死の商人の密会
忖度なしに言わせてもらうと、イーランドで見る月よりも倭国で見上げる月の方が遥かに綺麗だ。
暗黒の夜空、星の海原の中に燦然と輝く黄金の月。しかしイーランドの首都ロードウで見上げる月はどうだろうか。黄金の月は確かにそこにあり、表面に浮かぶ模様は倭国のものと比較するとやや異なる(カニのように見える)が、それよりもまるで湯気で曇ったガラス越しに見ているように、ぼんやりと朧げに見えてしまう。
菜緒葉から聞いた話ではあるが、ロードウに無数にある工場から排出される排煙に含まれる有害物質のせいで、あのように月の光が曇って見えるのだそうだ。一応、この国にも環境を考慮し工場から出る廃棄物に対する規制はあるにはあるらしいのだが、それを律儀に守っている企業は一握りなのだそうで、その中でも最大手は造船業で海軍戦力を支えるペンドルトン・インダストリーと、陸軍を支えるアンダーソン・ファイアーアームズの二つ頭となっている。
なんともまあ、嘆かわしい事だ。
月を見上げながら、給料で購入した蓄音機から流れてくる音楽に耳を傾ける。ブツブツとノイズの混じるピアノの旋律は儚げで、ほんの少し指先が降れるだけで砕けてしまいそうな、そんな脆さがある。
「坊ちゃま」
「ん」
「ジョシュア様がお見えです」
「ああそうか……通してくれ」
「はい」
ペンドルトン家の屋敷、自室に用意されたベランダで月を見上げながらぼんやりとしていると、付き人の菜緒葉がそう報告してくる。もう来たのか、と思いつつ通すように言うと、しばらくして部屋のドアを開けて白いスーツ姿のジョシュアがやってきた。
ベランダに足を踏み入れるなり、「よう」と気さくに挨拶してくるジョシュア。俺も「時間通りだな、友よ」と返事を返して座るように促す。
「いやあすまんな、多忙なところを呼びつけてしまって」
「いいさ、他でもないお前からの呼び出しだ」
「そりゃあ嬉しいな」
「どうぞ、お茶です」
コト、とティーカップに紅茶……ではなく、倭国から取り寄せた緑茶を注いでそっと置く菜緒葉。いつもと違う香りと緑色の茶に、ジョシュアの顔が少し驚きを滲ませたものになる。
倭国とイーランドが関係を深め始めてからというもの、倭国の茶も輸出されるようになった。とはいえその数はまだ多くなく、未だに『極東の島国で飲まれている珍しい茶』という認識の域を出ないそうで、一部の物好きの富裕層が個人的に輸入して嗜む程度なのだとか。
一部の貴族はそれに角砂糖を入れて飲むらしい……紅茶に角砂糖を入れる感覚なのだろうが、しかし緑茶に角砂糖か。うーん……。
「これは」
「倭国の茶だ。緑茶は初めてかな?」
「ああ、聞いた事はあるが試した事はまだ」
「じゃあいい機会だ、是非堪能してくれ」
美味いぞ、と言いながらティーカップを口へと運ぶ。湯呑ではなくティーカップで緑茶を飲むというのもなんだか変な感じだが、これもイーランド流の飲み方なのだろう。
ジョシュアが人生初の緑茶を口にしたところで、本題に入る。
「―――で、どうだ。そっちにも行ってるだろ? 例のイライナ支援の話」
最近、軍需企業の間ではこの話題で持ちきりだった―――皆口をそろえて言うのだ。『北方に大口の顧客ができるぞ』と。
ノヴォシアはイーランドの、そして倭国にとっても頭痛の種だ。イーランドとしてはこのまま南下政策を推し進められればたまったものではなく、将来的に中央大陸への進出を考えている倭国としても、南下を続けるノヴォシアは無視できない。
だから両国とも利害が一致した事でこうして手を取り合い、ノヴォシアの切り崩しに躍起になっている。
そんな中、新たに一つの突破口が生まれようとしていた。
ノヴォシア帝国からの独立を目論む、イライナ地方の存在である。
聞いた話ではイライナは元々『イライナ公国』という独立国家で、大昔の戦争で強引に併合され、それ以降負担を強いられてきた歴史を持つ。それ故に反帝国感情は高く、帝国の力が弱まりつつある今になって独立の機運が高まっている事もあり、国内の独立派が主導して虎視眈々と独立の時を狙っているのだという。
そんなイライナから、”ロイド・B・リガロフ”という1人の冒険者を通してイーランドの軍閥界にコンタクトがあったのはつい最近の事だ。
独立のため、どうか支援をお願いしたい―――あのノヴォシアに一泡吹かせられる上に、大量の商品を爆買いしてくれるであろう大口顧客の出現に、軍事企業群は大いに湧き立った。
帝国議会もこれを承認、関連法案も今までにないほどのスピード採決で反対派を押し退け続々と成立し、それを受けてペンドルトン・インダストリーでも支援の一環としてドレットノート級戦艦の四番艦『アルゴノート』の建造がスタートしている。
本来ならば三番艦『エジンコート』で建造を打ち切ったドレットノート級戦艦だが、北方で苦しむ新たな友人のため、とわざわざ停止していた製造ラインを再稼働させてまで戦艦1隻の追加建造に踏み切ったのである。ペンドルトン家現代当主ウィリアム氏の本気度が伺えるというものだ。
とはいえさすがのペンドルトン・インダストリーも自国向けの軍艦生産に倭国向けの軍艦生産、それに加えイライナ向けの軍艦生産と三正面作戦ともなれば負担も大きくなる。倭国支援が疎かになれば両国の間に不信感も芽生えてしまうため、急遽人員を増員しつつ他社にも協力を要請し対応しているのだそうだ。
だから毎日造船所は大忙しである。
「そりゃあね、ご想像の通りこっちも大忙しだよ。倉庫に眠っていた在庫を総点検して状態の良い物をとりあえず第一陣として今朝イライナに送ったところだ。送金は既に受けている」
「早いな」
「フットワークの軽さがウチの取り柄だからね」
「それは実に頼もしい」
「しかし極東に続き北方か……世界中に武器をばら撒いてるな、我が国は」
「死の商人ここに極まれり、か」
自嘲気味にそう言うが、しかし今はそれが必要なのもまた事実だった。
相手には侵略の意図がある。そしてそんな相手に対し、対話による解決を探ってきたが万策尽きかけた。それでもなお、イーランドが「悪の帝国」と呼ぶノヴォシアの南下政策は止まらない。
ならばこちらも、武力を以て対抗する他ないのだ。武器無くしては侵略を止められず、待っているのは永き隷従の歴史である。
武器の重要性は、この俺も骨身に染みている。だから「武器を捨てて対話で解決するべきだ」という人間の言葉を、俺は信用しない。
あれは現実を知らない、無責任なペテン師の言葉だ。
武器によって作られる平和もまた存在する―――あの手の自称平和主義者は、そういった歴史を都合よく無視しているのだ。
「第二陣の準備も進んでいる。それと北部の第七工場、あそこも稼働を再開させるつもりだ。そうじゃなきゃ支援が追い付かん」
「みんなこぞってイライナに武器を送り始めているが、しかしイライナの紳士は支払える金があると思うか?」
「あるさ。何せあそこは”世界のパンかご”だ、知らんのか?」
「聞いた事はあるが……」
世界のパンかご―――それはイライナのほぼ全土が、世界で最も肥沃な土壌に恵まれている事に由来する。
平坦な土地も多い事から農業に適しており、帝国に併合されてからというもの、ノヴォシア帝国の食料自給率は一気に跳ね上がったという。あの広大な帝国の6~8割の食糧生産を担っているというのだから、その食料生産能力は恐ろしいなんてものではない。
「彼らはパンを恵まれる側ではなく与える側だ。仮に金が足りなくとも大量の小麦粉やら農作物で金の代わりにするだろうし、その分は政府から各企業に補助金が出る」
「それはありがたい話だ」
「それに……最近、そのイライナの独立を煽ってるリガロフ家が目立つようになってから、金の払いがやけによくなってるようでな」
「何か金蔓でも見つけたんだろうな」
「ああ。そしてノヴォシア側では、どうも悪徳貴族の関与している銀行を狙った犯罪が急増しているのだそうだ……イライナの金払いの良さとこの一連の事件、どうもタイミングが良すぎる気がしないか、友よ?」
「……多少の事には目を瞑るのもまた紳士的な振る舞いだ、そういう事にして置こうじゃないか」
「それもそうだ。いずれ、金はちゃんと支払われている。彼等は誠実な客だという事だ」
ジョシュアとそんな世間話をしながらも、頭の中に引っかかった名を少し深掘りする。
リガロフ……確かイライナの貴族、公爵家だったか。祖先は伝説の邪竜『ズメイ』封印に貢献した救国の英雄、イリヤーであるという。
独立の旗振り役はリガロフ家の長女にして現当主、アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァ。文武両道の才女で、光と炎の稀有な二重属性魔術師……それも光属性に関しては適正S+を誇るという逸材だ。それだけで軍事的な抑止力たり得る存在、まさに重石の如しである。
そしてその一族の末席にも、優秀な妹がいると聞いている。
ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ―――血盟旅団という冒険者ギルドを率い、ズメイの残滓を屠った英傑。奇しくも祖先イリヤーに重なるその活躍は、遥か海を越えこのイーランドにも、そして倭国にも轟いている。
アナスタシアの政治的手腕とミカエルの注目度、おそらくイライナはこの両者の活躍で上手く立ち回っているのだろう。民衆の支持を受けやすい英雄と、政治、軍事両方で優れた手腕を発揮する司令官。イライナは土壌だけではなく、人材にも恵まれているらしい。
英雄の一族、か。
一度手合わせを願いたいものだ。
ジョシュアとの密談が終わると、彼と入れ違いにベランダにやってきたのはエリスだった。
百合の花を模した髪飾りと、白を基調としたドレスが良く似合う。ドレスに散りばめられた蒼いアクセントはまるで海原のようで、落ち着いた雰囲気のあるエリスらしい選択と言えた。
「あら、お友達同士のお話はもう終わり?」
「まあ、ね」
俺の隣にやってきて、そっと左手を握るエリス。肩に頭を預けてきた彼女と、握り合う手の指を絡める。
柔らかく、暖かくて、優しい温もりに満ちた彼女の手。そのまましばらく互いの熱を確かめ合っているとエリスが顔を近づけてきたので、彼女の意図を察してそのまま唇を奪う。
軽く唇と唇を結びつけた後、今度はより深く、けれども静かに舌を絡ませ合った。
こういうのにはもう慣れた。我ながら頑張ったと思う。うん、菜緒葉に教えてもらった通りだけどアイツそういうのどこで学んだんだろ?
そっと唇を離すと、まだ名残惜しそうなエリスの顔がすぐそこにあった。
「可愛いよ、エリス」
「もうっ、生意気よ」
「あはは」
最近、エリスの子供っぽいところが愛らしく思えてきた。普段はあんなに凛々しくしっかりとした年上の女性だが、2人きりになると少し子供っぽくなったり、無邪気な一面を覗かせる。そのギャップも彼女の魅力なのだろう。
なんだかこのままベッドの方に行きそうな雰囲気になりつつあったが―――しかし夜風に混じって運ばれてきた何かが、それを許さない。
最愛の妻と互いを求め合っている場合などではない……直感が、確かにそう告げている。
「……」
「……あなた?」
残った左側のケモミミもピンと立った。
ざわ、と身体中で何かが騒ぎ出す。
なんなんだろうか、この気配は。
まるで―――何千、何万、いや、何億という数の人間が一斉に怨嗟を叫んでいるような、そしてその怨嗟をヒトの形をした器に押し込めてしまったような禍々しさ。悪霊を通り越して怨霊のようにも思えるそれの気配が、確かに感じられる。
「……エリス、造船所から作業員と警備員を引き上げさせろ」
「え、どうしたのよ急に」
「ヤバい奴が来たかもしれない」
「……ノヴォシアの密偵?」
「いや……」
なんだろう。
こんなにもヤバい気配がしているというのに―――なぜ俺は、ソイツとの戦いを楽しみにしているのだろうか。
傍らに立てかけていた愛用の大太刀『朱桜』を鞘ごと手に取り、エリスに告げる。
「―――もっとヤバい奴、だ」




