死の克服
最初に異常を察知したのは、嗅覚でした。
どこかつんとした、けれども不快かというとそうでもない微かな刺激臭。人によって好き嫌いが分かれそうなその臭いはおそらく、お香の類でしょう。
火葬前の遺体は、火葬の準備が整うまで棺に納めた状態でお香を焚いた部屋の中に安置します。お香を焚く理由は宗派にとって解釈が異なっていて、とある宗派では『死者を送り出すため』、またある宗派では『死者が好む香りだから』などの理由です。
エレナ教でもお香を焚きますが、その理由は『ゾンビ化を防ぐため』という合理的な理由です。サンダルウッドを始めとする複数の香木を組み合わせたお香は古くから死者のゾンビ化を防ぐのに効果がある、とドルツ諸国では信じられていました。
デリアの火葬の時もそうでした。彼女の棺が安置されていた小部屋の中にはこう、人間の腰くらいまで届く大きな壺が置かれていて、その中で香木が燃えていたのです。
段々とそれは、嗅ぎ慣れた香りである事に私は気付きました。間違いありません、これはエレナ教でも用いられている『還らずの香』です。先ほども述べた通り、サンダルウッドなどの複数の香木を組み合わせて作るお香です(地域によっては祝福祈祷を施す事もあるのだとか)。
地下へと続く階段を降りていった私は、かつて手術室として用いられていたであろう部屋の中に足を踏み入れます。
ガラス張りの壁の向こうは吹き抜け構造になっていて、ぐるりと円筒状の壁面に沿うように、真っ白なベッドがずらりと並べられていました。病院に使われていたものにしては随分と清潔そうで、おそらくは第三者が持ち込んだものなのでしょう。
ベッドの上に横になっているのはどうやら人のようです。
スマホを取り出し、カメラアプリを使ってズームアップ。カーソルが最大望遠になり、ベッドの様子がはっきりと映し出された途端、私の中には画面に映った光景に対する恐怖と憤りだけが残りました。
ベッドに寝かされている人たちは皆、血の気が感じられない真っ白な肌をしていました。血の巡りが止まって久しい様子―――そう、死者たちです。かつて生きていた人たち、今となっては天へと昇った魂の入れ物たる肉体がそこに寝かされているのです。
死者たちの身体はよく見ると機械に繋がれていました。何かのデータを取っているのか、それとも何らかの処置をしているのかは分かりません。ベッドの傍らには小さな壺が置かれていて、そこから煙が立ち上っていました……あそこでゾンビ化防止用のお香を焚いているのでしょう。
「……?」
永遠の眠りについた死者たちの顔を覗き込むようにして、ローブ姿の人影が死体からチューブを外している姿が見えました。あれが降霊術を使っている術者なのでしょうか?
一連の黒幕の姿が垣間見えました。叶う事ならばここから飛び降りて、彼を最寄りの教会に突き出してしまいたいところではありましたが、しかし逸る衝動を冷静沈着な理性が押し留めます。
相手が何者か、どれほどの戦力を持っているのか、情報が殆どないのです。相手の情報がない状態で踏み込んでしまえばどんな攻撃を受けるか分かったものではなく、最悪の場合は私もあのベッドで眠る死者たちの仲間入りをしてしまう事になるでしょう。
ミカエルさんは私がここに向かったという事を知っている筈。先ほどの襲撃社との決着がついていれば、今頃はこちらに向かっている頃でしょう……ここで待機しミカエルさんとの合流を待つべきなのかもしれません。これ以上の前進は危険です。
ふう、と息を吐き心を落ち着かせようとした次の瞬間でした。
パキ、と床に散らばるガラス片を踏み抜く音がすぐ近くから聞こえ、私は咄嗟に銃を構えました。
お香の香りが充満していたせいなのでしょう―――暗闇の中を巡回していたと思われる、ゾンビの接近に気付く事が出来なかったのです。
対アンデッド戦闘のプロフェッショナルことエクソシスト経験者が、なんという事でしょう。
大慌てでAPC9Kを構えるや、至近距離まで接近してきたゾンビの胸板にサプレッサー付きのそれを押し付け、引き金を引きました。9×19mm聖銀弾が立て続けにゾンビの腐乱し切った胸板を打ち据え、抉り、風穴を穿っていきます。
これが生きた人間相手であったならばどれだけの苦痛だったでしょう。どれだけ無残な死に方だったでしょう。
しかし相手はゾンビ、腐敗した歩く死体に過ぎません。言葉を発する事も無ければ恐怖を感じる事もなく、その顔が苦痛に歪む事もない。歩き、襲い、喰らうだけの屍なのです。
心臓を撃ち抜いてもなお、そのゾンビは止まりませんでした。噛み付かれこそしませんでしたが、覆いかぶさろうと体重を預けてくるゾンビの勢いを受け止め切れず、私はそのまま背後にあったガラス張りの壁をぶち破って吹き抜けへと転落していました。
視界が何度も右へ左へ、上へ下へと目まぐるしく切り替わり、ガラスの破片が床に散らばる音と背中に生じた鈍痛で、混乱の坩堝へ叩き落されつつあった意識が呼び戻されます。
「いっ……!」
先ほど襲い掛かってきたゾンビは、不運な事に一緒に落下した際にガラスの破片にこめかみを刺し貫かれた状態で動かなくなっていました。これで噛み付かれる心配がなくなったわけですが、それ以上の脅威が私に迫っている筈です。
手放してしまったAPC9Kへと、呻きながらも手を伸ばします。
しかし私の手がSMGを掴むよりも先に、傍らまで迫っていた足音の主が杖でそれを払い除け、死者の眠るベッドの下まで弾き飛ばしてしまいました。
「ああ……っ!」
「……お客さんかね」
これはこれは、何と珍しい事だろう……そう言いながらローブ姿の老人は、まるでお伽噺に登場する悪い魔法使いのような笑い声を零しながら、先ほど杖で弾き飛ばした私のAPC9Kを拾い上げました。
「ほう、変わった武器を持っている」
「あ、あなたは誰……? ここで一体何を……?」
咳き込みながらも立ち上がり、問いかけました。
悪い人でなければいい、という望みはもうこの時点で捨てていました。黒魔術に手を出してしまった人間は等しく罪人なのです。どんな事情を抱えていようと、悪魔の囁きに、その誘惑に屈してしまった時点で罰を受けねばなりません。
霊体との対話ですら宗派によってはグレーゾーンだというのに、あろうことかアンデッドの使役まで行っていたのです。黒魔術の使い手、と断じても良いでしょう。
興味深そうにAPC9Kを眺めていた老人は、それを作業台の上に置いてからこちらを振り向きました。
「くっくっくっ……その恰好、エレナ教のシスターかね」
「だったらなんだというのです」
「それじゃあ私の敵だ」
そう言いながら、老人は傍らに眠っていた死者の鼻の穴や耳の穴へと差し入れられていたチューブを引き抜き始めました。死体へ何らかの薬品(霊薬でしょうか?)を供給していたのでしょう、引き抜かれたチューブからは紫色の液体が滴り落ちています。
たった今チューブの外れた死体に、老人は杖を近づけました。
その状態でぼそぼそと何か、呪文のような詠唱を始めます。
まさか降霊術か、と思った瞬間に、私はホルスターのグロック17へと反射的に手を伸ばしていました。
そのまま威嚇目的で一発発砲、老人の頭のすぐ脇を一発の聖銀弾が掠めるや、円筒状の空間の壁に命中して甲高い跳弾音を響かせます。
しかしながら、老人は集中しているのか、それともこの程度の事には慣れているのかは定かではありませんが、弾丸が頭の脇を掠めていったにもかかわらず驚く素振りを一切見せませんでした。
次の瞬間でした。
唐突に生じた突風が、薙いだのです。
……風?
そんな馬鹿な、室内で? それも地下で?
堆積した埃とカビの饐えた臭い、それらが長年蓄積された事によってすっかり澱んだ空気には確かに流れが生じていました。それは円筒状の空間、吹き抜け構造になっている壁面に沿って渦を巻くや、堆積した埃を吹き飛ばし、竜巻のようにぐるぐると荒れ狂いながら、徐々にその勢いを増し始めたのです。
このままでは周囲の物体全てが、この暴風の前に押し流されてしまうのではないか―――普通では考えられない現象を前に、これまた普通ではありえないそんな思考が頭の片隅を過りましたが、幸いそれは杞憂に済んだのかもしれません。
ドン、と周囲の空気の体積が、一瞬だけ爆発的に増大したような……そんな錯覚を最後に、風の流れは嘘のようにぴたりと収まりました。
今の隙に作業台の上からAPC9Kを拾い上げ、ストックを肩に押し当てながら老人に銃口を向けます。
その時でした。
ムクリ、とベッドに横になっていた死体が―――かつての魂の入れ物が、まるで生き返ったかのように身体を起こしたのは。
「え……い、生き返っ……?」
「……どうだねシスター」
ゆっくりとこちらを振り向き、既に齢80を超えているであろう老人は得意気な笑みを浮かべました。
「これこそ我が秘術、死者を現世に蘇らせる降霊術よ……これさえあれば、何度でも死者をよみがえらせることができる。やがては死を、生命に定められた終焉すらも克服できるやもしれぬ!」
もしかしてミカエルさんが交戦したデリアちゃんもこうやって、と思い至ったところで、むくりと起き上がったばかりの死者―――犬の獣人と思われる男性の死体に、異変が生じていました。
最初はまるで、鶏肉の骨をへし折ったような音に聞こえました。パキ、と小さく何かをへし折る音。一度だけ聞こえたそれが呼び水になったのか、パキ、パキ、と何度も断続的に聞こえるようになり始めるや、それは段々と感覚を狭めて連鎖し始めたのです。
それは死者の体内で起こった異変のようでした。
顔がぐにゃりと、飴細工のように歪みました。あるいはこね上げた粘土を一度潰し、新しい形を作ろうとしているかのように、顔だけでなく腕が、脚が、胸が、腹が、背中が、人体を構成するあらゆるパーツが歪み、曲がり、もぞもぞと蠢いて、全く別の人間のものへと作り変えられていくのを私はこの目ではっきりと見ました。
やがてそこに立っていたのは、サーバルの獣人の女性だったのです。
中肉中背のイヌ科の獣人男性が、サーバルの獣人女性へ姿を変えた―――骨格も、背丈も、体格も何もかもがすっかり変わって、別人として蘇ったのです。
「むぅ、やはりか……やはりまだ、魂に肉体が引っ張られている」
肉体が……魂に引っ張られる?
いえ、聞いた事があります……人間の肉体と魂は密接な関係がある、と。
単なる中身と入れ物の関係以上に強い結びつきがあって、他人の魂を他者の肉体に移植した場合、その魂の在り方(今では性格や人格と解釈されています)が変わったり、容姿が本来の魂の持ち主に寄ったりすることがある、という話。
しかしそれは都市伝説のような類の話です。第一、そんな事を実践しようものならすぐエクソシストがやってきて宗教裁判が始まります。だから戒律を破る覚悟がない限り、確かめようがないのです。
ですが、目の前でそんな事を繰り広げられては認めざるを得ません。
魂と肉体、それぞれ強い方に弱い方が引っ張られるという事を。
―――ですが。
それは死者に対する冒涜に他なりません。
「どうだねシスター、君も誰か……生き返らせたい人の1人や2人いるんじゃないか」
「何を……?」
「堅苦しい教えなんて捨ててしまいなさい。ここで私と、死を克服するための探求を続けないか」
「死を……克服……」
―――デリアちゃん。
真っ先に思い浮かんだのは、彼女の顔でした。
また、彼女に会いたい。
彼女に会って、今度こそは幸せにしてあげたい。希望に満ちた人生を送ってほしい―――そんな願望が、今まで胸の奥底に押し留めてきた感情が、理性のダムを決壊させる勢いで溢れ出そうになります。
―――でも。
引き金を引きました。
9×19mm聖銀弾が、彼の傍らに立っていた死者の眉間を撃ち抜きました。
どさり、と崩れ落ちる死者。呼び寄せられた魂の入れ物となったそれが再び死体と化し、呼び戻された魂がまたしても天に召されていきます。
それを見て、老人は目を見開きました。
「―――お断りです」
「なん……だと……?」
デリアちゃんを蘇らせる事が出来れば、それはきっと素敵な事なのでしょう。死者の世界に囚われた死人との再会、生命の終焉たる死の完全克服……多くの人間にとっての悲願。
しかし、そんな事がまかり通ればどうなるか。
生と死、古い命と新しい命のサイクルは乱れ、世界は飽和するでしょう。そうなった時に何が起こるのか、私には何となく想像がつきます。
それに。
きっと―――デリアちゃんは、こんな甘い言葉に屈した私なんて見たくないでしょう。
死んでしまった彼女のためにも、命を託されたデリアちゃんのためにも、私は強く、正しく在らねばならないのです。
それが彼女に対する、せめてもの手向けであると信じてここまで生きてきました。
そしてそれが変わる事は、未来永劫ありません。
「そう……そう、か」
わなわなと肩を震わせ、老人はこちらを睨みつけました。
「ならば―――ならばお前も殺してやる。残った肉体は慰み物にでもさせてもらうぞッ!!」
パリンッ、とガラスの砕け散る音。
微かに空気の焦げるような臭いと、空気中を漂う痺れるような感覚。
すたんっ、と小柄な人影が、床の上へと軽快に着地しました。
「―――シスターを慰み物にするって?」
少女のようで、しかし頼もしい声。
ああ―――やっぱり来てくれたのですね。
ミカエルさん。
「―――そういうのはエロ同人でやりな、レーズンみたいな顔しやがって」




