学術の地へ
「全く、お前は何を考えているのだ!」
怒り心頭といった感じで、病室のベッドの傍らに腰を下ろしながらリンゴの皮を剥くエミリア。ぷんぷんと頭から煙を出さんばかりの勢いで怒っているにもかかわらず、その手つきは随分と器用なものだった。面白いくらい綺麗に皮を剥かれ、うっすらと黄色い内面を晒していくリンゴを凝視していると、妻の紅い瞳にぎろりと睨まれる。
ああ、蛇に睨まれた蛙ってこんな心境なのだろうな……と思いつつ「すいませんでした」と平謝り。もちろんそんなもので彼女の怒りが収まる筈もないが、意外な人物が助け舟を出してくれた。
「まあまあエミリア。彼のおかげで造船所にはあまり大きな被害が無かったんだ。いいじゃないか」
「だがなぁジョシュア……」
はっはっは、と笑いながら言うジョシュアに怒りの矛先を見事に挫かれ、何とも言えぬ顔でエミリアは皿の上に切ったリンゴを置き始めた。
幸い、造船所に殆ど被害はなかったらしい……戦闘の余波を喰らった設備が傷だらけになったり、工具がぶっ飛んだり、安全作業を呼びかける啓発用の看板がコンクリートの床にぶっ刺さったりと、さながら台風が暴れに暴れたかのような惨状だそうだが、造船所を片付ければ1日の遅れ程度でアルゴノートの建造は完了する見込みらしい。
腕一本の骨折という対価だけでこの結果を導いたのならば上出来だろう。エミリアとしては、それが不満なようだが。
はぁ、とエミリアは溜息をつくと、果物ナイフをそっと置いた。
「……確かによくやってくれた」
「エミリア……」
「だがな力也、妻としては……その、なんだ。夫であるお前の無事を何よりも願っているんだ。分かるか」
「……すまん」
「戦艦なんてまた作り直せばいい。膨大な手間暇がかかるが、金と設備、それから職人たちが居れば戦艦なんてすぐ造れるのだ。だがお前に代わりはいない。少しは自分の命を大事に扱え。私と姉さんを未亡人にする気か」
「……気をつける」
「そうしてくれ……それにしても、あんな戦いぶりを見せつけられると自分の未熟さを殊更意識させられてしまうな」
そんな事ないよ、とは言えなかった。今そう言って謙遜してしまったら、なんだか嫌味に聞こえるような気がしたからだ……エミリアはそういう不要な謙遜を嫌う人である。
それにしても……あの女はいったい何者なのだろうか。
あんなに腕の立つ剣士は初めて見た。倭国広しといえどもあれほどまでの使い手には出会ったことがない(雪船家の”ハナ”という娘が強いと聞いた事がある。いつか手合わせ願いたいものだ)。
命を賭しての真剣勝負、あれほどまでに滾る戦いは初めてだが―――しかしもし、あのまま戦い続けていたならば先に倒れていたのは俺の方だっただろう。あの女が手を抜いていたとは思えないが、しかし彼女にはまだ得体の知れない何かがある。
特に、肉体から溢れ出んばかりの怨念……人間の魂を喰らい、その身の内に封じていたとでもいうのだろうか?
「今回の襲撃の件、軍の諜報部も動いているようだが詳細は未だに掴めない」
「得体の知れない相手って事か」
そう答えると、ジョシュアは腕を組みながら首を縦に振った。
「だがあの襲撃者……俺は例の一件で一戦交えた、あの連中の同類と見ている」
「―――”テンプル騎士団”」
テンプル騎士団。
この世界の裏側で暗躍する、正体不明の武装勢力。
戦力の規模も、活動目的も総てが不明。ただ分かっている事はこの世界の技術水準を遥かに超越した未知の技術ばかりを持っている事と、恐ろしく手強いという事だ。
それに、あの女はこう名乗った―――『セシリア・ハヤカワ』と。
倭国系だとは思うのだが、しかし”ハヤカワ”か……実家の関係者ではないと思うのだが、しかしそれではどこかエミリアに雰囲気が似ていたあの目は何なのだろうか。
それにあの刀捌き。何かの流派のものではなく、我流剣術のようだった。刀の振るい方といい、距離の詰め方といい、少なくとも俺の知っている倭国の剣術ではない。我流の剣術を実戦の中で洗練させていったような、そんな戦い方だった。
何者だ、あの女は。
もう一度戦いたいという思いはあるが、しかしそれ以上に気味が悪い。
まるで彼女が遥か未来の世界からやってきて、全てを見透かしているような……上手く言語化できないが、これから先の運命を全て知っているかのような、そんな得体の知れない気味の悪さがある。
よもやこの世のものではないのではあるまいか……そこまで考えたところで、ぼんやりとしていた口にリンゴがぐいっと押し込まれる。
「もご」
「ほら、食え」
「えみりあふぁんえみりあふぁん、ほへへはひん(エミリアさんエミリアさん、俺怪我人)」
「うるさい、妻を心配させた罰だ」
「ほへー」
口を「~」←こんな感じにもっちゃもっちゃと動かしながらリンゴを咀嚼すると、エミリアは間髪入れずに次のリンゴをぶち込んでくる。なにこれ拷問?
もごごもごごと変な声を発しながら皿の上のリンゴを平らげたところで、エミリアは二つ目のリンゴの皮を剥き始めた。器用に皮を剥き、一口サイズにカットしてからそれを俺の口へと運ぶエミリア。今度はちゃんと食べる側の人の事を考えてくれているといいのだが、と思いながら口を開ける。
なんか雛鳥にでもなった気分だと思いながら待っていると、リンゴは俺の目の前にひょっこりと顔を出した菜緒葉の口へと吸い込まれていった。
ん? 菜緒葉? それ俺のリンゴ……。
「ん、甘みがあって大変美味ですね」
「あ、ああ……そうだな」
「待て菜緒葉お前どこから出てきた」
「ベッドの下に居ました」
「どこから出て来とんねんお前」
口を「~」←やっぱりこの形にしながらもっちゃもっちゃとリンゴを咀嚼する菜緒葉。彼女はハクビシンの獣人なので、果物とか甘いものが好きなのだとか。
いやいやそれ俺のリンゴ、と抗議しようとしたその時だった。
「あなたぁ~? ご飯作ってきたわよ~?」
ノックもせず、何とも眩しい笑顔を浮かべながら病室に入ってきたエリス。ニコニコしている彼女は鍋を抱えているのだが、その……なんだ、鍋からは腐った魚のような、とても人の食べ物とは思えない悪臭がするのだが。
あれ、なんか臭いを吸ってたら喉の奥がひりひりしてきたんだけどなにこれ。毒ガス? 毒ガスなの?
「ね、姉さん?」
「エリスさんそれはいったい……?」
思わず吐きそうになりながら鼻をつまむエミリアと、同じく鼻をつまみながら後退るジョシュア。リンゴをもっちゃもっちゃしていた菜緒葉はダメだったようで、病室の隅にある花瓶の中に向かって盛大に虹を吐いていた。
傍らにやってくるなり鍋の蓋を取るエリス。中には強烈な腐臭を放つ、謎の紫色の粘液が収まっていた。
ボコボコと粟立ってるんだけど何だこれ……ちょっと待て、今病室の外を飛んでた鳥が墜落してったんだけど?
「うふふ、バーラト王国の”カレー”とかいう料理を再現してみたの。スパイスも本場から取り寄せたものを使ってるのよ?」
ま た お 前 か
食 材 へ の 冒 涜
料 理 と は
劇 物 製 造 機
力 也 さ ん 特 攻
猛 毒 を 鼻 で 笑 う 劇 薬
国 連 制 裁 対 象
対 バ ー ラ ト 開 戦 不 可 避
カレーって確か……アレだよな、複数種類の香辛料を組み合わせて作る、あの香ばしい香りで濃厚な味わいの……。
それがなぜ、なぜ本場のスパイスをわざわざ取り寄せてこんなものを錬成するのだエリスよ。
視線で助けを訴えるが、エミリアは「すまん力也」と視線で拒否してくるし、ジョシュアに至っては病室の窓の向こうを見つめながら「あっ、あの雲羊さんに見える」なんてイケボで呟いてる。おいジョシュア? ジョシュア君?
「はいあなた、あーん♪」
「……あーん」
遺書、書いてくればよかった。
「ぶえっきし!」
「パヴェル?」
昼食のチキンカレーを頬張っていると、カウンターの向こうで自分の分のカレーを立ったままパクついて「んー……もうちょいスパイス足しても良かったかな」と自己採点していたパヴェルが盛大にくしゃみをぶちかました。風邪だろうか?
「いや、なんか……カレーで死にかけてる奴の電波を受信したもんでつい」
「???」
ん、どういう事?
カレーで死ぬ人って居るんだろうか。いや、プールいっぱいのカレーで溺れるとか、そんなギャグマンガみたいな展開になるか、あるいは「コイツだけはカレーで殺す」と狙った展開にでもしない限りカレーで死人は出ないと思うんですが(マジレス)。
サイドメニューのタンドリーチキンをフォークで口へと運ぶ。スパイスの香ばしさとジューシーな鶏肉の奥深い味わい。それに加えてこの食感がたまらなく美味い。
たまたま本場バーラト王国(※前世の世界でいうインドに相当する国家)の商人からスパイスを比較的安価に大量に購入できたので、んじゃあスパイスからカレーを作るかと気合入れて仕込みを始めたのが昨日の夕方。そして一晩寝かせて極上のチキンカレーを錬成したのがつい先ほどだ。
パヴェルって凝り性なのだろうか。つい何事も限界までこだわってしまうような、そんな性格なのかもしれない。
ヨーグルトとスパイスに漬け込んでからよーく煮込んだチキンを口へと運びながら、そんな事を考える。
さて、そんな俺たちの旅もそろそろ目的地へと差し掛かりつつある。
既に『コムスク』を出発し、ここから先は学術都市『ボロシビルスク』までノンストップだ。この調子だとだいたい3時間くらいだろうか。まあ東北新幹線で盛岡から東京まで行くようなもんだと思えばいいだろう(なお速度は130㎞/hであるが)。
ボロシビルスクに到着したら、しばらくはそこで情報収集になる。
あそこは帝国中の最新技術が集まる場所であり、魔術研究の最先端でもある。特にあそこにある『帝国魔術学園』には帝国だけではなく、海外からも優秀な魔術師たちが集まると聞いており、日夜魔術の探求が行われているのだとか。
魔術師の端くれとしては何とも興味深い話だが、それよりも知らなければならない事がある。
キリウ大公の子孫がどこにいるのか、だ。
イライナ独立のためにも、是が非でもキリウ大公の血脈に連なる人間を祭り上げなければならない。そうしなければ世界に、イライナ独立の正当性をアピールできず国際社会からの支持を得られなくなる恐れがある。
だから俺たちの肩にかかる使命は重大そのものだ。
そしてボロシビルスクには技術や魔術ばかりではなく、それらと共に膨大な情報が流れつくとされている。
表向きは華やかな技術と魔術の都―――そしてその裏では、決して表沙汰にはできないヤバい情報が山のように流れ着き、現地の情報屋たちによって高値で売り捌かれているという。
パヴェルが全力で調べても手掛かりすら出てこなかったキリウ大公の子孫に関する情報。ここまで徹底的な隠匿と抹消が行われているという事は、ノヴォシア側もキリウ大公の子孫をイライナ人によって探し当てられ、独立のために祭り上げられる事を警戒していたという事か。
あるいはキリウ大公の一派がノヴォシアの刺客から身を守るため、徹底的な隠匿を図ったか。
いずれにせよ、信頼できそうな情報屋を札束でぶん殴らない限りは分からない。
まあいいさ、金ならある。
問題は信用できる情報屋が居るかどうか、だ。
連中は金のためならば平気で噓をつく。だから大切なのは情報屋を厳選、信用できる筋の情報にのみ金を払う事。
この辺はパヴェルの嗅覚をあてにするしかなさそうだ……。
夏の香り。
暖かい風と共に流れてくる空気を胸いっぱいに吸い込んでいるうちに、やがて”それ”は見えてきた。
巨大な尖塔や煙を吐き出す工場の煙突、そして貴族の屋敷と思われる大きな建物。どれも建築様式は伝統的なノヴォシア様式のもので、けれども他の街とは明らかに違う。雪のように白く磨き抜かれたそれらは、まるでここから見ると精巧に作られた硝子細工のように美しく透明感があって、まるで神話の世界に迷い込んだかのよう。
都市の空には巨大な魔法陣が3つ、さながら天蓋のように緩やかに回転しながら浮かんでいる。
線路はずっと、その街へと続いていた。
学術都市『ボロシビルスク』―――帝国最高の技術と頭脳が集う、最新技術誕生の地。
そして俺たちが求める情報も、きっとこの巨大な街に眠っている。
是が非でも探し当てなければならない。
キリウ大公の子孫、そこに至るまでの情報を。
そうでなければ俺たちに―――イライナの民に、繁栄の未来などないのだ。
そう思うと運命を背負う肩が、ずっしりと重く感じられた。
第三十一章『闇より黒く、闇より深く』 完
第三十二章『学術都市』へ続く




