだ。ミルクのまろやかな風味とほんのりとした甘みが身体中に染みわたっていく。
8月ももうそろそろ終わる。ノヴォシアの夏は短くて、今となってはもう半袖とか半ズボンでは肌寒いような、そんな気温だ。来月になれば気温は更に下降してストーブが必要になる季節になるので、各員の寝室には薪ストーブが既に用意されている。
煙は天井をぶち抜く配管で合流して、客車後端の左側面に設けられた排煙口(普段はハッチで塞がれている)から排出される仕組みだ。真上に排出しないのは後続車両の銃座の視界を塞がないためらしい。
はぁーあったまる、とホットミルクの甘みに癒されていると、いつの間にかシスター・イルゼが魔物図鑑を開いていて、俺がさっきまで読んでいたサキュバスのページを開いているところだった。
「ルカ君」
「ぴっ」
「まさかとは思いますが、サキュバスに興味があるんですか?」
「えっ、いや、あの、シスター、俺はそのっ」
いや、拙いでしょコレ。
シスター・イルゼはえっちなのを絶対に許さない人だ。噂ではモニカに100tのハンマーで制裁を加えたりして強引に鎮圧、更には聖職者とは思えないほど禍々しく背後に般若(何故?)が見えるほどのオーラを纏ってその威圧感で相手を黙らせたり、こっそりスマホに催眠アプリをインストールしようとしていたパヴェルをビビらせたりと、下手したら血盟旅団で一番「怒らせたら怖い人」かもしれない。
それだけじゃない、サキュバスは悪魔―――聖職者、それもエレナ教の元エクソシストという身分のイルゼからすればまさしく不倶戴天の敵。そんな悪魔に興味があるなんて言ったらいったい何をされるか分かったものではない。
脂汗を浮かべながら必死に首を横に振ると、シスターはにっこりと笑みを浮かべた。
目の前でぶるんっ、とIカップのクソデカおっぱいが揺れるけど、ゴメン全然視界に入らないくらい心臓がバクバクしてる……主に恐怖で。
「ルカ君」
「ぴっ」
「いいですか、サキュバスは魅力的な女性の姿をしていますが、とっても恐ろしい魔族なのです」
「そ、そうなんですか」
「ええ。第一、悪魔というのは人間の弱みに付け込んだりするものです。願いを叶えてやるとか、人知を超えた快楽を与える対価として大切なものを奪っていくものなのですよ。酷い時はその人の命を、ね」
「ひえっ」
い、命……?
サキュバスのイラストを見た。
一見するとえっちなお姉さんのような姿をしているけれど、でも命を奪ってくるという事……?
美しい容姿からは想像もつかない恐ろしい話に恐怖していると、どういうわけかシスターは少し恥ずかしそうな顔をしながら続けた。
「そ、それと、不特定多数の男性とその……そういう関係にあるサキュバスは性病を持ってる恐れがあります」
「せーびょー?」
「恐ろしい病気です。下手したら死にますよ」
「ひえっ!?」
「ですからサキュバスに間違っても欲望を捧げたいとか、そんな事を考えてはいけません。悪魔は人間の男性のそういったえっちな欲望に付け込んでくるのです……あとあまりそういう欲望を抱えているとノンナちゃんに嫌われちゃいますよ」
「ぴっ」
ノンナに嫌われるのは嫌だ……想像しただけで胸が痛くなる。
あんな可愛い妹にゴミを見るような目で見つめられたり、罵倒されたり無視されたり……ちょっといいかもと一瞬思ったけどいけないいけない、それ以上に大切なものを失う事になる。主に俺の尊厳とか。
俺の尊厳はミカ姉ほど軽くはないのだ!
「し、シスター、どうすればいいの? もしかして俺も狙われてる?」
「大丈夫です、とっておきのおまじないがあります」
そう言うと、シスターはまるでこうなる事を予期していたかのように修道服のポケットから瓶を取り出した。
中には真っ白な液体(牛乳?)が入っている。
「それは?」
「牛乳です。これを枕元に置いておくと、サキュバスに襲われずに済みますよ」
ウインクするシスターから瓶を受け取り、まじまじと眺めた。
これで本当にサキュバスから身を守れるのか不安だけど……でも命を奪われるのは怖いし、その「せーびょー」も嫌だからしっかり魔除けしないと。
「ありがとうシスター!」
「うふふ、どういたしまして」
よーし、これで今夜は安心して眠れるぞ……たぶん。
サキュバスの視点から申し上げさせてもらうと、童貞が一番だと思う。
確かに色々とえっちな意味で経験豊富な男も捨てがたい(個人的には家庭を持ってる男だと適度に熟してていい感じ)けれど、けれども結婚して子供までいる男に童貞ほどのフレッシュさはないし、あの初々しい感じは絶対に出せない。
それに一度限りというのも特別感があって、個人的には優先的に童貞を食べたくなる。
というわけでやってまいりましたボロシビルスク。ちょうどレンタルホームに停車している列車の中から童貞っぽい初々しい香り(あと謎のポップコーン臭)が漂ってきて、サキュバスおねーさんもう大興奮。
尻尾と角と翼を仕舞い、洋服店でちゃんと購入(もちろん自腹)した私服に身を包んで、ギルドの関係者を装ってレンタルホームへ。連絡通路を通過して階段を駆け下りると、本日最後の特急列車が2番線から出発していった。
人の姿もない、しんと静まり返った大都市のホーム。遠くへ去っていく列車のジョイント音もあって何ともノスタルジックな雰囲気に包まれているけれども、そんな事より童貞童貞。その初々しい欲望をお姉さんが余さず食べてあげるから待っててね、うふふ。
階段を駆け下り、列車の方を向いたところで私は凍り付いた。
見覚えのあるロゴだった。口に剣を咥え、翼を広げた飛竜のロゴ。やたらと重装備な列車に、重連運転となっている大型の機関車。
これ、どこからどう見てもアレじゃないの。私が侵入する度に痛い目に逢ってる列車じゃないの。
「なんでなのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
なんで、なんで? なんで毎回こうなの!?
私とこのギルドの連中には何か縁でもあるわけ?
帰ろうかなと思って踵を返しかけたけれど、けれどもこの美味しそうな童貞の香りには抗えないし……それに何より、あの時の男の娘(特にメイド)と遭遇しなければいいし、あの既婚者も狙わなければいいだけの事。そうよ、狙いを絞れば何も怖いものはないのよ。
ビビるな私、サキュバスの埃を見せてやるのよ!
そうと決まったら突入あるのみ。そっと列車のドアを開け、中へと足を踏み入れた。
匂いがするのは1号車の2階、階段から3つ目の部屋の中からのよう。音を立てないよう慎重に廊下を通って、そっと扉を開けてみる。
やはりここだ。このフレッシュな、つい最近異性の身体に興味を持ち始めた思春期の男の子って感じの香りが癖になる。濃密な童貞の香りに酔ってしまいそうになりながらも、私は誘われるがままに二段ベッドの一段目の方へ歩み寄った。
そこですうすうと寝息を立てているのはちょっとサイズ大きめな、ビントロング獣人の男の子。体格はがっちりと筋肉がついていて逞しく、けれども顔には中性的な感じとあどけなさが残っていて、なんとも母性をくすぐられてしまう。
ああ、いいわこの子……滅茶苦茶にぶち犯……ごほん。
「あら?」
視線の端に映った瓶に、私は目が釘付けになった。
枕元には真っ白な液体がたっぷり詰まった瓶が1つ、静かに佇んでいる。
あらあらこの子ったら。お姉さんのために用意してくれたのかしら。
そっと手に取り、ポケットの中へと押し込んだ。できるならばこの子を襲って直に欲望を吸い取りたいところだったけれど……でもこれ二段ベッドだし、上で寝てる子に目を覚まされても困るし、ベッドがギシギシ軋む音で例のメイドが目を覚ましたらまた月までぶっ飛ばされてえらい目に逢うだろうから、名残惜しいけどこれで勘弁してあげましょうか。
「それじゃあまたね、坊や♪」
額にそっとキスをしてから、私は部屋を後にした。
列車を抜け出し、連絡通路を通って改札口を通過。駅前を離れて人気のない路地に入ってからやっと悪魔の翼だけを具現化させて空を舞い、近くにある尖塔の上にそっと降り立つ。
あの子を襲えなかったのは残念だけど……まあいいわ、目的のものは手に入ったし。
さあて早速味見をしてみましょうか。
コルク栓を取り外して、私は瓶の中身を少しだけ口に含んだ。
「……牛乳じゃないのコレ」
鍋の中にバターを投入、溶けたタイミングで鶏肉を投入してよく炒める。
適度に火が通ったところで瓶に入っていた牛乳を全部投入。鶏肉とバターから溢れ出た脂が牛乳の表面に浮かんで、なんとも食欲をそそる香りを放ち始めた。
口の中に溢れ出る涎。迸る食欲をどうにか抑え込みながら、さっき切った野菜を投入。
おたまで鍋をぐるぐると混ぜながら、はあ、と溜息をひとつ零した。
私何やってんだろ。
あんな初歩的な魔除けのおまじないに引っかかるなんて……そうよ、人間はいつもそうよ。信仰深い人間ほどめんどくさい連中はいないわ。ああやって枕元に牛乳入りの瓶なんか置いちゃって。あんなの男の欲望そのものだと勘違いして男に手を出さず持ち去ってしまうサキュバスが多発して、一時期界隈で問題になったのよ。
あーやだやだ、私も同じ轍を踏んじゃうなんて恥ずかしいったらありゃしない。
しかもちょっと大きめの瓶だから期待しちゃったじゃないの……見てよコレ、お鍋いっぱいのシチューできるくらいの量。あの子どんくらい溜め込んでたの可愛いわねなんて思ってた私の期待を返してちょうだい。
そんなこんなでぶつくさ文句を漏らしつつも完成したサキュバス特性シチュー。お皿に盛りつけ、スプーンで掬って口へと運んだ。
溶け込んだ野菜の風味と鶏肉の旨みを、牛乳のまろやかさが優しく包み込んだ至高の逸品。煮込まれた野菜の中に混じるプチプチと弾けるトウモロコシの食感も良い感じのアクセントになっていて、どれだけ食べても飽きないような感じになっている。
コレお店開けるんじゃないかしらなんて自画自賛しつつ、ぴたりと手を止めた。
「美味しいけど……美味しいけど……ッ!」
なんか、なんかこう……ッ!
「なんか……違くない?」
童貞を襲おうとして列車に忍び込んだのに、なんで私は宿屋(※個室に簡易キッチン完備)の一室でシチュー作って1人で食べてるのかしら。
ねえ……なにこれ。
※ヨーロッパの一部地域では「枕元に牛乳を置いておくことでサキュバスに襲われるのを回避する」という魔除けのまじないが実際にあったそうです。
がんばれサキュバスさん。




