救われた者たち
どこまでも続く青空の下には、鏡のように空の色を映し出した広大な湖が、どこまでも続いていました。
陸地は見当たらず、どこまでも蒼と白だけが続く幻想的な世界。遠くの空には大きな入道雲が浮かんでいて、このまま空を見上げていたらいつか魂が抜けてしまいそうな、そんな感覚すら覚えました。
空と湖、それから雲以外に何もない空間だからこそ、私以外の存在にはいち早く気付く事が出来ました。
湖の上に立ちながら、笑顔でこちらを見つめて大きく手を振る人影の存在に。
間違いありません、デリアちゃんです。
彼女が―――6年前と何も変わらない姿で、そこに居ました。
左手には一冊の本を持っています。見間違う筈もありません、あれはあの時―――彼女の葬儀の時、花と一緒に棺に納めた恋愛小説でした。せめて天に召されたデリアちゃんが退屈しないように、天国でも好きな本に囲まれて過ごせますようにと祈りを込めて棺に納めた、私の私物です。
よく見ると栞がほんの半ばほどに挟まれていて、ああ、読み進めてくれているんだなという事が分かりました。
目頭が熱くなり、彼女に気付かれないように指先で雫を拭う私に向かい、デリアちゃんは何か言葉を紡ぎました。
何と言っているのか、その声は聞こえません。
けれども唇の動きから、何となくその言葉が分かりました。
ありがとう―――そう言っているように思えたのです。
あの時の姿のまま礼を告げたデリアちゃんは、やがて何かに導かれるように踵を返すと、そのまま水平線の彼方へと向かって歩き始めました。
もう、帰る時間なのです。
死者はいつまでも現世に留まっていてはいけない。生者もまた同じです。死者の世界の住人と、いつまでも一緒に居てはならないのです。
だからこれが、彼女との最期のお別れ。
次に逢う事があるとすれば、それはきっと私が向こうへ渡った時なのでしょう。
その時はきっと、私は皺が浮かび腰の曲がったお婆さんになっていると思いますが……デリアちゃんは気付いてくれるでしょうか。
涙を堪えながら、私はデリアちゃんの小さな背中が水平線の彼方へ、はるか遠くに浮かぶ入道雲の麓へと消えていくその時まで、ずっと見送っていました。
「そうかい……死者の蘇生、降霊術……そんなおぞましいものがねェ」
報告書を読みながら、パヴェルはバケツみたいなでっかい缶詰の中に詰め込まれていたイクラをスプーンで掬い上げて口へと運んだ。
ノヴォシアやイライナでは、イクラはポピュラーな食材だ。とはいっても塩辛すぎるのでミカエル君はあまり好きではないのだが……あれくらい塩辛い方がアルコールのお供にはちょうどいいのだろうか?
ぐいっとウォッカの酒瓶を煽ったパヴェルは、報告書を自室のテーブルの脇にそっと置いた。
「ともあれ、お疲れ様。これで一件落着ってところか?」
「ああ。願わくば、この一件で救われたと願いたいね……デリアも、そしてイルゼも」
きっとイルゼは、デリアを手にかけてしまった一件でずっと苦しんでいたのだろう。今思えばここまでの旅路の中で、彼女が心の底から笑っていた事は無いような気がする……いつもどこか一歩距離を置いて、笑いたいけれど自分なんかが笑っていいのか、今の人生を謳歌していいのかと自問自答するような、何とも言い難いぎこちなさがあったように思えてならない。
それはきっと、過去に囚われていたからなのだろう。
デリアの一件という、辛い過去に。
「お前は優しいな」
酔いが回り始めたのだろう、アルコールで顔をうっすらと赤くしながらパヴェルは言うと、山盛りのイクラを口の中に放り込んでもっちゃもっちゃと咀嚼し始める。
よく言われる事だ。優しいだのお人好しだの……そろそろ聞き飽きてくる頃ではあると思う。
「まあいいさ、お疲れ様。明日の朝には出発するから今日は早めに休んどけ」
「そうするよ」
そんじゃおやすみ、と言い残して彼の部屋を出た。
気のせいだろうか―――「あの時、お前みたいな奴が居てくれたらな」とパヴェルが独り言を発したように思えたのは。
コイツも相当闇抱えてるな、と思いながら、ひとまず彼の部屋を後にした。
窓の向こうはすっかり暗くなっている。在来線のホームでは今しがた、特急列車が通過線を通過していったところだった。おそらくモスコヴァに向かう列車なのだろう。
階段を上がって2階へと上がる。
血盟旅団の列車にある客車の内部は左右非対称になっている。通路が左側に配置され、右側に個室がいくつも連なっている構造になっているのだ。日本の列車よりもサイズが大きい車両である事もあって、一般的な寝台列車と比較すると個室の中のスペースにはだいぶ余裕がある(それでもビジネスホテルの一室くらいではあるが)。
部屋には洗濯物を今まさに畳み終えようとしているクラリスと、ソファのところに横になってごろりとしながらマンガを読み漁っているモニカ、それからなんか占いの本を読んでるリーファの3人が居て、もともと2人部屋である事を想定して用意された寝室がかなーり手狭になっている。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「ただいま」
「あら、遅かったじゃない」
「ダンチョさん、お疲れ様ネ」
何を思ったか、ミカエル君のパンツをニヤニヤしながら畳むクラリスが一瞬だけ視界の端に映った気がした。そう言えば最近俺のパンツが2着ほど行方不明になってるんだが……まさかね……?
洗濯物を畳み終えたクラリスから真新しい着替えを受け取って、そのままシャワールームへと向かった。どうやらシャワーが済んでいないのは俺だけらしい(まあパヴェルに報告しに行ってたりしたからそのせいもあるのだろうが)。
しかしこれ、何なんだろう。
小さい時からなんだが、どうして下はともかく上着を脱ぐと胸元に謎の光が生じるのだろうか……そう、アニメを見慣れているアニオタ諸氏ならば親の顔よりも見たであろうあの謎の光。TV放送版では青少年の健全育成への配慮からえっちな部分が規制で隠されたりする事があるが、その時に大活躍する例の謎の光である。
それがミカエル君の胸元にも発生しているのだ……うん何故???
俺男だから別に上はいいんじゃ……と今頃どこかでニヤニヤしているであろう飛んでいったかと思いきやまた戻ってくるミサイルの不良品に心の中で抗議しつつ、手早くシャワーを済ませて部屋に戻る。
髪をタオルで拭きながら部屋に戻ると、パジャマ姿の3人が部屋の中で待ち構えていた。
ん、待ってなにこれ怖い。
「さあご主人様、クラリスと一緒に寝ましょうか」
「ミカ、たまにはあたしと一緒に寝てもいいんじゃない?」
「ダンチョさんもふもふしながら寝たいネ、たまにはワタシと一緒に寝るヨ」
「え、え?」
待って、何でこうなる?
「ご主人様ったら、最近はクラリスを差し置いてイルゼさんとばかり……」
「いやあれは彼女のためにだな……?」
「寂しいですわ、クラリスのミカニウム残量は既に危険レベルです」
「なんだよミカニウムって」
勝手に変な化学物質作り出すな。何だそのもふもふしててバニラの香りがしそうな化学物質は。
「さあご主人様」
ミカエル君の手をちょっと強引に引っ張るクラリス。それに待ったをかけるように、モニカが反対の手を引っ張った。
「ぐえ」
「ちょっと待ちなさい?」
「あら、何か異論でもありますのモニカさん?」
「あのね、クラリスだけミカを独占してずるいと思わない?」
「クラリスはご主人様のメイドですの。ですからご主人様の身の回りのお世話をするのは当然の事ですわ」
「たまにはあたしもミカと一緒に寝てもいいわよね?」
「え? でもモニカさん割と肉食ですし、ご主人様の事を食べてしまう恐れが……」
「食べないわよ!」
「えっちな意味では?」
「……」
オイコラ黙るな、そこで黙るんじゃない。
「ま、まあいいでしょ? 今日だけ、今日だけ! ね?」
「ダメですわ、そんな先っぽだけみたいな感じで言ってもダメです。ご主人様はクラリスが食b……お守りしますわ」
「今何つったお前?????」
あれ? もしかしなくてもミカエル君の貞操だいぶ危ない状況なのかなこれ?
これは逃げた方が良いのでは、と後ずさりしたミカエル君の後頭部に、ふにょんと柔らかいリーファの胸が当たる。
「あ、あはははは……に、にーはお」
「我絕對不會讓這麼可愛的女孩逃走的。哈哈哈哈哈哈(こんな可愛い子を逃がすわけないじゃないの。あはははは)」
なんて言ってるか分からんけどヤバい事だけは分かる。
うん、間違いない。コレこのままここに居たら間違いなく食われるわ俺。
童貞としてはね、嬉しいんだけどなんというか、お前それでいいのかとその……倫理観との葛藤とか、あとこれR-15の範疇で収めないといけないやつだからそれ以上いけないわという都合があってだね、素直に「初めてだから優しくしてください」なんて言えないのである。
そんなこんな葛藤をしている間に、背後から忍び寄ったリーファに両腕をがっちりとホールドされてしまうミカエル君。ぐっ、ぐっ、と力を入れてみるけれど、まるでコンクリートで塗り固められたように両手が動かない……待ってお前、ちょ、力強っ……!?
「うふふー、逃がさないヨー♪」
「ぴえっ」
「もふもふ~♪」
「ちょっとリーファ、ダメよ抜け駆けは!」
「そうですわリーファさん、離してくださいまし」
そうして始まるミカエル君争奪戦。クラリスもモニカも手やら足をぐいぐい引っ張り始め、ついには3人とも至近距離での押し合いへし合いに発展してしまうわけなのだが、クラリスのGカップのおっぱいとモニカのCカップのおっぱい、それからリーファのFカップのおっぱいに三方向から押されて幸s……いやフツーに窒息しそうになる。むぎゅう。
どさくさに紛れてすぽんと下に抜けたので、3人がぎゃーぎゃーやり合ってる間にこっそりと部屋を出た。なんか前にもあったよねコレ。
食われる一歩手前のところで何とか逃げ出し、パジャマ姿で廊下に転がり出たミカエル君。さてこれからどうしたものか、と溜息をついていると、トイレにでも行った帰りなのだろうか、パジャマ姿のシスター・イルゼと目が合った。
「あっシスター」
「あれ、ミカエルさん? まだお休みになっていなかったんです?」
「ええと……部屋の中がちょっとね」
「え? あ、あぁ……」
部屋の中のぎゃーぎゃーという喧騒で何があったのかを一瞬で察知したらしいイルゼ。どうしましょう、と少しだけ考えた彼女は、口元に笑みを浮かべながらそっと俺の手を取った。
「イルゼ?」
「でしたら私の部屋でお休みになってください」
「あれ、でもイルゼってモニカと同室じゃあ」
「大丈夫です、私と一緒ならモニカさんも手は出せません」
おーうすっげえ説得力。
気のせいだろうか、背後に般若が見えたような気がした。シスターなのに……。
まあでもそうだよな、好き好んで100tハンマーに殴られに行く奴はいないだろう。さすがのモニカでもそれだけは避ける筈だし、えっちなのは絶対許さないシスター・イルゼだからこれは信頼できそうだ。
誘われるがままにイルゼの部屋にお邪魔させてもらうと、中はアロマの良い香りがした。本棚もしっかりと整理されていて、小説やらマンガ(イルゼがマンガ読むイメージないからちょっと意外)が綺麗に並んでいる。
几帳面な彼女の性格がそのまま部屋の中に反映されているようだった。
「それじゃあ寝ましょうか、ミカエルさん」
「えっと、俺はモニカのベッドを使えばいいの?」
列車のベッドは基本的に二段ベッドとなっている。
この部屋ではイルゼが下、モニカが上で寝ているようだ。
「うーん……でも寝てる間にちょっかいかけられそうですね」
「ソーデスネー」
朝起きたら童貞卒業してました……何それ怖い。
ガチャ、と部屋のドアの鍵をかけるイルゼ。モニカが締め出されてんの草生えるんだけど。
「モニカさんの事です、ピッキングしてでもこじ開けてきそうですし、一緒に寝ましょう」
「え、イルゼと一緒に?」
「はい」
私が守ります、と言わんばかりに胸を張るイルゼ。パジャマに覆われたIカップのおっぱいがこれ見よがしに揺れた。
あれ、ちょっと待ってコレ。密室でこれってちょっと危ないのでは?
いやでもイルゼだし、下心なんて無い筈だし……イルゼ? イルゼさん?
「さあ、こちらに」
「お、お邪魔します」
先にベッドの上に寝ころぶと、退路を塞ぐようにイルゼもベッドの上に横になった。今のミカエル君は壁とイルゼのおっぱいに挟まれた状態……いやコレ拙いのでは???
まずい、寝れない。今日あんなに身体動かして疲労も溜まってるはずなのに寝れない。むしろ頭の中の二頭身ミカエル君ズが一斉に鼻血ブーしてしまって寝るどころの話ではないのだ。童貞に巨乳美女を至近距離まで近づけるのがどれだけ危険な事か分からんでもあるまいに。
あわわ、と尻尾もケモミミもぴーんと伸ばして困惑していると、イルゼは何を思ったか俺の背中に両手を回して、そっと抱き寄せてくれた。
「イルゼ?」
「ミカエルさん、今日はありがとうございました」
見上げると、そこにイルゼの顔があった。
心の奥底に沈殿していた何かが、あるいは枷のようなものが外れたかのような、そんな感じに思えた。
ああ、救われたんだ―――そう思うと、俺も安堵した。
「あなたのおかげです。手伝ってくれたおかげで、デリアちゃんも私も救われました」
「……あ、ああ。仲間だし当然だよ」
「ふふっ、お優しいのですねミカエルさんは」
そっとケモミミに口を近づけ、イルゼは囁いた。
「―――そういうところ、大好きですよ」
「ぇ」
それはどういう、という言葉を遮るように、ケモミミに柔らかい唇が押し付けられる。
背中に回した両手に力が入り、更に抱き寄せられるミカエル君。
アカンなにこれ、めっちゃいい匂いだし柔らかいし温かいしナニコレ。すいませんここの永住権ってどこ行ったら貰えますかミカエル君移住を希望したいんですが。
焼き切れそうになる童貞の思考回路。しかし頭上からは早くも寝息が聴こえてきて、見上げてみるとイルゼはもう眠りに落ちていた。
身体を通して聴こえてくるイルゼの心臓の音。それを聴いているうちに、俺も段々と眠くなってきた。
そっとイルゼの背中に手を回し、母親に抱き着くようにして瞼を閉じる。
願わくば彼女が、もう二度と悪夢にうなされる事がありませんように―――そう祈りながら、意識は微睡の中へと溶けていった。
翌日、鍵をぶっ壊し突入してきたモニカにより添い寝しているところを発見され、イルゼは『おねショタマスター』の称号を得ることになるのだが、それは別の話。
そして鍵をぶっ壊したモニカが半ギレのパヴェルに巴投げされる事になるのだが、それもまた別の話にしておこう。




