誘拐
カーチャの部屋には、もう小型のストーブが置いてあった。
8月下旬から急激に気温が下がるし、9月下旬にもなればうっすらと雪が降り始める苛酷な地、ノヴォシア。だから年がら年中薪の調達や備蓄をしている家は珍しくないし、夏場からストーブを出して冬に備えている家庭もまた珍しくないと聞いた事があるけれど、そんな事はどうでもいい。
暖かい部屋の中、カーチャは二段ベッドの一段目に寝かされていた。傍らではシスター・イルゼが居て、カーチャに向かって治療魔術をかけているらしく、ベッドに横になるカーチャの周囲(特に傷を負ったと思われる脇腹や頬の左側)には黄金に輝く渦輪が十重二十重に浮かんでいた。
俺の姿に気付いたのだろう、シスター・イルゼがこっちを見て微笑みながら、けれども少し深刻そうな声音で言う。
「カーチャさんの怪我なら大丈夫ですよ。脇腹の打撲と顔に痣が出来ただけ……すぐに治りますが、少し休ませてあげないと」
「……うん」
ベッドの上で横になっているカーチャの綺麗な顔……左の頬には、何かに殴られたような痣がある。
いったい誰がそんな酷い事を、と憤る俺の方を、カーチャの瞳がそっと見た。
「……ごめんね、ルカ……私がついていながら」
「いいんだ、大丈夫」
申し訳なさそうに言うカーチャにそう言いながら、ベッドの傍らにあった椅子に腰を下ろした。
ノンナはカーチャによく懐いていた。転生者殺しの一件で死にかけた彼女を救ったのはカーチャの適切な処置だったし、兄貴分である俺としても彼女には恩義を感じている。それにカーチャも血盟旅団の狙撃手として優秀だし、テンプル騎士団との戦闘では現時点で唯一ホムンクルス兵の撃破記録を持つ凄腕だから、カーチャに任せておけば大丈夫だという安心感があった。
けれどもそんな彼女でも、不意討ちされればこうなるのだと、改めて作戦を用意し待ち構えている相手の恐ろしさを痛感させられる。
「……ノンナを連れ去ったのは、どんな奴だった?」
「……がっちりした体格の男だった……それ以外は何も」
「場所は。ノンナがさらわれた場所は?」
「ルカ君、気持ちは分かりますが相手は怪我人です。今は休ませてあげないと」
「あ……ごめん、なさい」
ノンナの事になってつい熱くなってしまった。
ごめんね、と小さな声で言い残し、カーチャが静かになった。眠ってしまったのか、それとも気を失ったのか……。
ミカ姉からのメールで、最近この街ではジャコウネコ科の獣人が姿を消す事件が続発しているという情報は知らされていたし、何ならラジオでもやっていた。ジャコウネコ科の獣人の皆さんは夜間の外出や1人での外出を避けるように、と。
きっとノンナをさらった連中はその事件の犯人なのだ、そうに違いない……でもなんで、なんでノンナを?
まだ14歳の女の子を連れ去って、一体どうするつもりなのか。
俺とノンナに血の繋がりはない。ある日スラムに捨てられていた赤子を拾って一緒に生活していたら、アイツが俺を「お兄ちゃん」と呼び始めた……そういう関係だ。
でも、今までの人生のうち14年もの間を一緒に過ごしてきたからこそ、俺たちの結束は特に堅い。雨の日も風の日も、そして苛酷な冬も一緒に乗り越えてきた。腐ったパンを食べ、泥水を啜り、穴だらけの毛布と粗末なストーブで寒さに震えながらも何とか生きてきた。
そんな地獄を共にしてきた最愛の家族なのだ、こんなところで失ってたまるものか。
パヴェルならば何か知っているだろうか……そう思って彼の元を訪れようとカーチャの部屋を後にすると、2号車の方からミカ姉が階段を上がってくるのが見えた。授業中に抜け出してきたのだろう、帝国魔術学園の制服姿のままだ。肩回りを覆う蒼いケープとスカートから覗く足を覆う黒タイツが清楚さと魔術師らしい雰囲気を纏わせているが、しかし今はそんな彼女に見とれている場合ではない。
「ミカ姉」
「ルカか。カーチャの容体は?」
「シスター・イルゼが手当てしてくれてる。命に別状はないって」
「そうか……」
「……ミカ姉、ノンナは」
「ああ、俺も心配だ……だからつい授業を抜け出してきてしまった。”父上が危篤です”って理由でな」
「父上が危篤」
あれ、ミカ姉のお父さんって確か……アレだよね、メイドさんと不倫した結果、メイドさん(レギーナさんだっけ)を妊娠させてしまってミカ姉が生まれる原因を作ったやべー人だよね?
下半身が制御できてない公爵様だ、確か。
「あんなクソ親父、何度でも殺してやろう」
「ひえ」
ミカ姉の黒い一面が垣間見えた。
「それより、少し落ち着けよルカ」
「落ち着いてるよ」
「嘘つくな、尻尾がさっきからブンブン動いてる」
……やっぱり俺、嘘つくの下手みたいだ。
「気持ちは分かるが今は少し待て、パヴェルがドローンを飛ばして街中を捜索してる」
「……」
最悪の場合、武器庫から自分の武器を用意して1人で助けに行くつもりだった。もちろん無断出撃だからノンナを連れ帰っても俺を待っているのは仲間たちからの称賛の言葉ではなく、なぜあんな無茶をしたのかという厳重注意と厳罰だろう。それにノンナを連れ帰れるという保証はない。
感情のままに動くべきではない……今は確かにそうなのかもしれない。
大丈夫、ノンナは大丈夫……ああ見えて強い子だから、と自分を落ち着かせ、息を吐いた。
「とりあえずB装備で待機だ。悪いがルカ、1号室に俺のAKを持ってきてくれ」
「分かった」
B装備―――いわゆる普段の通常装備で待機、という事。
今は情報収集の段階だ。そこから作戦を立てて実行という流れになるから、救出に動く事になるのはまだ先だろう。
心配だけど……でも今は、こうするしかない。
情報が不十分なまま現場に向かったところで、無駄な労力を費やすだけなのだ。
ガシャンッ、という金属音と共に、鉄格子が閉じられる。
鉄格子の向こうには、薄汚い服に身を包んだ人たちが居た。私をニヤニヤしながら見下ろして、小声で何かを話している。
鉄格子を掴んで力いっぱい揺すってみたけれど、当然ながらそんな事で緩んだり外れる筈もない。少しばかり錆び付いた鉄格子がガチャガチャと、煩わしい音を立てるばかりだった。
「お願いやめて、ここから出して!」
外にいる男たちに向かってそう叫ぶけれど、返ってきたのは鉄格子に叩きつけられたバールが発する大きな金属音だった。唐突に響いた大きな音に、びくりと身体を震わせながらそっと後退ると、バールを振り下ろした男は苛立ったような表情で私を睨んできた。
「……ったく、うるせえんだよクソガキがよォ。てめえはもう人間じゃねえ、”売り物”なんだよ、分かるか害獣?」
「う、売り物……?」
「おい、商品価値が落ちる。あまり変なストレスを与えるんじゃねえ」
「へいへい」
仲間に咎められ、バールを肩に担いだ男たちは鉄格子の前を離れていった。
売り物って、まさか……人身売買?
私、そんな連中に捕まっちゃったの?
そんな、どうしよう……そんな不安に苛まれる私に、周囲の光景が更に追い打ちをかけてくる。
なんとか落ち着いて物事を考えられるようになるにつれて、周囲の状況も把握できるようになってきた。薄暗い部屋の中には同じデザインの鉄格子がいくつも乱雑に並べられていて、その中には私以外にも人が入っているのが分かる。
みんな子供ばかりだった。一番上でたぶん17~18歳くらい、一番下だと10代にも届かない子供たちばかりが集められ、鉄格子の中に無理矢理押し込められている。中には監禁されて長いのか髪の毛がすっかり伸び、身体の表面に垢が浮かんでいる子も居て、彼女らの目の前には犬とか猫のようなペットが餌を食べるような底の浅いボウルが1つ、ぽつんと置かれている。
人間としての尊厳を踏み躙るような、そんな光景だった。
人権という権利が息をしていない、というべきなのかもしれない。
しかもよく見ると、鉄格子の中に囚われている獣人はみんな同じタイプの獣人ばかりだという事に私は気付いた。
ハクビシンの獣人にビントロングの獣人、私と同じパームシベットの獣人もいる。虜囚となっている可哀想な子供たちの共通の特徴は、全員がジャコウネコ科の獣人である事だった。
「よーしお前、出ろ!」
男たちの声。
ガシャンッ、と鉄格子の揺れる音。鍵の外れた牢の中に男たちが足を踏み入れるや、中に居たジャコウネコ科の女の子の腕を乱暴に掴んだ。
「嫌、やめて……! こんなのもう嫌ぁ!!」
「うるせえ、商品の分際で口答えするんじゃねえ!」
「お願い助けて、誰か! 誰かぁ!!」
悲痛な叫び声に、けれども誰も応えない。
腕を掴まれ、無理矢理引っ張られていく女の子。彼女と目が合い、助けを求めるように手を伸ばしてきたけれど、けれどもその手は私には届かない。
やがて彼女は隣の部屋に連れ込まれ、ドアの閉じる音が響いた。
うっすらと聞こえてくるのは、嫌がる彼女の声。暴れているのかバタバタという音も聞こえてきて、それを押さえつけようとする男たちの罵声も壁の向こうから聞こえてきた。
いったい何をされるのか、と思った次の瞬間だった―――身も心も凍り付くような絶叫が、あのドアの向こうから聞こえてきたのは。
「―――あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 痛い痛゛いっ!! 嫌ぁぁぁぁっ、やめてっ! 痛いよぅっ!!!! やめ……あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
断末魔、という言葉が頭に浮かんだ。
生き物が死ぬ間際に発する最期の絶叫―――命を懸けた叫び。
今まで聴いた事は無かったけれど、本能で理解した。きっと断末魔とは、今際の際に遺す叫びとはああいうものなのだ、と。
身体が震えた。魂を凍り付かせるかのような痛々しい絶叫に全身の毛が逆立って、けれども逃れられない恐怖に心が折れそうになる。
歯がガチガチと鳴り始め、目には涙が浮かんだ。
いったい何をされているのか分からない……けれどもその苦痛が、恐怖が、やがては私にも向けられるのではないかと考えてしまうと、余りにもの恐怖に気が狂ってしまいそうだった。
脳裏に浮かぶのは、お兄ちゃんやミカ姉、ギルドの仲間たちの顔。
大丈夫、きっとみんなは助けに来てくれる。今はそう思う事でしか、仲間を信じる事でしか正気を保っていられない。
ドアが開いた。
向こうから男たちに抱えられ、ぐったりした様子の女の子が引き摺られてくる。
何とも痛々しい有様だった。服は脱がされていて、顔中は涙やよだれ、鼻水でぐしゃぐしゃに濡れている。白目を剥いたままの状態になっていて、たぶんあまりにもの苦痛に耐えかねて気を失ってしまったのだと思う。
乱暴に鉄格子の中に押し込められる様子を見ていると、男の1人がこっちにやってきた。
「ひっ……!」
まさか、次は私……?
震えながら鉄格子の隅へと後退ると、牢を開けた男は入り口のところにそっと金属製のボウルを置いていった。
犬や猫のようなペットが、ドッグフードとかキャットフードを食べるのに使うような底の浅いボウル。私を人間として見ていないのだという事に憤りと絶望を覚えたけれども、そういえば先ほどからお腹が鳴っている。
動物のような扱いをされてはいても、空腹には抗い難かった。
「いっぱい食べてくれよ、そうすればここから出られるかもな」
「え、それってどういう……」
男はそっと牢を出て、再び鍵を閉めていく。
視線をボウルの上に向けた。
ボウルの上には何かの木の実のようなものが山のように盛り付けられている。見た事もない木の実だったけど、なんだろう……カーチャお姉ちゃんからいつも香ってくる匂いに似ているような……?
―――コーヒーの実だ。
なんでこんなものを食べさせるんだろうと思ったけれど、お姉ちゃんと一緒に露店で売られていたコピ・ルアクの存在を思い出して戦慄する。
露店で売られていたコピ・ルアクはとても安かった。高級品の筈のコーヒーが、労働者でも簡単に手を出せる値段で叩き売られている……それも、あんなに大量に。
全てを察した。
つまりこれは、そういう事なのだ、と。
だからここにジャコウネコ科の獣人たちが集められているのは……!
カーチャが襲撃された場所の近くには、大量の露店があった。
こういった店が街中に出て、色んな商品を売っているのは珍しい事ではない。大都市ではよく見かける光景で、ザリンツィクでもそうだった。賞味期限間近の廃棄商品を格安で売っていた露天のおじさんには、俺もノンナもお世話になったし何度も助けられた。
けれども、ここはどうだろうか。
異質、と言っていい。
「安いよ安いよ、南方諸国特産のコピ・ルアクはここだよー!」
「色んな香りを取り揃えてあるよ! 香水はこちら!」
売られているのは香水やコピ・ルアクといった商品ばかり。しかもどれも格安で、ミカ姉の話では1つ1万2千ライブルはくだらない相場のものが500ライブル前後で叩き売られているのはあまりにも異常だ。そういう価格に詳しくない俺でも、その異質さは分かる。
どうしてこんなに、と思ったところで、だいぶ前にミカ姉が話していた事を思い出す。
香水の原料と、コピ・ルアクがどうやって作られるのかについて。
香水の原料はジャコウネコ科の動物にある臭腺、そこで分泌されるという強い臭いを放つ体液だ。それを加工する事で良い匂いのする香水になるのだとか。
けれども臭腺から強引に体液を採取する事になり、採取される側の動物は想像を絶する苦痛を味わう事になる―――だから帝国議会でも「さすがにそれは動物虐待ではないか」とか、「我々獣人の兄弟である動物たちにしていい仕打ちではない」といった声が挙がっている、と。
「ミカ姉……まさかだけどさ、ジャコウネコ科の獣人ばかりが消えてるのって」
「……ああ」
隣で露店を見渡すミカ姉も、全てを察したようだった。
「―――多分、そういう事だ」
そんな事のためにノンナは……。
「……ミカ姉」
「なんだ」
「俺……ノンナにもしもの事があったら、彼女に手ぇ出した奴を殺すかもしれない」
本心だった。
俺にとって彼女は、血の繋がりがないとはいえ大切な家族。これまで苦楽を共にしてきた、自分自身の半身と言ってもいい。あんなに貧しい暮らしでも文句を言わず、こんな俺を信じてついて来てくれた可愛い妹。
そんな唯一の家族の身に何かがあったら、俺はそいつを許さない。
法が裁くのでは物足りない。その時はきっと、俺が裁く。
こっちを見たミカ姉は、哀しそうな顔をしていた。
お前まで手を汚さなくていいんだ、とでも言いだしそうな顔。けれどもそれは理想論でしかなく、この界隈ではいつか必ず手を血で汚す事になる―――特に、血盟旅団のようなアウトローの道を征くというのであれば猶更だ。
だからそれは詭弁でしかなく、またエゴである―――ミカ姉にもその自覚はあるんだと思う。
彼女は葛藤するように目を瞑ると、優しい声で言った。
「……その時は、心に従え」
「……ああ」
そうする。
俺だって血盟旅団の団員の1人だ。
あの時―――ノンナが死にかけたあの日、彼女を守るためならばこの手を血で汚す事になると悟った。
だからもう、腹は括ってある。




