物の怪(モノノケ)
まるでパヴェルのイラストが命を宿し、三次元の世界に飛び出してきたような―――そう表現せざるを得ないほど外見的特徴の一致した少女は、確かにそこにいた。
デリア・エンゲルベルト。6年前に死んだはずの、グライセン出身の少女。シスター・イルゼが火葬にまで立ち会い確実に死を確認したはずの彼女の正体はいったい何か。
テンプル騎士団の機械人間なのか、それともそれ以外の怪異の類か。
過去の亡霊―――しかしその正体を明らかにしない限り、きっとシスター・イルゼの魂が救われる事は無いのだろう。6年前の悪夢を、彼女を殺した感触を、イルゼの魂は決して忘れない。理性がいくら区切りをつけても、済んでしまった事だと割り切っても、イルゼ・シュタイナーという女の魂がそれを許さない。
イルゼが、大切な仲間が一歩を踏み出すためにも。
壁を蹴り、窓枠に指を引かっけて壁を登った。
ハクビシンの獣人……というか、ジャコウネコ科全般の獣人が得意とするパルクール。滑り止めとして機能する肉球と、物体を掴みやすい手のひらの骨格がそれを可能とする移動ルートを選ばないアクロバティックな曲芸だ。
イルゼにはそのまま地上を追ってもらい、俺は一旦屋根の上によじ登った。そこからジャンプして電線の上に乗り、綱渡りの要領で電線の腕を移動。絶妙なバランス感覚で転落する事なく大通りを横断、上からの視点を得てデリアを尾行する。
向こうはこちらに気付いていないようだ。それもそうだろう、買い物袋を抱えて帰路を急いでいるようだ。紙袋からはオレンジにリンゴ、それからノヴォシアでは珍しいバナナもある……アレ高かったんじゃないだろうか。
この世界の今の時代では、バナナはかなりの高級食材だ。それもそのはず、南方でしか栽培されていない果物だから、バチクソに寒いイライナやノヴォシアでは特にバナナは貴重品なのだ。
シスター・イルゼの孤児院でもバナナは半年に一度食べられるか否か、というレベルの高級なおやつだったらしい……こうして考えてみると、好きな時に好きな食べ物を好きなだけ口にできる現代の日本がどれだけ恵まれているのか嫌というほど痛感してしまう。食べ残しをゴミ箱に捨ててる奴を見たら助走をつけてぶん殴りそうなレベルだ。
ごめん話が脱線した。
それにしても……。
「……」
買い物袋が1人分にしてはやや大きいような気がする。
買い溜めしたという可能性もあるが、この世界では冷蔵庫とか冷凍庫は先進的な設備で、大規模な工場にしか用意されていない。だから食料品の保存は基本的に塩漬けにしたり、香辛料と一緒に保管したり、あるいは最初から保存のきく缶詰とか干し肉とかサーロとか、そういう食品を買い込んでおくものだ。
それがリンゴにバナナにオレンジ……まさかアレ全部1人で食うつもりか? それとも仲間と分け合うのか?
誰かと一緒に生活しているのか……彼女の持つ買い物袋からそこまで推測したところで、何となく嫌な予感がした。
考えるよりも先に電線から近くの建物の屋根の上に飛び移り、煙突の影に隠れる。
その直後だった―――俺の気配の消し方が不完全だったのか、それとも向こうが天才的なレベルの索敵能力を持っていたのかは定かではないけれど、帰路を急いでいたデリアの視線がさっきまで俺の伝っていた電線へと向けられているところだった。
白昼堂々電線の上を綱渡りしてついてくる奴なんて絶対ヤバい奴だ、目立つにも程がある……例えば男の娘だったり、夏場にスク水着せられたり、抱き枕カバーとか同人グッズを勝手に造られて毎日のように尊厳を破壊されているようn……ごめん哀しくなってきた。
バレてないよな、とスマホの画面を取り出す。スリープモードにしているスマホの画面には、追手の気配を気のせいと判断して再び歩き出したデリアの姿が映っていて、俺は息を吐きながら安堵する。
いやあ、危なかった。
スマホの電源を押してスリープモードを解除、通話アプリをタップして連絡先からシスター・イルゼを呼び出す。
テーブルの上に置かれたロザリオのアイコンをタップすると、呼び出し音が4、5回ほどループしてから、大人びたシスター・イルゼの声が聴こえてきた。
《大丈夫ですか?》
「ああ、何とか。それより尾行がバレそうになった」
《……さすがにそのランドセル目立つのでは?》
「 そ れ な 」
パヴェルの野郎、身に付けてる事を忘れるレベルでジャストフィットする代物を用意しやがって……何でこんな事に変な才能発揮するのかねアイツは?
「それはそうと、彼女プロっぽいよ」
《え?》
気配の消し方には自信がある。なにせ、元テンプル騎士団特殊部隊のパヴェルからレクチャーを受けた身だ。つまるところ俺はパヴェルの、”ウェーダンの悪魔”とやらの教え子を名乗っていいというわけだ。
俺がヘマをしたというならばまあ、認めざるを得ない。だがしかしそんな追手の気配を断片的に察知するとか、素人には到底無理だとは思わないか?
「一つ聞くけど、デリアちゃんって普通の女の子だったんだよね?」
《ええ、本が好きで大人しい普通の子でした》
「……なるほど、分かった」
何かがおかしい。
死から6年……仮に、その6年間を戦闘訓練とか諜報訓練に費やしてきたというならば、こっちの尾行がバレそうになったのは理解できる。だが……彼女の体格、服の上からの目測でしかないが、訓練を受けたような感じではないように思えてならない。
戦うための身体じゃない、というわけだ。
何かがおかしい。
デリアの尾行を再開したところで邪魔が入った。
大通りにある踏切を彼女が渡っていったタイミングで、踏切の警報機がカンカンと喧しい音を立て始めたのだ。天を向いていた遮断機が降り始めるや、車の往来がストップして、ガタゴトとジョイント音を高らかに響かせながら二階建ての客車を牽引した特急が、踏切を通過していきやがった。
煤だらけになるのを覚悟の上で、屋根の上からジャンプして煙の中に飛び込む。石炭の粉末やら何やらが顔中に付着して、微かにだけど頬がちくちくした。
「ゲホッ―――」
まったく、なんとタイミングの悪
―――目の前に、デリアがいた。
「―――」
こういう時に、日頃の鍛錬の成果が出るのかもしれない。
本能が発した電気信号。発せられたそれは理性の宿る頭をスキップして運動神経に直接伝達されるや、考えるよりも先に身長150cm、体重53㎏の小柄極まりないミニマムサイズのボディを飛び退かせていた。
その直後だった。一瞬前まで踏み締めていた屋根の上に、投擲された短剣が深々とぶっ刺さっていたのは。
攻撃はそれだけにとどまらない。
左手に持った短剣を無造作に投擲するデリア。回転すらせず、切っ先を眉間へと向けて真っ直ぐに飛来するそれを直視しながら咄嗟に時間停止を発動。イリヤーの時計が目を覚まし、世界の全てがぴたりと静止する。
短剣を回避しつつ、左側にある煙突の影へと滑り込んだ。時間停止が解除されるや俺の頭のあった場所を短剣が通過、そのまま大通りを跨ぐ電線の一本を切断して、どこかへと消えていく。
「あら、あら、あら」
つかつかと歩み寄ったデリアは、屋根の上に突き刺さった短剣を引っこ抜いた。
「ストーカーとは感心しないわね」
やっぱりだ、ただ者じゃない。
これ、本当にデリアなのか? シスター・イルゼの話に出てきた、あの哀れな少女の成れの果てだというのか?
容姿は似顔絵の通り、身体的特徴もシスター・イルゼの証言と一致している事からデリアと断じて間違いはないだろう。しかしこっちの尾行を見破ったうえ、反撃に転じるとは……。
グロック17Lカービンにサプレッサーを装着しながら、デリアに問う。
「デリア……デリア・エンゲルベルトだな」
「だったら何?」
「お前―――何で生きてる?」
ものすごく阿呆らしい問いに、短剣を手にしたデリアは一瞬だけ目を丸くしてから冷笑を浮かべた。
「ぷっ……ふふふ、なあに? あなたには私が死人に見えるの?」
まあ答えてはくれないよな……。
ならば仕方がない。人差し指をグロック17Lカービンのトリガーにかけ、心の中でシスター・イルゼに詫びながら、足元の屋根を蹴って煙突の影から飛び出した。
パシュパシュ、と二度の静かな銃声が響き、装着されたサプレッサーの中で発射ガスの勢いをある程度殺された9×19mm弾が、デリア目掛けて躍り出る。
足や肩といった急所にならない部位を狙ったわけだが、しかし撃った頃には既にドットサイトのレティクルの向こうにデリアの姿はなく、何も無い空間だけがあった。
―――速い。
時間停止を発動、後ろに下がる……のは罠だ、一歩前に出てから後ろを振り向き、グロックを構える。丁度そこで時間停止が解除され、再び動き出した時間の中を短剣片手にデリアが飛びかかってくる。
背後からの一撃で仕留めるつもりだったのだろうが、しかし目の前から俺の姿が見えなくなり少し混乱したらしい。確実に殺せたはずの相手の消失、そして気が付いたら逆に銃口を向けられているという現実に、先ほどまで余裕だったデリアの顔に緊迫した色が浮かんだ。
だが、そうは簡単に倒れてくれないらしい。
逆手持ちにした短剣を咄嗟に投擲するデリア。俺の顔面目掛けて投げ放たれたそれを紙一重で回避するが、よりにもよってカービン化したグロックのサプレッサーに真正面からぶっ刺さりやがった。
歯を食いしばりながらグロックを投げ捨て、ホルスターからターシャリ・ウェポンとして用意していたグロック43を引き抜く。
ドパン、と9×19mm弾の咆哮が轟き、同時にスライドが後退……薬莢が躍り出た。
弾丸はデリアの胸、丁度心臓がある辺りを射抜いていた。
やってしまった、と目を見開き、崩れ落ちるデリアに慌てて駆け寄る。
彼女は目を見開いたままだった。丸い目をビー玉みたく見開いて、口を中途半端に開けたまま事切れている。手足には既に力はなく、身体は氷のようにひんやりとしていて……。
―――待て、何か様子がおかしい。
殺してしまったという罪悪感は、第二宇宙速度で忘却の彼方へ吹き飛んだ。
先ほどまで短剣を握っていたデリアの手を握ってみる。その感触はひんやりと冷たくて、まるで死んでからそれなりに時間が経ち、死後硬直が始まった死体を触っているかのよう。
おかしくないか?
先ほどまで殺し合っていた人間が、死からこんな十数秒でここまで冷たくなるものか?
「……?」
それだけではない。
9×19mmパラベラム弾に撃ち抜かれた胸の傷―――そこには肉が拳銃弾に抉られた傷跡だけがある。その内側はまるで、皿に盛りつけられた生ハムのような質感で……。
「……血が出てない?」
そう、血が出ていないのだ。
風穴の内側の肉も乾燥していて、とてもではないが、生きた人間の身体とは思えないのだ。
そしてトドメになったのが、デリアの死体の顔だった。
「……!?」
傷口に注意が向いていた間に変化したとでもいうのだろうか。
そこにあったのは、デリア・エンゲルベルトという少女の顔ではなく―――どこの誰かも分からぬ、1人の女性の顔だったのである。
髪の色も金髪ではなく黒髪に変わっていて、真っ白だった頬にはソバカスが浮いている。目つきもタレ目になっていて、頭から生えているケモミミは狐ではなく鹿のものに変わっていたのだ。
これはいったい……?
スマホを取り出し、死体の写真を撮影してからメールでシスター・イルゼに転送。間髪入れずに彼女を呼び出すと、呼び出し音2回目でイルゼが出た。
《もしもし》
「画像、見た?」
《はい、これはいったい?》
「デリアに襲われてやむなく射殺したんだけど……おかしいんだ。身体が異様に冷たいし、血も出ないし、それにいつの間にか顔が変わって別人になってる」
《……私も行きます、合図を》
「……了解」
通話を終え、スマホをポケットに戻しながらデリアの……いや、デリアだった筈の死体を見下ろす。
単なる過去の亡霊などではないのかもしれない。
どうやら俺とシスターは……ちょいとばかりヤバい案件に片足を突っ込んだようだ。




