マチェスキー温泉 後編
「ふぇぇ~」
お湯に浸かりながら身体の力を抜くと、なんだかそのまま溶けてしまいそうな感覚がして、思わず脱力した声が口から漏れてしまう。
少し熱めのお湯にも身体が慣れてきて、身体中の疲労がそのまますっぽ抜けてしまったような気持ちよさがあった。願わくばここでこのまま一生を終えてしまいたい……とりあえずのぼせたり眠ってしまわないように気をつけつつ、目を開けて息を吐く。
確かに最近は色々あったし、こうしてリフレッシュする時間もなかったから、温泉に立ち寄ったのは良い判断だったかもしれない。カーチャの言う通り人間には機械と違って休息が必要で、いつまでもずっと働き詰めではベストコンディションは発揮できないのだ。
「ミカ、露天風呂行かね?」
「お、いいねいいね」
露天風呂、そういえば露天風呂もあるんだったなこの温泉。
お湯から上がって露天風呂へと続く扉を開けて外に出る。
熱めのお湯に身体が慣れていたからなのだろう、少し肌寒い感じはしたが、しかし決して不快ではなかった。むしろ火照った身体を良い感じにクールダウンしてくれているような感じすらしてしまう。
「おぉー!!」
一緒についてきたルカが、外に広がる露天風呂を見てそんな声を上げる。
山の斜面に沿うようにして階段状に広がる露天風呂。お湯の効能は同じようだが、しかし屋内の風呂とはまた違った良さがある。
こっちには俺たち以外に客はいないようで、殆ど貸し切り状態のようだ。
早速爪先からお湯に浸かってみると、さっき浸かってた屋内の大浴槽と比較して少し熱いような感じがした。外にある分お湯が冷えやすい事を想定し、少し熱めの温度設定にしているのかもしれない。
少しずつ体を慣らしながら最終的に肩までお湯に浸かり、身体から力を抜きながら空を見上げた。
「あ゛ぁ~……良い、これ良い……」
「う゛ぁ゛~……」
隣でルカも同じように背中を預けながらすっかり脱力している。
しかし髪が濡れているからなのだろうか、いつももっふもふでボリューミーな感じのルカが今日は一回りも二回りも小さく見えた。そういや転生前に実家で飼ってた猫もこんな感じだったなと少しばかり昔の事を思い出す。
そういえばイライナ地方にもあったな、こういう温泉が有名な街。『イブヴァンスク』だったか……名前は知っていたしどういう場所なのかも本で知識は付けていたが、実際に行った事はなかった。もしイライナに帰国して少し余裕が出来たなら、仲間や家族を連れて温泉旅行に行ってもいいかもしれない。
無事に全てを終わらせた後の予定を立てながら、とりあえず今はこの癒しを享受することにした。
少なくとも今は、今ばかりは、それ以外に何もいらないだろうから。
「―――ぷはぁー!」
一気飲みしたフルーツ牛乳のまろやかな甘さが喉の奥へ去っていく事に名残惜しさを感じつつも、空になった瓶を回収用の籠の中に入れて満足する。
やっぱり風呂上りって言ったらこれだよね……と言いたいところだが、実は転生前ミカエル君は小学生の頃まで牛乳が飲めなかったのである。どうしてもあの味と臭いが苦手だし、飲んだら飲んだで腹を下していた(体質的に合わなかったのかもしれない)ので、中学校に入学して克服した後もあまり好き好んでは飲まなかった。
ただコーヒー牛乳とかフルーツ牛乳は別だ。これは美味いし匂いも気にならないから別物だ。
「ふっ!」
「はっ!」
かこーん、かこーん、とリズミカルな音が休憩所の中に響き渡る。
休憩所の中に置かれた卓球台。風呂上りにフルーツ牛乳を満喫するミカエル君たちの目の前では、リーファとカーチャの卓球勝負が白熱していた。
延々と続くラリーからのリーファのフェイントを交えたスマッシュ。あまりにも鋭く、時にトリッキーなその猛攻にも素早く反応して受け流すカーチャの反応速度の速さにも驚かされる。
「卡迪亞,你乒乓球打得真好!(なかなかやるわね、カーチャ!)」
「何て言ってるか分からないけど……まあね!」
「あれ、範三は?」
両手でLサイズのコーヒー牛乳をこくこくと飲んでいたノンナが休憩所の中を見渡しながらふと首を傾げる。
ちょうど客が少なくなる時間帯だからなのだろう、大浴場も露天風呂も人が疎らで、休憩所に至っては血盟旅団以外に誰もいない状況。貸し切り状態だからこそ仲間の不在にも敏感になるというものだ。
さて、そんな休憩所に先ほどから範三さんの姿はない。
強烈なインパクトを誇る彼の姿がないのはだいぶ気になるところであるが……。
「ミカ姉知らない?」
「うーんとね、範三さんはサウナに入ってるよ」
「……え、ずっと?」
「うん、ずっと」
どうやら範三さん、サウナが気に入ったらしい……露天風呂に入ってる最中に興味本位でサウナに突入したそうなのだが、それからというものサウナと水風呂を往復している彼の姿を何度も目にしたのであれ多分相当繰り返し入ってると思う。大丈夫かなあの人、ヒートショックとか。
などと仲間の事を心配していると、休憩所にやっと範三が姿を現した。なんというか、まるで飼い主にたくさん遊んでもらって満足しているサモエドのようなスマイルを浮かべている。秋田犬の獣人なのに。
「ふー、”さうな”か。気に入った! パヴェル殿、列車のシャワー室にもサウナを増設してはいかがだろうか? 旅の疲れも癒せると思うのだが」
「サウナ? んー、近々改装するつもりだったしなぁ……やるか、サウナ」
「かたじけない!!!!!!」
範三の笑顔がグレードアップして仔犬みたいになった。何だコイツ可愛いんだが?
しかしサウナか、悪くない。子供の頃は蒸し暑くてあまり好きじゃあなかったけど、大人になってから家族で温泉旅行行った時にその良さに気付けたのが幸いだったな、と今になって思う。
休憩所の向かいにはお土産コーナーがあった。
少し休憩してからお土産コーナーに足を運んでみるが、土産の品ぞろえは思ったよりも豊富で、キーホルダーみたいなものからマチェスキー市のお菓子、それからノヴォシアでは珍しいものなのだろう、温泉卵まで網に入った状態で売られている。
「温泉……たまご?」
真っ白な網に入った状態で売られているそれをまじまじと見つめるモニカ。そうか温泉卵を知らないのか、と思いながらも簡単に説明しておく。
「温泉の熱で蒸して作った卵だよ。黄身と白身がとろっとしててバチクソに美味い」
「マジで? パヴェルこれ買っていきましょ!!!!!」
「何それ、温泉卵? あぁ温泉卵……いいなぁ」
温泉卵な……個人的にはやっぱり熱々のご飯の上に醤油と混ぜた温泉卵を乗せて卵かけご飯にして食べるのが一番シンプルで美味いと思う。冗談抜きであれは美味しい、アレさえあれば一週間頑張れる。
こっちには饅頭が……ってちょっと待て、ここ日本じゃないよね?
なんかここまで日本っぽい感じの温泉だと異世界転生したような気がしないんだが、実はここ日本でしたとかそんなオチじゃないよね、違うよね?
まあいいや、どうせ他の転生者が広めたんだろう。ありがたい事だ……慣れ親しんだ食文化に慣れ親しんだ環境に少しでも巡り合えるというのは、異国の地での生活が長いと本当にありがたく感じるものである。
財布の中身にも余裕あるし、今日は土産をどっさりと買っていこう。
その方が経済も回るだろ。
窓の向こうに見えるレンタルホームから、俺たちと同じく温泉でリフレッシュしてきたと思われる他の冒険者の列車が動き出し始める。これからボロシビルスク方面へと向かうところなのだろう。
苛酷な旅路へと再び漕ぎ出していく同業者を手を振って見送ると、向こうの客車に居た数名の冒険者が笑顔でこっちに手を振り返してくれた。名前も知らなければ話した事もない赤の他人ではあるが、願わくば彼らの旅路が安全なものでありますようにと祈っておく。
ジョイント音の感覚がどんどん短くなっていき、警笛の音を高らかに響かせながら隣の冒険者の列車がマチェスキー駅を発った。
彼らが先発列車だ。信号が変わり次第、今度は俺たちが出ることになる。
《間もなく、5番レンタルホームから血盟旅団の列車が発車します。お見送りの方は黄色い線の内側までお下がりください》
血盟旅団、という名前を聞いたからなのだろう。在来線のホームを歩いていた観光客の一部がこっちを振り向くや、大きく手を振ってくれた。
今や俺たち血盟旅団の知名度はかなり高くなっている。期待の新星だとかなんだとか、色んなところで噂されているのだそうだ……大なり小なり尾びれもついて、である。
手を振り返していると、車内に壮大な感じのメロディが流れ始めた。スピーカーから流れるチャイムやらなにやらは、パヴェルが暇な時にアプリを使って作曲しているのだという。何というか、多才というか……。
《えー、信号が変わり次第発車します。当列車はキリウ発、ボロシビルスク行きです。ツァリーツィン、モスコヴァ、リュハンシク方面行きのお客様はお乗り換えとなります、ご注意ください》
馬鹿真面目に乗換案内してるの草。乗り換える人いるのかとは思ったが、まあ鉄道の旅してる気分にもなるし雰囲気は出るから良いんじゃないかな(?)。
《運転手さんどうぞー》
《はい運転手》
《こちら車掌ですー、信号変わりました。信号ヨシ、安全ヨシ、出発ヨシ》
《了解、発車しまーす》
ルカとパヴェルの無線のやり取りの後、ぐんっ、と列車が動き始めた。ホームの景色がどんどん右へと流れていき、動き出した列車が加速を始める。
ホームの景色が終わり、騒音を市街地へ波及させないための防音壁がいくらか続いた後、窓の向こうの景色が開けた。建物の密度がどんどん小さくなっていき、疎らになったそれはやがて広大な畑へと姿を変え、やがては人の手が入らぬ草原や林へと移り変わっていった。
マチェスキーの町を出た頃には列車もぐんぐん加速していき、推定ではあるが130㎞/hという特急みたいな(あるいは在来線区間を走る秋田新幹線みたいな)速度で走り始める。
それにしても良かったなぁ、温泉……。
またいつの日か、来る機会があったら訪れたいものだ。
「ヘイおまち!」
「おぉ~!!」
ことん、と食堂車のテーブルの上に置かれた夕食に、思わずそんな声が出た。
今日の夕食はまさかのイタリアンのようで、大きめのお皿の上には黄金に輝くソースとよく絡んだパスタの麺がくるりと丸くなった状態で乗っていて、更にその上には今日温泉で買ってきたばかりと思われる温泉卵が乗せられている。
パヴェル特性のカルボナーラ、マチェスキー産温泉卵のトッピング付きという美味さを保証された贅沢極まりない逸品に、兎にも角にも期待が高鳴る。
両手にフォークを持ってテーブルをドンドンやっていた行儀の悪いモニカの目の前にも特性カルボナーラが置かれ、彼女は「うっひょー!!!」なんて女の子が発するとは思えない声を出しながら目をフラッシュバンの如く輝かせる。コイツ人間か???
「安心しろ、対モニカ用に食堂車の窓はアクリルガラスと特殊防弾ガラスの二重構造にしてある。たかが300dB程度じゃあどう頑張っても割れないぞ」
「じゃあ叫んでいいってわけ!?」
「隣人の鼓膜と要相談な?」
とりあえずモニカの向かいにいるので耳栓を装着しておこう。ハイこれクラリスの分ね。
「いただきまーす」
すっ、と温泉卵にフォークを入れた。
とろりと黄身が流れ出し、ソースとよく絡んでいたパスタに更なる黄金の彩を加える。
フォークでパスタを巻き取るようにしてから口へと運ぶと、もうお口の中が楽園だった。濃厚なチーズの旨みに卵の風味が合わさり、適度な硬さを残したパスタが食感にアクセントを散りばめる。
素材の風味、味の濃さ、食感。どれをとっても合格点を遥かに上回るその逸品に、向かいのモニカが目をカッと見開く。
「うっっっっっっっっま!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
耳栓が砕けた。
まるで手榴弾でも起爆したんじゃないかと思ってしまうほどの音圧と衝撃波。びりびりと伝わるそれに、対モニカ用にと二重構造にしてある特殊ガラスに亀裂が生じたかと思いきやそのまま砕け散り、ビュォォォォォ、と外から猛烈な風が流れ込んでくる。
あのー、モニカさん……モニカさん?
「嘘……」
自慢の窓ガラスが敗北したのが衝撃だったようで、パヴェルは呆然としていた。
いやいや、そんな事よりも、だ。
モニカ……お前の声帯マジでどうなってんの?




