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北海の怪物


 1889年 8月11日


 北海


 イーランド海軍所属 戦艦『ジャガーノート』





 北海における領有権の件でイーランド帝国との小競り合いが始まったのは、つい最近の事ではない。


 何十年も前から、いや、この世界がまだ旧人類の支配下にあった頃から、ノヴォシアという北の大国とイーランドという西の島国は、この極寒の海の領有権を求めて鎬を削り合っていた。


 水産資源も豊富で、冬になれば海流に乗って様々な種類の魚が訪れるこの海域は両国の漁師たちにとっては格好の漁場であったし、それが生み出す経済効果も決して無視できないレベルのものである。


 が、しかし両国の狙いはそこではない。


 北海の海底―――そこには目が眩むほどの量の石油が眠っている事が、調査で判明したのである。


 工業が発達し石油の需要が急増した昨今にあっては、海底に、それも自国の目と鼻の先の海の底に眠る宝の山をみすみす見逃すなどと言う選択肢はない。そして島国であるがゆえに、自国の資源にも限りがあり、なおかつ大規模な海軍を保有するイーランド帝国にとっても石油供給減の確保は急務であり、北海へと石油の利権を求めて足を延ばしたのも当然のことであった。


 自国の海域を渡したくないノヴォシア艦隊と、北海支配を既成事実化し石油利権を手にしたいイーランド。両国の派遣した艦隊はこの北海を戦場に睨み合い、あるいは砲火を交わし、今日に至るまで小競り合いを続けている。


 そしてそれは、最新鋭の準弩級戦艦を派遣するまでに至っていた。


『No sign of enemies in the surrounding waters(周辺海域に艦影無し)』


 イーランド北方艦隊所属、ドレットノート級戦艦『ジャガーノート』の艦橋。備え付けられた伝声管から聞こえてくる見張り員の定時報告に満足しながら、戦艦ジャガーノート艦長”フランク・アーチボルド”大佐はティーカップを口へと運んだ。


 兎にも角にも、北海は冷える。


 真夏だろうとお構いなく、この海域には流氷が浮かんでいるのだ。ここをさらに北上すると氷に閉ざされた北極の氷の大地が広がっているのだが、そこはまだ目的の場所ではない。今はこの海域を実効支配することが先決であり、この海の底に眠る大量の石油を確保することこそが女王陛下からの至上命令であった。


 艦首がまた、波をかぶる。極寒の波濤に晒された前部甲板、その表面は月の光を受けてキラキラと輝いていた。海水をぶちまけられた前部甲板がこの低気温で凍り付いているのだ。


 イーランド海軍の戦艦のほぼ全てに言えることだが、艦首の反りがなく平坦な艦首及び前部甲板は、真正面に砲撃する際には有利に働く。だがしかし波を受けると艦首が海水まみれになりやすく、それはこの極寒の北海においては限りなくマイナスに作用していた。


「Captain, it is difficult to thaw the first turret(艦長、第一砲塔の解凍作業は困難です)」


 艦橋に上がってきた甲板長の報告に、アーチボルド艦長はため息交じりにそうか、と返す事しかできなかった。


 度重なる波濤の直撃とこの冷気を受け、第一砲塔や艦首側の兵装が凍り付いて使い物にならなくなっているのである。先ほどまでは手の空いた水兵たちが総出で前部甲板に厚着姿で出るや、携帯式のバーナーで砲身を炙ったり、ハンマーで氷を砕いたりして凍結した兵装の解凍作業をいたのだが、ノヴォシアの領海内へ足を踏み入れてからというもの、波が徐々に高くなり始め乗員が波にさらわれる危険が高まったことから、甲板長は作業の中止を言い渡していた。


 作業を続けろと言いたいところだが、女王陛下から預かった水兵たちを無駄死にさせるわけにもいかない。特に、海軍上層部が『ピクニック作戦』と呼ぶこの一連の挑発行動で死者を出したとなれば、海軍の一族である名門アーチボルド家の末代まで続く恥である。


「The first turret is now useless(これでは第一砲塔は使えませんな)」


「When I get back, I'll strongly urge the higher-ups to change the bow design. It's useless as it is(帰還したら、上層部に艦首の設計変更を強く打診しておこう。このままでは使い物にならんよ)」


 仰角0度での砲撃に、海軍上層部は過剰に固執するきらいがある―――確かに近年の海戦での戦訓で仰角0度での砲撃は近距離砲撃の際に有利であると結論付けられているのだが、主砲の進化を見ればやがて水平角度での砲撃戦が過去のものになっていくのは明白だ。


 主砲はより大きく、より大射程となるであろう。そうなれば仰角を大きくつけての砲撃が主流となり、仰角0度での砲撃など無用の長物となる。


 過去の成功体験に縛られ、いつまでも新しい情報を取り入れようとしない頭の固さは、帝国海軍の悪癖と言ってもいい筈だ。


 とにかく、一刻も早く所定のコースを回って帰港したいところである。今の状態でノヴォシア艦隊と遭遇するなど考えたくもないし、何よりこの海はこれ以上ないほど冷える。


 何気なく窓の向こうの星空を見上げた。産業革命以降、排気ガスでくすんだ帝都ロードウの空ではすっかり見えなくなった星空が、しかしこの海の上からでは克明に見える。あれはオリオン座だろうか……星を見つめていたその時だった。


 見張り員から、不審な報告が届いたのは。


『This is the aft mast. Bridge, can you hear me?(こちら後部マスト。艦橋聞こえますか?)』


「This is the bridge, what happened?(こちら艦橋、何があった?)」


 副長が伝声管に応じると、後部マストの見張り員は声を震わせながら言った。


『Something is coming from the sky behind our fleet, towards 6 o'clock(我が艦隊の後方、6時方向の空から何かが来ます)』


「What?(なに?)」


 空から、という報告に副長は眉をひそめた。


 6時方向、後方の海域からノヴォシアの偵察艦や小規模な巡視艦隊が接近している、という報告であればまだ分かる。いくら領海内に侵入しているとはいえ、さすがのノヴォシア側も警告なしにいきなり砲撃してくるような事はない筈だ。まず最初は発光信号での退去勧告、それに従わない場合は威嚇射撃―――向こうもイーランド帝国と事を構えたくはないのだろう、しっかりと手順を踏んでくる。そこは保証してもいい。


 だがしかし―――()()()とはどういう事か。


「Is it a flying dragon?(飛竜……でしょうか?)」


「Don't be stupid. There's no way the dragon could come this far with its cruising range(馬鹿を言うな。飛竜の航続距離でここまで来れる筈がない)」


 ここから最寄りのノヴォシア本土までは1100㎞も離れている。飛竜の航続距離は、個体にもよるが休憩を挟まなかった場合と仮定するとせいぜいが230㎞程度。どこかに足場になる小島や大きな流氷でもあれば話は別だが、とても飛竜の航続距離でここまでは来れまい。


 第一、ノヴォシアで調教され運用されている”ズミール”と呼ばれる種の飛竜は変温動物だ。極寒の地域に生息しているだけあって寒さには強いが、しかし長時間冷気に晒され続ければさすがに動けなくなってしまう。


 そんな飛竜を、行動不能になるリスクを承知でここまで飛ばすほど、ノヴォシア人も愚かではあるまい―――そこまで考えが至ったところで、後部マストの見張り員が更に信じられない報告を続けた。


『―――Ah, it's a ship! A ship coming from the clouds...!(ふ、船です! 雲の中から船が……!)』


「A ship?(船だと?)」


 まさかノヴォシアの新兵器か、と息を呑んだ。


 しかし、有り得ない事である。アメリア合衆国のライト兄弟が飛行可能な機械を研究しているという話は有名だが、まだ滑空と呼べるレベルのもので実用性とは程遠いクオリティであるという。それを差し置いて、大型の戦闘艦を飛行させるほどの技術を持つなどあり得ない事である。


 見間違いじゃないのか、と問い質す副長の傍らで、アーチボルド艦長は双眼鏡を片手に艦橋の左舷ウィングへと身を乗り出した。


 双眼鏡を覗き込み、暗黒に染まった雲を凝視する。


「―――Oh my god(馬鹿な)」


 宙を漂う巨大な雲。


 その一角を、巨大な舳先を思わせる金属の塊が突き破り、ついにその姿を晒したのである。


 一言で言うなれば、それはまるで肥大化したラグビーボールのような形状をしていた。


 船体各所に設けられた二重反転プロペラ付きのエンジンと、巨大な安定翼。艦首下部の前方には紅く発光するハニカム構造のガラスのような部位があり、おそらくはそこが艦橋や制御室の類なのであろう。まさに”宙を泳ぐクジラ”のようであり、遅れてウイングへとやってきた副長もその威容に息を呑むほどだった。


 船体下部には大小さまざまな武装が搭載されているのが見えるが、一番驚くべきなのはそのサイズであろう。


 目測ではあるが、推定で500mクラスはある。


 ジャガーノートですら全長160mクラスでしかない。帝国の威信をかけて建造された虎の子の戦艦でその程度なのだ、後方から接近してくる”空中戦艦”とも言うべき存在がどれだけ大きいかご理解いただけたことだろう。


「Captain, issue a warning―――(け、警告を―――)」


「No, it's too late!(いいやもう遅い!)」


 ここは既にノヴォシアの領海内だ。


 今まで彼らは義理堅く、手重通りに退去通告と威嚇射撃を行ってきたが―――もし彼らがいつも通りではなく、堪忍袋の緒が切れていたのだとしたら話は別である。


 ノヴォシア側には、領海内に侵入した()()を排除する合理的理由があるのだ。今まではイーランドと事を構えたくないからこそ穏便に済ませていただけであり、もしもう我慢しなくていいと向こうが判断しているならば、初手からこちらを攻撃してくる可能性は限りなく高い。


「The enemy's aerial battleship's weapons are directed at our fleet!(敵空中戦艦の兵装、我が艦隊を指向!)」


 他の見張り員が叫んだ。


 船体下部にある砲塔が、眼下の艦隊を睨む。


 それだけではない―――艦の外壁が展開するや、そこから艦内に収容されていたと思われる兵装が続々と顔を出し始めたのである。向こうが戦闘態勢に入ったのは明白であった。


 もはや一刻の猶予もなかった。


 やらねばやられる―――そんな言葉が脳裏に浮かぶと同時に、アーチボルド艦長は命令を発していた。


「Authorization to fire! Shoot them down!!(発砲を許可する! 撃ち落とせェ!!)」


 甲板に鳴り響くサイレンと共に、後部甲板に備え付けられた2基の30cm連装砲が砲身を重そうに持ち上げ始める。


 しかし、敵艦の速度は彼らの想定を遥かに超えていた。23ノットで航行するジャガーノートと護衛の駆逐艦4隻に追い付くや、砲撃準備が完了する頃には既にジャガーノートの真上にまで到達し、さながらフジツボのように無数の兵装が搭載された腹を彼らに晒していたのである。


 アーチボルド艦長は息を呑んだ。


 速過ぎる―――主砲の照準が追い付いていない。


 ごう、と重々しく風を切る音を発しながら、正体不明の空中戦艦はイーランド艦隊を追い抜いていった。水兵たちが砲塔上に備え付けられた速射砲のハンドルを回して空中戦艦に照準を合わせるが、しかし空中戦艦に更なる変化が生じた。


 きらり、と空が光った。微細なガラス片が日光を反射するのにも似た、刹那的で鋭い光。


 それを合図に―――あろうことか、空中戦艦の姿が艦首側から消え始めたのである。


 自分たちは夢を見ているのではあるまいか―――あまりにも現実離れした光景に度肝を抜かれるアーチボルド艦長たちの目の前で、艦隊の頭上を悠々と通り越していった巨大な空中戦艦はやがて完全に姿を消してしまう。


 風を切る音だけが痕跡となった北海の一角。アーチボルド艦長はしばし艦橋のウイングで立ち尽くしていた。


 ―――見逃された?


 あれだけの速力と重装備である。その気になればイーランド艦隊を撃滅する事も容易かっただろう。


 なのにそうせず、圧倒的な性能差を見せつけて姿を消した―――今回までは許そう、だが次はどうかなという無言の圧力のように思えてならず、アーチボルド艦長はいつの間にか震えていた自分の手の感触にやっと気付いた。


 世の中には、正真正銘の怪物が潜んでいるものである。





 


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― 新着の感想 ―
[良い点] 史実の英国海軍の戦艦は、少なくともKG5級までこの手の問題を抱えていましたね…伝統墨守と言うか頑固というか。北海では戦闘距離が短いので、あながち間違いでもなかったようですが。そして恐らくテ…
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