急転
ビントロングからはポップコーンの匂いがするらしい。
学術都市とまで言われるくらいだから、もう少し治安の良い場所だと思ってたんだけど。
ミカから入った一報に、私は少々きな臭い物を感じていた。血盟旅団の諜報担当として訓練を受けたからなのか、そういう不穏な雰囲気には敏感になってしまったような、そんな感じがある。
最近急増している、ジャコウネコ科獣人の連続失踪。
今朝のラジオと新聞でちょっと目にした程度の事件だけど、ミカからの警告を受けるよりも先に軽く洗ったらなかなかヤバそうな案件だった。
ジャコウネコ科の獣人が、このボロシビルスクで失踪し始めたのが今から一週間前。当然ながら、私たち血盟旅団がこの街を訪れるよりも前から事件は始まっていた。
既に行方不明者は50人を超えていて、憲兵隊も捜索を強化しているらしい。雑貨店や食料品店が並ぶ平和な街の大通りにも、腰にリボルバー拳銃と警棒を下げた憲兵隊の隊員が隊列を組んで出歩いているのを見て、この街も治安が悪くなってきたのだと実感させられる。
本当に治安の良い場所って、ここまでガチガチに警備したり、憲兵が巡回してたりとかしないもの。
「ええと、次はニシンの缶詰ね」
「どこかなー?」
パヴェルから渡されていたお買い物リストをチェックすると、ノンナがニコニコしながら缶詰コーナーに視線を走らせる。
今はまだ8月だけど、そろそろ本格的に冬に備えて食料品を集めておかなければならない。10月下旬にもなれば凄まじい降雪量で各地の往来が完全に閉ざされ、来年の4月まではこれまでの備蓄だけで何とかやり繰りしなければならなくなる。
ノヴォシアの一部区間には地下鉄が開通しているところもあって、それを用いた物資輸送で何とかしている地域もあるけれど、その食料が口に入るのは大半が富裕層で、後は運のいい労働者の口に僅かなパンが収まるだけ。
何とも悲惨な話よね、と思っていると、ニシンの缶詰を見つけたノンナが笑顔でそれを5つ持ってきて、私の提げている買い物籠に放り込んでいった。
えへへー、と無垢な笑みを浮かべつつケモミミをぴょこぴょこさせるノンナ。ああ褒めてほしいのね、と思って笑みを浮かべながらノンナの頭を撫でると、彼女は長い尻尾をまるで犬みたいに振り始めた(ジャコウネコ科の獣人は尻尾が長いという身体的特徴がある)。
ふわふわの髪と、それからうっすらと香るオレンジのような香り。香水でもつけてるのかなと思ってしまうけれど、彼女はあまりそういうものを使わない。
ノンナと、それからミカはいつもいい香りがする(そしてルカからはいつもポップコーンの匂いがする)。
これもジャコウネコ科の獣人の身体的特徴の1つらしい。なんでも、ジャコウネコ科の獣人は尻尾の付け根、お尻のちょっと上の辺りに”臭腺”という器官を持っていて、そこで匂いのする体液を生成しているのだとか。
普通のジャコウネコ科の動物はそこから体液を分泌して自分の縄張りを主張したり、相手を威嚇する際に使用する習性があるらしいんだけど、獣人の場合はそんな事はしないので体液は汗やその他の老廃物と一緒に身体の外へ排出される。
結果的にそれが体臭になるので、ジャコウネコ科の獣人はいつも良い香りがするんだとか。
匂いにも個人差があって、ノンナであればオレンジの香りがするし、ミカはバニラみたいな香りがする。そしてルカはいつもポップコーンの匂いがする。
ああ、そういえばサーロの缶詰も買ってくるように頼まれてたっけ。
「ノンナ、最後にサーロの缶詰も買っていきましょ。これは……10個ね」
「はーい!」
サーロはどこかなー、と尻尾を振りながら缶詰を探し始めるノンナの後ろ姿に、本当にこの子純粋で可愛いなぁ、という気持ちが湧いてくる。
例の転生者殺しの一件以降、ノンナは私によく懐いてくれた。死にかけていた彼女を手当てしたのが私だったというのもあるんだろうけど……今ではギルドの皆とも仲良くなってるし、ノンナも私を”カーチャお姉ちゃん”って呼んで慕ってくれているので、なんだか妹が出来た気分になってしまう。
商品棚に並ぶサーロの缶詰は随分と安かった。イライナでは大人気の商品で、イライナに住むコサックもこれを好んで保存食とするって聞いている。それ以外にも軍用食として採用されているし、イライナ人もこれを保存食として好み、冬の間の備蓄にする。
ちょっと塩辛いけど、パンと一緒に食べたりスープに入れたりして食べると美味しいのよね。父さんはよく焼いたサーロをつまみに安酒を飲んでいたけれど。
けれども帝国でサーロをやたらと消費するのはイライナくらいのもので、ノヴォシアやベラシアでは受容こそあるけれど、イライナほどの消費量ではないというのが実情。だからなのか、イライナよりもノヴォシアで買うサーロの缶詰はイライナで買うより3割ほど安値だった。
イライナ人としてこれはありがたい。財布にも優しいし、量も確保できる。冬への備えが必要な時期に少しでも節約できるというのは、これ以上ないほど嬉しい事だった。
「はい、1500ライブルね」
缶詰をカウンターへと持って行き、100ライブル硬貨を5枚支払ってから店を後にした。
「えへへー。いっぱい買っちゃったねぇお姉ちゃん」
「そうね。でも全部食べちゃダメよ、缶詰とかは冬に取っておくんだからね」
「うん大丈夫、分かってるって。あ……でもお兄ちゃんがパクついちゃうかも」
「あー……ルカも成長期だしねぇ」
ルカは最近、食欲が増えた。
そして比例するように身長もぐんぐん伸びた。昔は150cmちょっとくらいだったのに、今はもう既に175cmにまで伸びているし、信じがたい事にまだ身長が伸び続けている。訓練を受け始めた事で身体も本格的に男性的な身体になりつつあって、最近ではもう一昔前みたいなモフモフのケモショタ感は鳴りを潜めていた。
あの調子じゃあ2m超えるんじゃないか、ってパヴェルが言ってたけど、本当かしら……でもまあ、ビントロングはジャコウネコ科の中でも最大の種って言われているし、その遺伝子がルカにも反映されているのならば有り得ない話ではないとは思うけど。
「私も成長期だもん!」
むふー、と胸を張るノンナ。確かにノンナもじわじわとではあるけど身長が伸びていて、この前なんかミカより大きくなって大喜びしていた(そしてミカはショックを受けていた)。
「そうねぇ、どこまで大きくなるかな?」
「ええとねぇ……んー、クラリスさんくらい?」
「ちょっとそれはデカすぎるんじゃないかしら」
いや、身長の話よね? 身長の話してるのよねこの子?
そんな感じでキャッキャしていたその時だった。
「あーそこのお姉さん」
「?」
傍らの露店から何やら良い香りがするわね、と思っていた時に、中年の男性から声をかけられた。露店の奥にあるパイプ椅子に腰を下ろした、イタチの獣人の男性だった。
どうやらその露天ではコーヒーを売っているらしく、労働者が飲んでいるような安くて雑味まみれのコーヒーから、世界各地の珍しいコーヒーまで揃っていて、ちょっと興味を引かれてしまう。私コーヒー好物なのよね、特にブラックが。ミカは思い切りミルクと砂糖を入れて甘くしないと飲めないって言ってたけど。
何かしら、と思ってノンナと手をつないだまま露店の方に足を運ぶと、店主の獣人男性は親しげな笑みを浮かべながら言った。
「どう、コーヒー買ってかない? 珍しいのあるよ」
「珍しいコーヒー?」
「そう。ほらこれ、”コピ・ルアク”! 聞いた事ない?」
「あー……なんだっけ」
聞いた事がある……前にパヴェルがなんかやらかしてイルゼにしばかれてた気がする。
そうだ、コピ・ルアクって確かジャコウネコにコーヒーの実を食べさせて、糞と一緒に出てくる未消化の種を使うっていうアレだ。
確か前、パヴェルが「ミカにコーヒーの実を食べさせれば自家製コピ・ルアクが作れるのでは?」などと言いながら籠一杯のコーヒー豆をミカに食べさせようとして、シスター・イルゼに思い切りしばかれた事件があったっけ。
ああそうかアレかぁ、と思っていると、店主が説明を始めた。
「南方諸国に生息しているジャコウネコにコーヒーの実を食べさせて、その糞に混ざってる未消化の種を洗って作ったコーヒー豆だよ。香りが良くて雑味もない上品な味わいなんだ。ジャコウネコの皆さんには感謝だねぇ」
「……」
隣で説明を聞いていたノンナが、不安そうに私の後ろに隠れた。
何か恐怖でも感じたのか、それは分からない。けれども彼女の小さな手は震えていて、くりくりとした目は見開かれていた。
ジャコウネコ科の獣人は警戒したり怒っている時は目を見開く癖がある(ミカもそうだった)。
大丈夫よ、と小声でノンナに言いながら手を握り返し、店主に向かって言う。
「んー……ちょっといいかなぁ」
「あらら、それは残念」
興味が湧いたらぜひ、という店主の声を背中で聴きながら、ノンナと手を繋いで帰路についた。
「香水はいかが? 南方諸国から輸入した香水だよー!」
「コピ・ルアクはいかが? 滅多にお目にかかれない高級品だよぉー!」
「……」
「……ノンナ、大丈夫」
ぎゅっ、と腕にしがみついてくるノンナ。大丈夫だからね、と彼女を安心させながら、帰る足を少し急がせる。
なんだかおかしい―――先ほどから露店で売られているのは、気のせいかジャコウネコ関連の商品ばかり。
コピ・ルアクもそうだし、香水だって元を辿ればジャコウネコ科の動物の臭腺から採取できる体液を加工したものが原料になっている。採取の際には激しい苦痛を与えて動物たちを苦しめる事から近年では「動物虐待ではないか」「動物たちの兄弟たる獣人としてそれはどうか」という議論が巻き起こり、度々規制の話になっているのだとか。
そういう関係もあってコピ・ルアクやジャコウネコ由来の成分を用いた香水の値段は高騰する一方だと聞いていたけれど……。
値札を見て、私は訝しむ。
どれもこれも500ライブル前後という格安の値段で売られているのだ。
本来ならば安くても9000ライブル、高騰した近年では15000ライブルはくだらない供給品なのに、何故そんな破格の値段で売れるのか。
何か裏があるんじゃないか―――違和感を感じながらも人気の少ない路地へと差し掛かったその時だった。
ゴトッ、と2つ、足元に何かが落ちてくる。
最初は子供がいたずらで石でも投げつけて来たのかと思ったけれど、石畳の上を転がる2つのそれを見た途端に私は目を見開いた。
白い布でぐるぐるに巻かれた、野球のボールくらいのサイズの丸い物体。プシュ、と白い煙が噴き上がりもしや爆弾か、と咄嗟にノンナを庇おうとした次の瞬間、私の左の脇腹に鈍い衝撃と、蹴り上げられる感触を覚えた。
目を見開くと同時に呼吸が詰まる。お姉ちゃん、というノンナの悲痛な悲鳴。
石畳の上を転がりながらも、私はノンナへと手を伸ばす。
こっちへ駆け寄ろうとするノンナの小さな身体が、しかし煙の中から伸びてきた大きな2つの腕に絡め取られ、そのまま真っ白な煙の中へと引きずり込まれていくのを私は確かに見た。
彼女の悲鳴がどんどん遠ざかっていく。
いけない、と歯を食いしばりながら立ち上がろうとする私の目の前に、けれども粗末な素材で作られた棍棒が迫っていて―――。
ゴッ、という鈍い音と同時に、私は意識を手放した。
射撃訓練の終わりを告げるブザーが鳴った。
スコアは最高記録を更新、着々と腕を上げている事を実感しながらAK-102からマガジンを取り外す。コッキングレバーを引いて薬室内の残弾を抜弾、内部に弾丸が残っていない事を確認し、念のためレーンに向かって空撃ち。
AKが完全に無害化された事を確認してから安全装置をかけ、銃口を降ろした。
ミカ姉が力を求めた理由が、今の俺にはよく分かる。
俺も今、力が欲しい―――ノンナを、血の繋がらない妹を守るための力が。
力さえあれば妹に迫る外敵の脅威を打ち払える。だからどんな力でも良い、外敵を―――外からの脅威を寄せ付けない圧倒的な力を、俺も身に付けなくては。
そのためにはミカ姉みたいにいっぱい努力して、勉強もしないといけない。超えるべき壁はたくさんあるのだ。
頑張らないと、と決意を新たにしながら射撃訓練場を後にし、武器庫にライフルを返却しようとしていたその時だった。
ばたばたと騒がしい足音が迫ってくる気がして視線をそちらへと向けると、モニカが息を切らしながら3号車へと駆け込んできた。
「モニカ?」
「あ、ルカ! 大変よ、ノンナとカーチャが!」
「え」
ノンナとカーチャの身に何が?
確かあの2人は今日の買い物当番で出かけてるはず……。
「さらわれたのよ、ノンナが!」




