дрібний звір гонитви(小さき獣の追撃)
ルカという少年にとって、ノンナの存在はまさに自らの半身と言っても良かった。
明日食べる分の食事も確保できず、今年は冬を越せるかどうかも怪しい……そんな苦しい懐事情をかなぐり捨て、目の前の小さな命を救わんと手を差し伸べた彼にとって、血の繋がりはなくとも自分を兄だと慕ってついて来てくれた彼女の存在が、ルカの心をどれだけ救ったかは察するに余りある。
14年もの間、寝食を共にした血の繋がらない妹。日雇いの安い賃金でやり繰りし、足りない時は盗みに手を染めてでも生き延びてきたからこそ、2人の結束は固いのだ―――その辺の兄妹とは比べ物にならないほどに。
そんな結束で結ばれていたからなのだろう、ルカの鼻腔は鋭敏に妹の”匂い”を嗅ぎ当てていた。
「……?」
雑踏の中、ふと流れてきた香り―――よく熟れた、甘酸っぱいオレンジの香りにも似た弾けるようで爽やかな匂いは、いつも最愛の妹から香っていたそれによく似ていた。
ジャコウネコ科の獣人には、”臭腺”という器官がある。
お尻の辺り、ちょうど尻尾の付け根に位置するそれは、本来ジャコウネコ科の動物が持つ器官である。ここで臭いのする体液を分泌する事で、相手に対する威嚇や自らの縄張りの主張に利用するのだ。
ジャコウネコ科の獣人にも第一世代、第二世代問わずそれが備わっており、多種多様な獣人の中からジャコウネコ科獣人を語る際の身体的特徴として真っ先に挙がるものであるが、しかし彼らはジャコウネコ科の動物と違い臭腺から体液を体外へ放出してアピールや威嚇に用いる事はない。
そのため、多くが汗などの老廃物と共に体外へと排出されてしまうのだが、これがそのままジャコウネコ科獣人たちの体臭となっているのだ。香水の原料として用いられる事もあり、その香りには個人差があるものの総じて良い香りをしていて、一部では”悪臭とは無縁の種族”とまで言われている。
ノンナの場合、それがオレンジの香りだった。
ハッとしながら周囲を見渡すルカ。近くにある露天ではコピ・ルアクや香水を売っているようだが、しかし特に香水を売ってる露店の中にオレンジの香りの香水を売っている店などあったであろうか。
露店の並ぶ地域の端から端まで吟味するように確認した記憶を呼び起こすが、しかしオレンジの香りの香水など無かったはずだ。多くがバニラやラベンダー、それから名前も知らぬアロマ系の香りがするものであり、オレンジの香りの香水など影も形もない。
ならばこれは―――風上からうっすらと香るこれは。
結論が出るよりも先に、足が先に動いていた。姿勢を低くし、道行く人々の群れをかき分けながら先へと進む。時折、いきなりぶつかってきたルカに対し罵声を浴びせる男の声も響いたが、今のルカには微塵も届いていなかった。
それはまさしく、妹がさらわれたという絶望の中に垂れ落ちた、一筋の蜘蛛の糸に他ならなかったからだ。
妹の匂いを手繰るように、ルカは走った。
足を進めるにつれて、風上に迫るにつれて、その匂いはより濃密になっていった。
(間違いない……ノンナはきっとこの先に……!)
いる、間違いなく。
妹の発する香りに導かれたルカは露店の並ぶエリアを離れ、体力の消耗に段々と息が切れてきた頃には、彼の目の前には古い建物が聳え立っていた。
「ここは……」
白く美しい建物―――”白亜の都市”とも言われるボロシビルスクの一角にあって、しかしその建物は少々寂れている様子を窺わせた。
きっとそう思えるのは、建物の壁面が何か所か崩れ落ちているからなのだろう。荒廃と言い切れるほどのものではないが、しかし今も使用されているとは思えない程度には壁が剥がれ落ち、真っ白な壁面の内側には錆び付いた鉄筋や灰色のコンクリートが覗いている。
建物には電気も燈っておらず、カーテンは閉め切られ、外から中の様子を窺う事は不可能だった。
ここはどこだろうか―――視線を彷徨わせたルカはすぐに、傍らにあるフェンスの残骸の中に『Волосибирский гражданский цирк(ボロシビルスク市民サーカス)』という風化したプレートを見つけ、かつてはここがボロシビルスクを拠点とするサーカス団が保有していたサーカス場か何かであった事を把握するや、ルカはすぐさま行動に移った。
建物と、それから錆び付き風化したプレートをスマホで撮影。保存した画像をギルドの共有フォルダにアップロードするなり、メッセージの宛先を全員に設定し「ノンナの居場所を特定した」と短く打ち込んで共有フォルダ内のファイルをその下に添付。
スマホをスリープモードにしてポケットに押し込むなり、微かな振動を感じた。おそらく仲間の誰かが彼のメッセージかファイルを見て、「突入は待て」とでも指示したのだろう。
しかし今、仮にこの場にミカエルやパヴェルが居たとしてルカを止められただろうか?
おそらく可能ではあるのだろう。練度に劣り、経験に劣り、力に劣る彼を取り押さえる事は可能なはずだ。しかしそれを実施する者がミカエルであれパヴェルであれ、本当にあのルカなのかと思ってしまうほどの抵抗を彼は見せたに違いない。
今のルカは駆り立てられる弱い獣などではない―――獲物を仕留めにかかる、肉食獣のそれだった。
片膝をつき、背負っていたバックパックの中から装備品を取り出す。
AK-102とサイドアームに選んで持ってきたグロック34。マガジンには43発入りのマガジンエクステンションが追加装備されており、戦闘継続能力が底上げされている(その分重量も増加、拳銃としては取り回しに若干難アリ)。
ノンナ救出を想定し、破片手榴弾の類は持ってきていない。傷つけてはならない救出対象が居る現場で、加害範囲の広い兵器の使用はご法度だ。代わりにフラッシュバンとスモークグレードを3つずつ、ポーチに収めてある。
それからバックパックから引っ張り出した2つの装備品が、ある意味でルカの”本命”だった。
片方は大型の警棒だった。
中国人民武装警察で採用されている、大型の電気警棒である。通称『大宝剣』とも呼ばれるそれは世界最大クラスのサイズを誇る警棒で、まるで大剣でも構えているような迫力がある。また柄のスイッチを操作する事で警棒に電流を走らせることが可能だが、これは警棒に常に帯電させて殴打の威力を上げるためではなく、暴徒や敵性戦闘員に警棒を掴まれた際に流す事でショックを与え、拘束を解除する目的で用いられるものである。
もちろん、こんなサイズの警棒でフルスイングされれば「痛い」では済まないだろう。そんな危険極まりない代物を手にしているのが、妹を危険に晒され怒り狂う兄であれば、猶更危険度も跳ね上がるというものだ。
そしてもう一つ。
それはルカの上半身を覆うほど巨大な盾―――いわゆる『バリスティック・シールド』と呼ばれる防具の類だった。
団員全員にゾンビズメイの素材を用いた武器の作成を行っていたパヴェルが、ルカのために用意した装備品である。他の仲間と違ってこれは防御用のものだが、しかしそのスペックは生半可な装甲材を上回ると断じてもいいだろう。
素材として使用されているのは、単分子構造となるゾンビズメイの鱗だ。強靭で堅牢、更に軽く、鱗の年齢次第で材質も変わってくるそれを器用に使い分け、張り合わせて複合装甲としているのだが、このバリスティック・シールドの場合は更にその内側に賢者の石で生成されたプレートをインサートする事により、更にその防御力を高める事に成功している。
ゾンビズメイの鱗の層で被弾の衝撃を7割軽減し、賢者の石のプレートで殺傷力を完全防護するのだ。
これにより、使用者が衝撃に耐えられるか否かを度外視するという条件付きではあるものの、理論上はブッシュマスターの30mm機関砲弾の近距離射撃さえも完全防護する(さすがに40mm以上は怪しい)ほどの防御力を誇っており、歩兵火力でこの防御を撃ち抜くのは不可能であろう。
それでいて携行可能なレベルの重量に収まっており、更には触媒化の祈祷を施してあるため、この盾がルカにとっての魔術の触媒としても機能する。
更には正面の敵の目くらましを期待し、縦には4つの大型フラッシュライトが防弾ガラスに覆われた状態で据え付けられている。
異質な装備であるが、それはルカが列車の警備という業務を担当する性質上、それに最適化した装備となっただけの事だ。列車の警備や防衛を担う彼にとってその戦闘は受動的にならざるを得ず、攻勢において必須となる電撃的な機動力は、しかし彼の場合は必要ない。山のようにどっしりと構え、待ち構えていればいいのだ。
大型警棒を背中に背負い、左手にバリスティック・シールドを、そして右手にマズルガード付きのグロック34を装備するルカ。
ソ連製戦闘服のゴルカに身を包み、プレートキャリアを装着して、マスカ・ヘルメットのバイザーを下げた今の彼の姿は、まるで近年の技術で再現された中世の騎士を思わせる姿だった。
意を決し、ルカは足を進めた。
トラップの類は―――ない。こういう拠点には魔術的なトラップからスクラップを流用した鳴子に至るまで、さまざまなトラップが待ち構えている事が多い。だから無警戒で突き進むのは自殺行為であり、潜入時には周辺確認を厳とせよ。
パヴェルからの教え通りに周辺を警戒、脅威がない事を確認してからルカはサーカス場の裏口のドアをそっと捻った。
盾とグロックを構え、足音を立てないように警戒しながら一歩一歩、ゆっくりと進んでいくルカ。バイザーの内側に自分の呼吸音が籠るせいなのだろう、自分の呼吸音はいつもよりも大きく聞こえ、それがかえって彼の平常心に小波を立てた。
人の気配はある。
微弱な空気の流れと、埃の堆積した床を踏み締める足音。その重さから考慮するに推定体重65~75㎏程度の何者かが、こっちに向かって歩いてくる。
倉庫だったと思われる小部屋に身を隠すと、やがてその足音の主がやってきた。
男性だ―――私服姿で、傍から見ればその辺に居る休日の労働者のように思えるかもしれないが、腰に下げた剣と古めかしいペッパーボックス・ピストルの存在がそれを否定する。この国の一体どこに、あんな錆の浮かんだ、そして製造番号の刻印を焼き潰した武器を持つ労働者が居るというのか。
あれがノンナを連れ去った連中の一味なのか、と頭が回ったところで、ルカはそっとグロックをホルスターに戻した。グロックにはフラッシュライトとマガジンエクステンション、それからスライドを押し付ける格好になっても発砲できるようにマズルガードを装着している。それはいいのだが、サプレッサーを装着していないため今の時点でこれを発砲する事は憚られた。
ならばそれ以外の手段で無力化する他ない。そう判断するや、グロックに代わって大型警棒を背中の鞘から引き抜いた。
男はルカの存在に気付いていない。ノヴォシア語で何やら鼻歌を口ずさみながら、警備の巡回とも言えぬほど粗末な注意力で通路を歩いていく。
すっかり無警戒な警備兵に、小部屋から音もなく飛び出したルカが牙を剥いた。
成長期の真っ只中で、身長175cmまで大きくなったルカはまるでちょっとした熊のような迫力がある(ジャコウネコ科最大の種であるビントロングの和名は『クマネコ』である)。それに伴って体重も重くなった彼が放つ、情け容赦のない盾攻撃。唐突に背後から突き出されたシールドの一撃に、見張りの男はあっさりとうつ伏せに押し倒された。
「!?」
慌てて右手を腰のホルスターに伸ばすが、それよりも先にその手の甲を大型警棒の先端部が押し潰した。ごりゅ、と手の甲を潰され、男は悲鳴を上げそうになる。
悲鳴を発する前にシールドを押し付けて止めたルカは、男に顔を近づけるや、変声期を迎えドスの効いた声になりつつあった地声で冷たく告げた。
「おい、クソ野郎。俺の質問に答えてもらおうか」
「な、何だお前は……!? いったいどうやって―――ッ!?」
ぎり、と警棒を押し込む手に力が入った。
「俺の質問以外には喋るな。返答次第では、てめえは手で数字を5までしか数えられなくなるぜ」
「な、なんだ、何が知りたい」
「ノンナというパームシベット獣人の女の子を探している。どこにいる」
「し、知らねえ―――あ゛」
ごり、と手の甲の骨が悲鳴を上げた。みしみしと骨の軋む感触を大型警棒越しに感じながらも、ルカは更に力を込め、詰問を続ける。
「ノンナというパームシベット獣人の女の子を探している。どこにいる」
「し、知らないっ、本当に知らないんだ。ここには大勢のジャコウネコ科の獣人が……!」
「そいつらはどこに?」
「ま、待てよ兄妹、ポップコーン臭いぜ? お前ビントロングの―――ヅッ!!」
パキ、と骨が砕け折れた感触がした。
声にならない悲鳴を上げる男に、しかしルカは容赦なく畳みかける。
「次はどこが良い? 反対の腕か、それとも脚か? ケツの穴を増やしてほしいってんならリクエストに応じてやってもいい……それか二度と女を抱けねえ身体にしてやろうか、え?」
「まっ、待て待て! 地下だ、地下に集められてる! 鍵は俺の腰に……っ」
「Дякую, любий брате(ありがとよ、兄弟)」
ゴッ、と大型警棒の先端を後頭部に突き入れた。
呼吸の詰まるような息を吐き、男は動かなくなる。白目を剥き、無様によだれを垂れ流しながら糸の切れた人形のようになった男(一応呼吸は認められた)を小部屋の中に隠して扉を閉め、ルカは武器を大型警棒からグロックに持ち替える。
以前までの彼であれば、ここまで非道に相手を追い詰める事は無かっただろう。必ず途中で良心の呵責に苦しみ、手を緩めてしまった筈だ。
そうならない理由は煮え滾る怒り故であろう。
もう、今のルカは止まらない。
そして誰にも、止められない。
犯罪集団はヤバい奴を覚醒させてしまったようです
(※のちのイライナ公国キリウ大公主席護衛官である)




