小さな棺
揺らめく紅い炎を、私はいったいどれくらいの間見つめていた事でしょうか。
燃え盛る小さな棺。その中に収まっているのは、無数の真っ白な花のベッドに寝かされた、まだ9歳の幼い命。哀れな運命の元に生まれ、けれども一生懸命に生きて、生きて、ようやく見えた希望の光へと一歩を踏み出そうとしていた、無垢な生命。
どうしてこんな事になったのでしょう。
もう、涙は出ませんでした。
あの子の心臓を銃で撃ち抜いた後、私は狂ったように泣きました。あんなに声を上げて泣いたのはいつぶりだったでしょうか……。
それだけ涙を流したのです、もうきっと枯れ果ててしまったに違いありません。一生分の涙をきっと使い切ってしまったのです―――そうとしか思えませんでした。
事の顛末は、何ともやりきれないものでした。
黒魔術による悪魔召喚―――宗教上の最大の禁忌を冒した容疑者は、しかし両名とも死亡。教会による調査では親子3人の血を使って魔法陣を描いて悪魔召喚を試みた結果、召喚された悪魔はデリアちゃんの肉体に憑りついて実体化、その直後に両親を殺害した可能性が高いというものでした。
結局、容疑者死亡のためこの一件は誰も検挙される事無く、粛々と処理される事になりました。悪魔召喚を主導したデリアちゃんの両親の遺体は、街の郊外にある『罪人墓地』へとひっそり埋葬されました……生きて罪を償う事なく、死んで罪から逃れようとする者たちに対する罰の1つです。そうした人たちは墓石に名前や生きた年数、死因すら何も記されず、何も刻まれていない真っ黒な墓石の下に埋葬されます。その墓標にはどこの何という人が眠っているのか、生者には何もわからないのです。
ただ共通しているのは、その黒い墓石は罪を犯した許されざる者たちの墓標を意味する、という事だけ。
後世に名も残らず、罪を犯した証だけが記され、やがて誰もが存在を忘れていく―――罪と向き合わず死して逃げる卑怯者には相応の罰である、と皆さんは口をそろえて言いますが、しかし私にとって今は、今ばかりはどうでもいい事でした。
火葬が始まる前、棺の中のデリアちゃんと最期のお別れをしました。教会の皆さんが参列して、棺の中に花を納めていく中、私は花と一緒に、一冊の本も棺の中に納めました。自室の本棚にあった恋愛小説です。デリアちゃんが両親に引き取られなければ、彼女に貸す筈だった一冊。
せめて、天国では大好きな本に囲まれて幸せに眠って欲しいという願いを込めて。
棺の中のデリアちゃんは、本当に安らかな顔をしていました。
悪魔に憑りつかれ、殺してと懇願していた時の表情が嘘のように。
今でもフラッシュバックします。顔の半分は狂気的な笑みを浮かべ、しかしもう半分は絶望に染まり切って、目の前の希望に必死にすがろうとする彼女の顔。マイナスに振り切れたベクトルの異なる感情を1つの顔に押し込めたような混沌が、確かにそこにはありました。
回収されたデリアちゃんの遺体は、損傷がとにかく酷い状態でした。
私が撃った胸の傷もそうでしたが、しかしそれ以外の部位と比較するとあまりにも小さな傷でしかなかったのです。
身体の形こそ人間のままでしたが、けれどもその小さな肉体の内側では、臓器や筋肉、骨格に至るまでが悪魔のものに置き換えられ始めていたようなのです。血はインクのようにどす黒く変色して、肉は紫色に、骨は闇色に染まり切り、明らかに人間のそれではありませんでした。
しかし哀れな少女にせめて人間としての尊厳を保ったままの死を、という事で、教会のシスターたちは彼女の遺体をそっと修復しました。傷口を縫い合わせて、悪魔の翼が突き出ていた背中から翼を切り取り、傷を塞いで、すっかり血の気が引き冷たくなった彼女の身体を綺麗に洗いました。
彼女のために、出来る事は全てやりました。
全て……やったつもりでした。
けれども、本当でしょうか。
他に別の選択肢は無かったのでしょうか。
あの時、デリアちゃんに言われるがままに引き金を引いた私の決断は、本当に正しかったと言えるのでしょうか?
彼女を助ける手はあったかもしれません。まだ残されていた可能性を、小さな命諸共に摘み取ったのは他でもない、この私なのです。
「……シスター・イルゼ」
ぽん、と肩に大きな手が置かれました。
いつの間にか、隣にルーデンシュタイン神父が立っていました。
「……自分を責めてはいけない。君はあの時、エクソシストとしての責務を全うしたのだから」
「……神父様、教えてください」
ゾッとするほど、自分の声からは生気を感じませんでした。
まるで私の意思が、死体に宿って生者の声を真似しているような……そんな感じだったのです。生きる意志を失った人間の声、とでも言うべきでしょうか。
あまりにも様変わりした重苦しい声に、神父様もぎょっとしているようでした。
「デリアちゃんを助ける手は……無かったのですか」
「……ない」
冷酷なまでの現実を、神父様はそっと突きつけます。
「悪魔に身体を乗っ取られたら、元の人間の魂や精神は悪魔の魂に吸収され、消え果てる。仮に悪魔を身体から追い出したとしても、そこに残るのは魂も何もない抜け殻同然の身体だけだ」
「……」
「デリアちゃんは、最期の力を振り絞って自分の命を君に託したんだ……シスター・イルゼ、君はベストを尽くしたんだ、それ以上自分を責めてはいけないよ」
「……はい、神父様」
今になって、黒魔術に手を出す人の気持ちが分かったような気がしました。
黒魔術の中には、死者をあの世から呼び戻す禁術も存在するといいます。生贄を必要とする方式のものから、悪魔を召喚して間接的に叶えてもらう方式のものまで。
もし、今目の前にそんな禁術を記した書物があったならば、私は大喜びでそれに手を出したことでしょう。あんな理不尽で、哀しい最期を遂げたデリアちゃんを生き返らせようとして、聖職者としての道を踏み外していたに違いありません。
人間とは、なんて弱いのでしょう。
押し寄せる絶望に、冷徹な現実に、いとも容易く心折られてしまう。
そして悪魔が囁くのです。傷つき、苦しむ人々の耳元で甘い言葉を。
棺が完全に燃え、デリアちゃんの亡骸が灰になる瞬間まで、私はずっと炎を見つめていました。
その1ヵ月後、私はエクソシストを辞めました。
デリアちゃんの一件には区切りをつけたつもりでした。けれども街中で彼女と同い年くらいの子供を見ると、一瞬だけデリアちゃんの姿に見えてしまったり、彼女が夢に出て来たり……酷い時は幻聴も聞こえてきて、とてもではありませんがアンデッド討伐など出来る状態ではなかったのです。
このままではシスター・ヒルダやシスター・カトリン、シスター・レーネを危険に晒してしまうと判断した私は、神父様に辞表を提出しました。
辞表を受け取った神父様は、あまり驚いてはいないようでした。近いうちに私が辞表を出すのではないか、とあの人なりに予想していたのでしょう。
今でもよく覚えています。「よく頑張ったね、シスター・イルゼ」……それが、辞表を受け取ったルーデンシュタイン神父の言葉でした。
その後、私は異国の地への異動を奨められました。神父様曰く「辛い思い出のあるこの国ではなく、どこか異国の国に行ってエレナ教の教えを広め、そこで人々を救いながら心を癒しなさい」というのが、異国への異動の理由だそうです。
エクソシストは続けられませんでしたが、しかし信仰心までは捨てたわけではありません。
私はその異動命令を受け入れ、同じ分隊のエクソシストたちに別れを告げてから、遥か北方のイライナの地―――アルカンバヤ村へと向かいました。
そこで私は、のちに出会う事になるのです。
庶子として生まれながらも、逆境に果敢に立ち向かっていく小さな英雄―――ミカエルという、可愛らしい獣人の少女に。
彼女の話が終わると、頬を熱い雫が伝っていくのがはっきりと感じられた。
ああ、泣いてたんだな―――そう思いながら涙を拭い去り、咳払いする。
このギルドに居る仲間の過去は、みんな苛酷なものだ。
クラリスは異世界からこの世界にやってきて戦争になり、モニカは貴族として生まれながらも政略結婚のための道具にされるという俺に似た境遇で、範三は家族や仲間を皆殺しにされて復讐に走り、カーチャは家族を失い絶望の中で武器を手に取る―――。
シスター・イルゼも話の中で「人間は弱い」と言っていたが、本当にそうだろうか。
確かにそうかもしれない。人の心は恐ろしいほど脆くて、ちょっと残酷な現実を突きつけるだけで簡単に曇ってしまう。
けれども人には、それを乗り越える力がきっと備わっている筈なのだ。そうでなければ、今この場に居る仲間たちはとっくの昔に道を踏み外していたり、仲間の後を追ったりと悲惨な末路を辿っていた筈である。
「……ごめんなさいね、お勉強中に長話をしてしまって」
「いや、いいんだ」
言いながら笑みを浮かべた。
「誰にだって辛い時はある。そしてそれは大概、誰かに聞いてもらいながら吐き出すと楽になるものだよ」
ストレスは溜め込んでおいてもろくなことがない。そういう負の感情は人に迷惑をかけない手段で、とにかく発散してしまう事が一番だ。その辺の壁を思い切り殴りつけたっていい……拳をぶち壊さなければの話だけど。
ちびちびやっていたタンプルソーダの瓶はすっかり空になっていた。俺の分とシスター・イルゼの分を手に取って、カウンターの脇にある空き瓶再利用ボックス(火炎瓶に作り変えたりするために空き瓶は再利用しているのだ)に収めてから席に戻ると、シスター・イルゼは何かを決心したように息を吐いた。
昔の辛い話をして、全てを吐き出し終えた開放感に満ちた顔はごく短い時間で消えてしまっていた。
「それでミカエルさん、本題に入るのですが」
「待って、本題これから???」
あの、ちょっとその、クッソ重い話聞いてたわけですがアレ前座だったの???
「ああ、ごめんなさい……ええとその、”もう一つの本題”と言うべきでしょうか」
「……続けて」
言いながら着席すると、シスター・イルゼは意を決したように目を細め、口を開いた。
「―――その、私が殺したはずのデリアちゃんが姿を現したのです」
「……テンプル騎士団か?」
真っ先に思い至ったのがそれだった。
テンプル騎士団―――連中の持つ技術を使えば、死者にそっくりな外見の機械人間を生み出して送り込む事だって容易いだろう。事実、連中は既にそういうことを何度もやっている。要人を殺害して、その相手の外見や細かな仕草まで完全にコピーした機械人間とすり替えて、この世界を裏側から操っているのだ。
一番あり得そうなのはそれだ。幽霊だとか、誰かが禁術で蘇らせたとか―――そんなオカルトな話でもあるまい。まあ、幽霊にはマジでエンカウントした事があるので有り得んと言い切れんけども。
でも、少し違和感を感じた。
仮にテンプル騎士団だったとしよう。機械人間を使い、そのデリアちゃんとやらにそっくりな機械人間を用意してシスター・イルゼの目の前に現れたと仮定しよう。
―――なぜ、死んだ事が明確な人間を擬態対象に選んだ?
テンプル騎士団の機械人間で一番怖いのが、”いつの間にか機械人間にすり替えられている”事だ。ついさっきまで仲良く話していた人間が、少し目を離した隙に機械人間にすり替えられていて、連中のスパイや工作員にジョブチェンジという笑えない手段を現実にできるのが、連中の技術力である。
しかしそれも、死んだ事が明確な人間を擬態対象としては意味がない。
シスター・イルゼの話では彼女もデリアの葬儀に参列して、火葬まで立ち会ってきたという。つまり殺したその瞬間から彼女の亡骸が灰に変わるまで、ずっと見届けているのだ。
だからデリアの姿で彼女の目の前に姿を現したところで、明らかにそれは異常事態でしかなくこちらの警戒を強めるだけになってしまう。
そんな無駄な事に、連中がリソースをつぎ込むとも思えない。
「テンプル騎士団であれば、わざわざ死んだ事が明確な人間を機械人間の擬態対象には選ばないでしょう」
シスター・イルゼも同じ結論に至っていたらしい。
「それに、私に揺さぶりをかけたところで血盟旅団の戦力には大した影響はありません。私……皆さんと比べると、ずっと非力ですから」
ふふふ、と自嘲気味に笑うシスター・イルゼであるが、エクソシストだった事とアンデッドの討伐経験があるという時点で何というか……その、少なくとも非力ではないと思うんですが。
それはともかく、今回は少しおかしい……テンプル騎士団っぽいが、連中が関与しているとは少々考えにくい。
第三者か、それとも……。
「……とにかく、気になるなら俺も協力するよ」
「ありがとうございます、ミカエルさん」
「いいって。仲間だし」
だからもっと頼ってよ、とウインクしながら言うと、シスター・イルゼは目を丸くしてから顔を紅くして、どういうわけか目を逸らした。
ん、なんで???
ミカエル君のウインクとかいう国連制裁対象レベルの大量破壊兵器




